氷上英廣のレビュー一覧
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ツァラトゥストラは保険が効く本だ。
「読んでもよくわからなかった」というのは、ある意味でこの本に対する褒め言葉ともなっている風潮があるのではないか。
そんな悪しき風潮のために、「読んでもよくわからないだろうな」を前提にして読む者もいる。そして読み終わった後、彼らは「よくわからなかった」とニヤケ笑うのだ!
ああ吐き気!
彼らは中途半端な教養主義という一つの意志を持って生きているのだ!
彼らは、この本によって彼らのような人間、自分自身が批判されていることにも気づけてはいないのだ!
彼らが真に欲していたのは、「ツァラトゥストラを読んだことがある」という経験だけだったのだ!
しかしそれに何の意味があるか?
これは単純に年をとることが決して人を大人にはしないことと同じである。
わるい空気だ!わるい空気だ!
エリート主義的思想に侵された大学生も、薄っぺらい教養主義に意志を見出す人間も、一掃されるべきだ!
この本は箴言という形をあえて取った。
しかしその小説風な物語のせいで、中途半端に日本語が頭に入って来てしまうのだ!
言語の内実を知らずとも、表面をなぞることは彼らにはできてしまったのだ!
このせいで彼らのほのかな矜持が保たれてしまったと言えるだろう!
そして「ツァラトゥストラ」を読んだことがない相手に、「ツァラトゥストラを読んだけど、マジでわからなかったわ」と汚い薄ら笑いを浮かべるのだ!
もう沢山だ!もう沢山だ! -
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自ら善悪を判断(創造)し、苦しいことは幸福として受け取り、それを自ら超克せよ。→これが上巻を超要約した感じはこんなんかなーー。
・今我々が立っている大地に目を向けろ(「神は死んだ」)
・自分自身を喜ばせることをしろ、そうすれば人を悲しませたりすることはなくなる
・人間は平等でもなく、平等になるべきでもない→超人への愛があるから。最高の戦いをして、自己自信を超えて高みを目指さないといけない。意志がとても重要(真理への意志、力への意志)。
・善悪は自分自身で自分自身を繰り返し彫刻しなければならず、また善悪において創造者とならなければならない者は、まずは破壊者となってもろもろの価値を壊さなければならない。→最高の善意には、最高の悪意が必要になる。こうした最高の善意こそ創造的な善意 -
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ニーチェの鋭さの中に少しの狂気も感じる。
人生生きることは、悩むことに過ぎないとある者は言うが、それなら人生をたんに悩むだけになるように用いたらどうだ!
死の説教者が、他人の人生をおのれの贈物の鎖でもってますます束縛するとは何事か!
そうした連中は、人生からの脱出を説教するとともに、自らも立ち去ってくれることを私は望む!と。
女は謎、だが謎を解く鍵は一つ、それは妊娠。
女にとって男は一つの手段である。目的は常に子供。「わたしは超人を生みたい」ということでありなさい!と。
男性は危険と遊戯を求める。だから、女性をもっとも危険な玩具として求める。
男性は戦いのために教育され、女性は戦士である男性の休養のために教育されなければならない。それ以外一切は、愚劣。
男性の幸福は「われは欲する」
女性の幸福は「かれが欲する」
女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見出さなければならない。
と。
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ネタバレ主に「超人」について語られた上巻から一変して、下巻のメインテーマは有名な「永劫回帰」へと転換する。
この世の一切は永遠に、何度も何度も繰り返す。繰り返すからといって、少しずつよくなったり、悪くなったりするわけではない。一切は全く同じように繰り返す。
もし自分の人生が終わった瞬間に、また初めから同じことを繰り返せ、しかも永遠に何度も、と言われたら?普通の人は発狂してしまうだろう。
