魚川祐司のレビュー一覧
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仏教の目的である「解脱・涅槃」とはどういうことか?
その他、縁起や無我など基本的な仏教で重要な要素について解説されているが、しかたないとはいえ、専門用語は多い。
ただ、あくまでも著書はテーラワーダの視点から述べており、大乗仏教に対しては、読み手からはやや否定的と感じる立場である。
その立場も、日本の行学のない仏教への失望から来ているのかな、とも感じた。
ブッダのしなかった葬式法事を最大事とし、観光や地域振興、慈善事業などの世間的な善だけ、自己と向き合い煩悩と格闘することさえ稀な日本の仏教。
失望するのも仕方ないかなと思う。
ただ、著者が平生業成の教えを知らないであろうことは残念である。 -
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藤田氏の言う「感じて、ゆるす仏教」が、どのように成立し、どのようなものなのかを理解するため、魚川氏が切り込んでいく。現代の仏教のあり方を考える上で試行錯誤されている様子が垣間見えた。
対談形式なので読みやすく、わかりやすくはあるが、仏教(特に禅宗、上座部)の知識がある程度必要かもしれない。
素人ながら、ひとつだけ気になったのは魚川氏の「動物化」という言葉。あれほど「無我」を言いながら、ヒトと他の動物の間に線引きをしているのは奇妙に思えた。輪廻転生の文脈では自然なことなのかもしれないが、あらためて思えば、それも人間のエゴ(無明)ではなかろうか。藤田氏の言うように「畜生=比喩的表現」と考えるほうがしっくりくる。 -
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真宗系の本ばかり読んでいるが、いったい上座部仏教ではどのように仏教を解釈しているのかを客観的に知りたくて読んだ。著者が宣言している通り、信仰者ではなく、仏教哲学に基づく悟りの実践者としての立場から、典拠を明示してブッダが求めた悟りについて簡潔に分かりやすく記述されている。
テーラワーダはこういう風に考えているんだという事が理解できた。
自分自身は、まったくこの分野に詳しくないので、これが正しいかどうかに関しては判断しかねるところがあるが、日本の大乗仏教と今いる上座部仏教との大まかな違いが分かったのは収穫である。
なお、テーラワーダのパーリ語経典に関しては、ブッダの言葉を翻訳している点と、一部存在が不明になっていた時期もあることから、漢訳の阿含経より新しいのではないかという疑惑もあるので、何が原点なのかという事はよくわからない。
少なくとも、上座部仏教も、大乗仏教も、人間の苦の開放を目指していることには間違いがない。それが時代や民族の文化と共に変遷したとしても自然なことだろうと思う。
非常に刺激的な内容であるので、仏教哲学一考として読むのはいいと思うが、これを読んで実践に走る前にもうちょっと勉強した方がいいのではないかと思う。 -
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ヨガやスピリチュアル界隈でも同様に散見される「あるある」について、よく分析されており、ヴィパッサナー瞑想合宿に参加したり、マインドフルネス・ブームを傍から眺めつつ抱いていた、なんとも表しがたい違和感の正体を掴むヒントが詰まっていた。プラユキ先生のチャート表は非常に良く出来ている。
瞑想の世界にも「瞑想難民」なんてことが言われているらしい。唯一無二の正しさを求めてようとしてしまう→言わば外的な何かに期待してしまう、もしくは逆に疑いから始まって拒絶で終わってしまうからなのかも。ある教え・やり方を信じ、それに従う、ということを「自己の責任において」決めるということが発端にない、という人は割と多いように思う。 -
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仏教の目的は解脱する(悟りを開く)ことです。
それを忘れた宗派は「名ばかり仏教」であると私は思ってます。本書はそんな思いを少し肯定してくれる部分もあり、それを「大乗」の奇妙さとして書かれています。これだけ初期仏教から乖離した日本仏教が、なぜ仏教を名乗っているのか?それに対する著者の考えにも納得です。そして初期仏教から変容し続けたからこそ、日本まで伝わったと言う説明はとても腑に落ちました。
本書の内容はかなり専門的で、周囲よりもちょっと仏教を知っているくらいでは、読むのが大変です。実際かなりの時間がかかり、しかも理解できてない部分も多かったです。しかも著者は自分は仏教徒ではなく、探究を楽しんでいるだけだとも言います!!今までにない仏教に対する視点を与えてくれた貴重な一冊です。内容は難しいけど...。 -
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ブッダのいうところの悟り、解脱、涅槃とはなんなのか?
