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ブッダの直弟子たちは次々と「悟り」に到達したのに、どうして現代日本の仏教徒は真剣に修行しても「悟れない」のか。そもそも、ブッダの言う「解脱・涅槃」とは何か。なぜブッダは「悟った」後もこの世で生き続けたのか。仏教の始点にして最大の難問である「悟り」の謎を解明し、日本人の仏教観を書き換える決定的論考。
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Posted by ブクログ
素晴らしい。明らかに経典から読み取れる内容をかみ砕いて伝えてくれている。 加えて、魚川さんのスタンスが、あらゆる流派を、それは探求ゆえに違いとして包含しようとしていて、その上で、ここだけは原始仏教の言っていることと違う!としている。
面白い。一般の読者目線で、非常に平易かつ分かりやすく書かれている。よく陥りがちな疑問にもしっかりと回答されている。一気に読み切った
2024.10.5〜 再読中。少しずつ追記していきます。 【はじめに】 「それだよ私の知りたかったことは!よくぞ書いてくれました!」と興奮させてくれる。もうここからぐっと引き込まれる。曖昧に濁そうとしない文章は気持ちが良いほど明瞭でわかりやすく、「愛してる…」となる。本書は仏教を「わかる」ための本...続きを読むであり、そのために①ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃(仏教の目的・本質)とは何か、②彼は「悟った」後、なぜ死ななかったのかが明らかにされていく。 【第一章】 本書は、仏教を「人間として正しく生きる道」なんて陳腐なワードで説明することをまずはっきりと否定している点において信頼できる。むしろ労働や生殖という、多くの人がフツーだと思っていることを禁止しているヤバい教えを解いているのが(ゴータマ・ブッダの)仏教なのだなという感想。 【第ニ章】 さて、ここから一気に仏教用語が多々登場。仏教の基本である「縁起」と「四諦」についての説明。 仏教は「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)を目指すもの。私たちが「迷い」(癖になって煩悩を垂れ流し続ける)の状態にあるのは、「縁起」の法則によるものだという。 「縁起」とは「原因(条件)があって生起すること」を指すが、「縁起」の性質を詳しく言うと「三相」=「無常」「苦」「無我」になる。 つまり、すべての物事は「縁起」によって形成されているわけだが、それってあくまでその原因や条件が消えればなくなってしまうものだから、恒常的なものではない。(「無常」) そんな一時的なものに欲望を抱いたところで不満足(=苦)に終わるしかないし、不満足には終わりがない。(「苦」) また、物事は思い通りにならない。それは自分の体でさえ(望んでないのに病気になるし)も、心(心に浮かんできた思いや欲望は、自分で浮かばせているわけではない)でさえもそう。コントロールできない。(「無我」) というわけで、「縁起」とは、ただ「原因(条件)があって生起すること」を指すだけではなく、私たちの陥っている「迷い」や「苦」(不満足)の状態を形成している法則だということになる。(だから仏教で重要視される。) ちなみに↑の「原因(条件)」とは、「業」=「後に結果をもたらすはたらき」のこと。私たちは過去に積み重ねてきた無量の「業」の結果として存在し、欲望を追い求める癖もついてしまっている。それは終わりのない不満足(輪廻的に繰り返す)。そんな状態(「惑業苦」)から抜け出す真理「四諦」があるよ!と方法論を打ち出した点が当時は新しく、仏教の魅力とも言える。 「四諦」(四つの真理) ・「苦諦」:私たちの生は総じて苦であることを「八苦」(生・老・病・死・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦)として説明。 ・「集諦」:苦の原因(集起)は「渇愛」=欲望、有愛、無有愛。 ・「滅諦」:渇愛を限りなく徹底的に滅尽させることで苦からの解脱が可能(苦の原因は渇愛だから)。 ・「道諦」:苦(=渇愛)の滅尽のための方法は「八正道」(「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」)。 つまり「四諦」とは、「自らの苦なる現状を(中途半端にではなく)徹底的に知った上で、八正道を修習して、苦の原因である渇愛を捨断し、解脱・涅槃を実現する」ということ。 【第三章】 善悪について。仏教における悪とは、「十悪」(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)であり、善とは十悪を行わない「十善」のこと。 ただそれは個別の事例を指すのみなので、後代の教理学では善悪の基準を「善」=行為者に幸福をもたらすもの、「悪」=行為者に不幸をもたらすものと定めた。 仏教の目的は涅槃であり、それは善や悪を含む価値判断から解放された境地=「脱善悪」だが、善を行い悪を行わないことは、↑の意味からでも勧めた。 また、社会で問題なく生きていく意味でも。そのためにサンガの規則=律がある。
著者は、諸行無常・寂滅為楽とする原始仏教から逸脱して衆生救済を掲げる大乗経が「なぜ仏教と名のれるのか」という疑問から出発するが、滅後百年頃の小乗経と数百年後の大乗経を区別しない。歴史的釈迦に現代でもっとも近いのはおそらく禅宗とする/ミャンマーから世界に広がっているテーラワーダ仏教では悟りは実在し、人...続きを読む格が良くなることではない。ブッダは自らの證得した法が「世の流れに逆らう」から語らないつもりであった。解脱者は「凡夫が生の内容だと思っているもの」をいったん否定し、執着を捨て善因楽果悪因苦果で個人人格輪廻を否定