が、ツァラトゥストラは、永遠に繰り返す世界に絶望するのではなく、生を愛し、永劫回帰を受け入れ、何度でも生きてみせる強靭な精神をもつことを要求する。
ツァラトゥストラ自身も初めは「ああした人間が永遠にくりかえしやってくる!あの小さな人間が永遠にくりかえしやってくる!(中略)ああ、嘔吐!嘔吐!嘔吐!」と嫌悪感を隠さない。
が、鷲や蛇といった動物たちに励まされつつ自分を奮い立たせ、やがては「永遠よ、わたしはあなたを愛する」と歌うに至る。
最終章となる第4部では、さまざまな人物(俗世を嫌悪する「ましな人間」たち)が登場し、ツァラトゥストラと問答を繰り広げる。
「ましな人間」たちとの対話を通じ、ツァラトゥストラは、「同情」こそ忌避すべき「最後の罪」だと悟る。
他者に対する同情を罪悪とみなし、「外界などはない」(p132)と嘯く。しかも自身を慕い、追随する者たちを繰り返し拒絶する。
ニーチェの思想は、もとより他者との関係性を考慮しない(ばかりか、積極的に無意味化する)ものであることが明示された形だ。
あくまでニーチェが主眼においているのは、自己を超克するということと、これに加えて、いかなるものをも絶対化せず自問し続け、世界のあらゆるものに自ら意味を与えていくということという、至極エゴイスティックな思想だ。
と、「今の俺」は解釈した。
『ツァラトゥストラ』は通り一遍の読み方を許容しない。必死にテキストを追って解釈しようとするよりも、むしろツァラトゥストラと同じ高みに到達し、対等な相手と議論を交わすかのごとき読書態度を求められているような、そんな気がする。そのためには、思索的な鍛錬と、さらなる読書が俺には必要。 -
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以前、『道徳の系譜』やらニーチェ解説本やらを読んでいたときは、個人的に「魂の救済」をテーマに読書をしていたので、やたらキリスト教を否定するニーチェの良さがよくわかっていなかった。ニーチェの思想で弱者を救えるかよ、と。
本書を読んでわかったことは、ニーチェの思想は決して「強者の論理」というわけではない、ということ。
むしろニーチェは弱い人間が強くなるための思考法を提示しているのであって、「超人」思想を説く主人公のツァラトゥストラでさえ、理想的な強い人間(=超人)には完全にはなりきれていないと思わせる箇所があった。
「俺のように強い人間になれ」というよりも「俺と一緒に強い人間になろう」と言われているような気がした。
ニーチェの超人思想を社会論的に発展させたのがオルテガの大衆批判だと思っている。
ニーチェの超人思想には「他者とのかかわり」という視点が無視ないし軽視されている点がいかにも玉に瑕という観もなくはない。
が、やはり「超人になろうとする意志」は個人の心の中に留めておくのが無難な気がする。
「私はいまや超人であるぞ」と認定できるのは自分自身のほかにない。
加えて、大衆批判は「自己言及のパラドクス」の危険を常に孕んでいる。
「そしてわたし自身も仮想してあなたがたのなかに坐っていよう。――そしておたがいに姿を見せないでおこう。これがすなわち、わたしの最期の処世の術である」(p252)
冒頭に「だれにも読めるが、だれにも読めない書物」とあるとおり、文章自体は平易だが書かれている内容は難解極まりない。
半分も理解できたかわからないが、読むたびに違った発見がありそうな気がする。
時間をおいて再読するのが楽しみな本、ということで!
下巻に続く -
Posted by ブクログ
ネタバレ自分もどちらかというとショーペンハウアーと同じ思想を持っていた。いつか死ぬ恐怖に耐えながら生きることに苦痛を感じていたし、待たされている死刑囚でしかないことに疑問を抱く。どうして私は生まれてきてしまったのか。
でもツァラトゥストラを読んでみたら、ニーチェはそんなところにいなかった。
自分なんかより生について、死について、科学が進歩したことにより神から見放された人類について、より深く深く奥底まで考え抜いていた。そしてその上で、すべてを肯定していた。
永遠回帰をしても良いと思えるほどの人生の経験。私は今の時点で、永遠回帰しても良いと思えるほどの人生を送っているか?