そして、ブッダは解脱したあとで、どうして、そのまま死なずに、人に教えを伝えたのか?
という問題に明快な答えを出しています。
(2番目の問題は、この本を読んでみないと、どうしてそれが問題なのか分からないのだけど)
仏教、とくに原始仏教に興味があって、ときどき思い出しては、読んでいる。大乗仏教の教典に比べるとシンプルで分かり易いのだけど、分かり易いがゆえに、すっきりとしないところがあった。
それは多分、
・どうしてすべては「苦」なの?(人生、楽しいこともあるじゃん)
・輪廻転生って、本当にあるの?(あるいとしても、無我ということと矛盾しない?)
・輪廻から脱する、つまり完全にいなくなる、つまり完全に死んじゃうというのが、どうして求められるゴールなわけ?
・そもそも、悟りって、なんなのよ?
・解脱すると具体的にどうなるわけ?
みたいな疑問だったと思う。
で、この本は、このすべての疑問にとても明確に、整合的に応えてくれる。個人的にはかなりスッキリしました。
ここに書いてあることが好きか、嫌いかはべつとして、そもそもブッダが説いた教えはこんなものだったに違いないと思う。(原始仏教の教典が整合的に読めるので)
で、こうして分かってみると、とてもシンプルで、もうそうとしか読めない。どうしてこれまで、分からなかったのか、分からなくなる。
本書では、日本におけるよくある理解(誤解)を取り上げながら、そういう理解はありえないことを説明してあって、自分もまさに「仏教とはこういうものだ」という考えから、ブッダの言ったことはこういうことに違いないと日本的な誤解をしていたんだな。目から鱗がぼろぼろ落ちた。
要するに、知らない間に大乗仏教を通じて、ブッダを読んでいたわけですね。別に大乗仏教を信じているわけではなくても、なんとなく日本的な言説・風土のなか、その思想が深く埋め込まれているわけだね。
大乗仏教がいいのか、原始仏教がいいのか、という問題ではなくて、まずはブッダ、原始仏教が言っていることを素直に理解してみて、それを踏まえて、大乗仏教とか、さまざまな流派がどう違うのかを理解していくことが大切だと思った。(まあ、宗教としての仏教を考えれば、あとで生じたさまざまな流派は、「ブッダが本当に言ったことはこれだ」というわけで、「ブッダの教えをこういうふうに改善しました」とは言わないわけだからね。) -
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私自身仏教徒ではないが、仏教の思想というものには元々興味があって、教義とは別に仏教を解説してくれるような本書は非常に興味深い。
著者も仏教徒ではないが大学やミャンマーで仏教を学んでいる。ミャンマーの瞑想センターで瞑想している西洋人に「あなたは仏教徒ですか?」と訊ねると「そんなことはどうでもいい(I don't care)」と返ってくる。己の生き方についての指針自体はすでにある程度持っていて、その実践のために仏教的手法を採り入れてみよう、という感覚であるし、我が意を得たりという発見でもあった。
これは絵を描くにあたり、油絵で描いてみたり、水墨画で描いてみたり、写実主義によってみたり、シュールレアリズムによってみたり、という手法の選択にも似ている。大事なのは描きたいものを描くことであって、それに適した(あるいは表現者が好む)表現方法を選択すればよいという話であって。
宗教とは教祖あるいは経典を崇拝し、すべて教祖、経典の言うがままに従うというものではない、というのは日本人ならおおむね自然に身に着けている発想で、葬式は仏教、結婚式はキリスト教、地鎮祭は神道と目的や趣味趣向によって宗教的手法を使い分ける。
ただこの「自然と身に着けている」というのが案外と厄介で、自然にできるからこそ「何故」を問いかけられると答えに詰まってしまう。呼吸は自然にできるが、「どうやって呼吸しているのか」と問われて正確に答えられる人は決して多くはないのではないか。
そうした自然な心の動きを改めて認識し、在るものを在るものとしてとらえることで、また新しく見えてくるものもあるのではないか。
余談。
P.202
『もしかりにゴーダマ・ブッダ滅後の世の中に、そのような「正しい仏教(引用注:ブッダが実際に説いた教えやその価値判断に厳密に従っているもの)」以外の仏教が生まれてくることがなかったとしたら、それは数千年の時間と数千キロの距離を越えて、私たち現代日本人にまで伝わり、そして受容されることはおそらくなかった。』
仏教が発祥の地から遠く離れて、長い時を超えて生き続けたのは、その変幻自在というか、「物語の裁量」というものがあって、だからこそ多くの宗派が生まれ、互いに矛盾さえしながら多様性を広げてきた。