本書を入門書や注釈書といって良いものか? ゼロポイントの題通りに、ど真ん中を、引用、知性を持って理論的に説き明かしていく。そしてそれは筆者の裏付けのある実践でもって支えられている。 仏教用語に関する予備知識や仏教に触れる経験があった方がより興味深く読めるとは思います。 歴史を振り返ったりスッタニパー...続きを読むタ等についての解説もあるが、畢竟、至極当たり前の事が書かれています。 しかしこの視点で書かれた仏教書は多くはない気がします。 ここ20年で読んだ仏教書では最良の一冊であると思います。 本当にお勧めします。
仏教がアナーキーかつラディカルで、しかもプラグマティックであることを隠すところなく伝える本。 生き生きとした筆致にもかかわらず、内容は慎重を期していて、信頼が置ける。 釈迦が輪廻を否定したって私も思っていた!どこで習ったのだろう。。
瞑想の考え方について知りたいと思い手に取ったが時間がなくざっと読んだだけなので、瞑想の参考に出来るほどのものは得られなかった。しかし涅槃や悟り、仏教の起源については初学者の自分にも分かりやすく書かれていた。今回読めていない部分が多いので再読したい。
やや難解な内容ではあったがゴータマ仏教の神髄に触れられたような気がする。まだわかったようなわからないような状態ではあるけど、それこそ簡単にわかったらもっともっと解脱する人も多いだろうし。
生きることの苦に対する姿勢が仏教だとすると、生きることが楽(喜)だと思っている自分はどうなのか。 その楽が原因で苦がくるのか。あるいは楽には楽の生き方があるのか。 探っていきたいと思った 理解しても「わかっちゃいるけどやめられない、悪い癖」。これを抜くために修行
201607/ 縁起の法則が、私達衆生の迷いの生存状態・苦の現状を形成している法則であるからであり、ゆえにそのはたらきをありのままに見て、私達を現状に至らしめている原因・条件(因縁)を消滅させることができれば、私達は苦であるところの迷いの生存状態から脱却する(解脱する)ことができるからである。/ ...続きを読む ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生をこの「世間」の存在状態から「出世間」へと移行させることであり、その手段は、縁起の法則によって形成された私達の苦なる現状について、その原因や条件を徹見し、それを消滅させることである。「仏教は難しい」とよく言われるが、その基本的な筋道は、このように、これまた実にシンプルなものなのだ。/ ゴータマ・ブッダの教説の新しく、そして弟子達にとっては魅力的であったポイントとは何かと言うと、それは彼が衆生の苦という存在のあり方を徹底的に分析した上で、それは原因による必然的な結果ではあるが、そこからの解脱は決して不可能ではないと結論したこと。そして「私(ブッダ)はその原因を見出し、それを根絶することができた。私はその方法を君達に教えてあげることができるし、そのとおりにやれば、君達にも必ず私と同じことができる」。このようにはっきりと語り、かつ、その言葉が真実であることを、彼の全人格を持って、対面する人々に納得させ得たこと。これこそブッダの教説が多くの人々を惹きつけた理由。/ 世界を説明することではなくて、世界を超越することが仏教の第一目的である/ 厭離と離貪を経て解脱に至った者には、必ず「解脱した」との智が生ずる、というのは、経典において何度も繰り返されている仏説の基本である。そして、このいわゆる「解脱知見」を得た修行者は「わが解脱は不動である」とか、もやは再生することはない」とか、「梵行は完成した」とか、「為されるべきことは為された」とか、そのような自覚を明白にもつ。/ 渇愛は凡夫に対しては「事実」として作用しており、それが彼らにとっては「現実」そのものであるところの、「世界」を形成してしまっている。ゴータマ・ブッダの教説が当時の真剣な求道者たちに対しても説得力をもったのは、彼がそのような「世界=苦」の原因を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そして弟子たちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した--あるいは少なくとも、そのように確信することができた--からである。/ 無為の涅槃の覚知によって、渇愛から離れた眼で現象を眺めた時に、誰が教えるということもなく、ただ明瞭に自知されることが一つある。それは、いま・ここに存在している、「私」と呼ばれるこのまとまりが、他の全ての現象と同様に、一つの「公共物」であるということだ。 「公共物」という言い方が正しいかどうかはわからない。「私」と呼ばれる、継起する現象のまとまりは、「私のもの」ではないけれども、他の誰かのものでもないし、ましてや「みんなのもの」でもない。花が花のようにあるように、山が山のようにあるように、石が石のようにあるように、「私」はただそのようにある。そこには意味も無意味もない。/ 仏教の本質は、「世界」を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある。したがって、そこに新たな物語が様々な仕方で示現することは当然なのだが、それらが「仏教」であるためには、そうした物語があくまで「遊戯三昧」の境地から、執著を離れた形で語りだされていることが必要だ。/
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魚川祐司
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