恵まれたこと、恵まれなかったこと、自分に無くて人にはあるもの、人に無くて自分にあるもの、いろいろ生きていく中で感じる無情さや虚しさはあるけど、今の時点では永遠回帰しても良いと思える経験が確かに自分の中にあると思えた。
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結局かれらがひたすら望んでいることは、一つである。誰からも苦痛を与えられないということだ。そこで先廻りして、だれにも親切をつくすというわけだ。
これは、臆病というものだ。たとえ「美徳」と呼ばれようと。
──なにが善であり、悪であるかは、まだだれも知らない。それを知るのは創造する者だけだ!
だが、よく食べ、よく飲むこと、おお、わが兄弟よ、それは決してつまらぬ修業ではない。打ち砕け、打ち砕け、浮かぬ顔をしたてあいの食卓を!
とくに不潔なのは、世界を背後のほうから見ないかぎり、気のおさまらない諸君──すなわち「世界の背後を説く者」たちである!
こうした諸君に、わたしは面とむかって、いささか尾籠だがこう言ってやる。世界にも背後があるという点は、人間と同じことだ、──そこまでは事実だ!
世界にはたくさんの汚物がある。そこまでは事実だ!しかし、だからといって、世界そのものが巨大な汚物にすぎぬとは言えない!
世界の多くのものが悪臭を放っているということのなかに、知恵がひそむ。
悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。
かれらは創造する者をこそ、最も憎むのである。石の板をこわし、古い価値をこわす者、破壊する者を──かれらは犯罪者と呼ぶ。というのは、善人は創造できないからである。かれらはつねに「終わりのはじまり」である。──
このわたしに──いまでも目的があるだろうか?わたしの帆がめざして行く港があるだろうか?
良い風向きがあるだろうか?ああ、どこへ行くかを知っている者だけが、どれが良い風向きなのか、自分にとっての順風なのかを理解する。
孤独のなかでは、ひとがその孤独のなかに持ちこんだものも生長する。内なる獣も生長する。だから、多くの者には孤独の生活をすすめることができない。
そして、よしあなたがたが大きなことに失敗したとしても、だからといってあなたがた自身が──失敗だというわけだろうか?また、よしあなたがた自身がいわば失敗の作品だとしても、だからといって──人間そのものが失敗の作品なのだろうか?また、人間がもともと失敗の作品だとしても、──いや、それがなんだろう!
あなたがた、「ましな人間」たちよ、あなたがたはみな──失敗の作品ではなかろうか?
なにも元気をなくすには及ばない。それがなんだろう!まだまだ可能なことがたくさんある!あなたがた自身を当然のこととして嘲笑するように学んだらいい!
あなたがたが失敗の作品で、半ばできそこないであったにしても、何のいぶかることがあろう?あなたがた、こわれかかった人間たちよ!あなたがたの内部で、ひしめき、おしあっていはしないか、──人間の未来が?