これはなんというか、「参加できる」「ライブ性」のようなものであって、アイマスのプロデューサー概念をはじめとした多くの二次創作コンテンツもそういった要素があるからこそファンを増やし情熱が継続しているわけで。
そういう視点から考えると「蓬莱学園」というコンテンツが、「学閥」なんてものを生み出すほどに強く深く人々に受け入れられたのは、その変幻自在な懐の深さだったのかなあ、などと本書を読んで思った次第。 -
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プラユキ・ナラテボー師は良いね。魚川祐司だけだと、なんだか、慈悲がないカンジがするんだけど、そこにナラテボー師がいると、やさしさがあって、ホッとする。
p43
現在アメリカを中心に流行っているマインドフルネスの源流を作った草分け的な存在の1人がジャック・コーンフィールド。
彼はマサチューセッツでInsight Meditation Societyという瞑想センターの共同創設者。
彼は、まずタイで、アーチャン・チャーのもとで修行する。チャー師は、ダンマの教師としては偉大だったが、瞑想上の経験には興味が無かった。
そこで、コーンフィールドは、ミャンマーのマハーシ瞑想センターに行く。
ここで出会った師は、瞑想の指導者としては勝れていて、コーンフィールドは、瞑想上の様々な境地を実際に経験することができた。
しかし、この師は、足をテーブルの上に乗せて新聞を読む。下手な庭師を怒鳴りつける。庭に入ってきた犬に石を投げる。
すなわち、瞑想の技術において勝れていることが、そのまま人格的に優れていることではない。
マサチューセッツのInsight Meditation Societyでは、ミャンマーの瞑想法も、タイの瞑想法も、教える。
実践の多様性がある、ということ。
p57
ブッダは『カーラーマ経』で
「師が言うからといって信じ込んではいけない」
「経に書かれてるからといって信じ込んではいけない」
と述べ、
「不利益や苦しみを招かないかどうか」自ら理性的に判断することを促している。
p55
ダンマに従って生きる人々の資質や目的は多種多様である。
それぞれの求道者の目的地である、さまざまな覚りの境地に至るための、さまざまな道のりと乗り物がある。
同じテーラワーダ仏教でも、魚川裕司のいたミャンマーと、プラテボー師のいたタイでは、違うんだ。
スリランカ、カンボジアでも、また、それぞれ違うテーラワーダがあるのだろう。 -
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気鋭の仏教関係者二氏による対談集。
瞑想をメインに書かれているので、日常的に瞑想されている方には新たな発見があるかもしれない。特に「瞑想中はいいんだけど、終わってからとか、仕事中にほとんど活かせていない」といった習熟者には向いていると思う。また瞑想したことのない方にとっては、最新のアプローチで書かれているため、最初の導線としてはベストに近いと思う。
また「日本人にあまり根付いていない輪廻転生の問題をどう考えるか」「高僧の師同士であっても見解が異なることがある」「仏教要素をのぞいたマインドフルネスの実態」など、かなりきわどい対談が繰り広げられており、読む者を飽きさせない、そして考えさせられる良著。瞑想難民は必読と思われる。 -
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副題の通り、仏教徒になるつもりはないけれど、仏教や瞑想によって開かれる境地に興味があるという人を対象にした仏教および瞑想の入門書である。
「悟り」というのは唯一のものではない
各々の瞑想法には目的の違いがある
瞑想をすれば人格が良くなるとは限らない
自由というのは思いのままに振舞うことではない
悟ったからといって辛さがなくなるのではない
瞑想することによって失われる感覚もある
「信仰」によって合理的思考力は毀損されない
俗世に積極的に働きかけることも仏教の大切な側面である
…などなど、興味深く刺激的な内容が並んでいた。自分の中に漠然と存在していた仏教に対する偏見が次々と解消され、新たな知見が開けていくのは爽快であった。
この本は、普通の人が仏教に触れることの価値を、誇大表示することなく真摯に提示することに重きを置いている。瞑想についても、利点と欠点をちゃんと示し、それらを理解した上で瞑想を実践してもいいし、しなくてもいい。するならば、目的をはっきりさせ、それに合った瞑想法を選びましょう、と述べている。価値観を押し付けることなしに正しい知識を提供してくれるという点で非常に優れた入門書だと思います。
私自身は、本書に載っている手動瞑想をしばらくやってみようと思いました。