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Posted by ブクログ
ニーチェ 「 ツァラトゥストラ はこう言った 」上巻は キリスト教世界の価値観を批判し、超人という新しい価値観を創造。
時間概念も少し入ってきて永遠回帰につながる感じ。面白い。岩波文庫なのに 注釈が なくても読める。比喩の意味に迷う時もあるが、何となく 意味は理解できる
女性や戦争については 現代感覚とズレはある
蛇=永遠回帰の知恵の象徴
鷲=知恵を身につけた超人の象徴
太陽=超人〜人間は他人の幸福を妬むが 太陽は妬みを克服
「人間は克服されなければならない或物である」
ツァラトゥストラ「人間は 動物から超人へ わたる一本の網」
*この網は 超人へいたる希望の橋
*そこそこの幸福、理性、道徳に自分を軽蔑すること
*末人=軽蔑すべき おしまいの人間〜教養に満足している人間
*ツァラトゥストラ=永遠回帰を教える人
人間の精神の変化〜駱駝→獅子→幼な子
*駱駝=高みを目指す修行者〜駱駝は楽→駱駝は自己を無にして他者の命令に従う
*獅子=他人に従う自分を嫌がり、命令する竜(キリスト教の神)に飛びかかる→獅子の否定力は 自由を切り拓く
*幼な子=創造には 幼な子のような 無垢の肯定力が必要→獅子が幼な子に変身して初めて 人は自分の意志を意志する
人は戦いの備えがあって初めて 平和が可能になる
永遠回帰=運命を味方にする
*人間を過去の復讐心から解放するため
*自分の不幸を他人のせいにしないため
*いつか誰かが救ってくれる他人任せにならないため
永遠回帰のステップ
1.私はこれまでの人生を何度も繰り返し生きる(永遠回帰)と考える→この現実からの逃げ道は どこにもないことになる
2.永遠回帰を 喜んで欲する→永遠回帰を消化し 超人になる
永遠回帰=無神論的宗教
*世界は同一の状態を永遠に反復している
*世界は始まりも終わりもなく、目的も意味もない。ただ存在しているだけ
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Posted by ブクログ
ネタバレ【熱血・超人説教】
第1部と第2部が収められています。
ツァラトゥストラ、という主人公が、なんだか人間を超えようと修業したのちに山を下りてきて、人間たちに説教をする、というような流れです。
ちょっと分かるようなところもあり、分からないところもありました。
難しさ、わざな部分もあるようです。ルター訳の新約聖書の文体、語りと掛け合わせて書かれていると、あとがきで解説がありました。
そのニーチェの工夫は、解説がないと大部分の日本人には伝わらないところだと思うので、解説大事だなーと思いました。
神に代わる、超人の存在を説く、のですが、いろいろな現生の人間の批判をしているというか、とにかくめちゃくちゃに言っています。
静かに山で修行していたのにすごい勢いだなーと思いながら、それもニーチェの描く超人は、破壊と争いを肯定しているので、それぐらいエネルギーがないとダメなのかもしれない、、、ですね。第2部では歌も歌っています。意志への力、が一つ超人の必須スキルですが、まさに、思いに溢れているようすが伺えます…。
__そうだ、傷を負わせることのできないもの、葬ることのできないものが、わたしのなかにある。岩をも砕くものがある。それはわたしの意志だ。それは黙々と変わることなく、幾歳月を歩みつづける。(192)
人間の本能としての権力欲?みたいな印象も一部受けたのですが、今のところかなり男性優位、というか完全に男性中心の考え方があります。
__意志ーこれが自由にし、よろこびをもたらすものの名だ。(242)
でも、意志はとんでもないもの含んでいると警鐘を鳴らします。
__『そうあった』ーこれこそ意志が歯ぎしりして、このうえなくさびしい悲哀を噛みしめるところである。すでになされたことに対しては無力である。…意志は、さかののって意志することができない。意志は時間を打ち破ることができない。... 時間、および時間の『そうあった』に対する意志の反感、これが復讐の招待である。(242-243)
これがルサンチマン的なものの話なのでしょうか。
キリスト教など、罪を償うための罰に変えて神にすがるというような、他人任せの救済として宗教を批判しているみたいですね。
__『そうあった』は、すべて断片であり、謎であり、残忍な偶然である、-創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうあることを意志した!』と言うまでは。(245)
__誰ひとり意志にむかって、時間との和解を、またあらゆる和解よりもさらに高いものを、教えたことはなかった。(245-246)
見た目の迫力的には達磨を思い出しましたが、その後の無口度(?)とは正反対の道を行ったのだなーと思いながら。でもニーチェは仏教も参照して触れられていますが、宗教のすべてを否定しているようなので、ツァラトゥストラの新しい悟りの境地、後半を読み進めたいと思います。