あらすじ
晩年のニーチェ(一八四四―一九〇〇)がその根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作。有名な「神は死んだ」という言葉で表わされたニヒリズムの確認からはじめて、さらにニーチェは、神による価値づけ・目的づけを剥ぎとられた在るがままの人間存在はその意味を何によって見出すべきかと問い、それに答えようとする。
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ツァラトゥストラは保険が効く本だ。
「読んでもよくわからなかった」というのは、ある意味でこの本に対する褒め言葉ともなっている風潮があるのではないか。
そんな悪しき風潮のために、「読んでもよくわからないだろうな」を前提にして読む者もいる。そして読み終わった後、彼らは「よくわからなかった」とニヤケ笑うのだ!
ああ吐き気!
彼らは中途半端な教養主義という一つの意志を持って生きているのだ!
彼らは、この本によって彼らのような人間、自分自身が批判されていることにも気づけてはいないのだ!
彼らが真に欲していたのは、「ツァラトゥストラを読んだことがある」という経験だけだったのだ!
しかしそれに何の意味があるか?
これは単純に年をとることが決して人を大人にはしないことと同じである。
わるい空気だ!わるい空気だ!
エリート主義的思想に侵された大学生も、薄っぺらい教養主義に意志を見出す人間も、一掃されるべきだ!
この本は箴言という形をあえて取った。
しかしその小説風な物語のせいで、中途半端に日本語が頭に入って来てしまうのだ!
言語の内実を知らずとも、表面をなぞることは彼らにはできてしまったのだ!
このせいで彼らのほのかな矜持が保たれてしまったと言えるだろう!
そして「ツァラトゥストラ」を読んだことがない相手に、「ツァラトゥストラを読んだけど、マジでわからなかったわ」と汚い薄ら笑いを浮かべるのだ!
もう沢山だ!もう沢山だ!
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筆者独特の文体のなかに思想が結実されていた。超人思想の登場とともに、超人に対しての「おしまいの人間」や「小さな人間」へのニーチェの大いなる軽蔑が現れており、痛快であった。この文体に関して、彼が自らのことを「詩人」と言っていたことは興味深い。
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自ら善悪を判断(創造)し、苦しいことは幸福として受け取り、それを自ら超克せよ。→これが上巻を超要約した感じはこんなんかなーー。
・今我々が立っている大地に目を向けろ(「神は死んだ」)
・自分自身を喜ばせることをしろ、そうすれば人を悲しませたりすることはなくなる
・人間は平等でもなく、平等になるべきでもない→超人への愛があるから。最高の戦いをして、自己自信を超えて高みを目指さないといけない。意志がとても重要(真理への意志、力への意志)。
・善悪は自分自身で自分自身を繰り返し彫刻しなければならず、また善悪において創造者とならなければならない者は、まずは破壊者となってもろもろの価値を壊さなければならない。→最高の善意には、最高の悪意が必要になる。こうした最高の善意こそ創造的な善意
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ニーチェの化身であるツァラトゥストラが自身の思想を語る口調で説く本だった。聖書の文体をあえて真似しているが、内容はキリスト教からの脱却が含まれていて皮肉的だった。最後の解説にもあった通り、テーマは永遠回帰と超人だ。超人とは価値創造を行うものであり、究極は善と悪を自分の中で定めることができる人物である。勇気を持って自分の心と対話し意志してこそであり、他人の軸で決められた宗教や社会通念的なものであったり、自然の中をただ見つめて決めるものではない。精神は身体の道具でしかないため、永遠であることはできない。
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上巻を読むのに2ヶ月かかってしまった。(前からわかっていたことだが、)このような本を理解するには、時間をかけて読んでは個々の印象が薄れてしまうから、寧ろ短時間に集中して読み、それを繰り返さなければならないと思った。…そういう訳であまり内容は理解できていないのだが、それでも少しでも理解してみたいと思わせてくれる本ではあった。何度でも読み返したい。詳しい感想は、(書けそうなら)下巻を読破してから。
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ニーチェの鋭さの中に少しの狂気も感じる。
人生生きることは、悩むことに過ぎないとある者は言うが、それなら人生をたんに悩むだけになるように用いたらどうだ!
死の説教者が、他人の人生をおのれの贈物の鎖でもってますます束縛するとは何事か!
そうした連中は、人生からの脱出を説教するとともに、自らも立ち去ってくれることを私は望む!と。
女は謎、だが謎を解く鍵は一つ、それは妊娠。
女にとって男は一つの手段である。目的は常に子供。「わたしは超人を生みたい」ということでありなさい!と。
男性は危険と遊戯を求める。だから、女性をもっとも危険な玩具として求める。
男性は戦いのために教育され、女性は戦士である男性の休養のために教育されなければならない。それ以外一切は、愚劣。
男性の幸福は「われは欲する」
女性の幸福は「かれが欲する」
女性は服従することによって、みずからの表面に対する深みを見出さなければならない。
と。
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以前、『道徳の系譜』やらニーチェ解説本やらを読んでいたときは、個人的に「魂の救済」をテーマに読書をしていたので、やたらキリスト教を否定するニーチェの良さがよくわかっていなかった。ニーチェの思想で弱者を救えるかよ、と。
本書を読んでわかったことは、ニーチェの思想は決して「強者の論理」というわけではない、ということ。
むしろニーチェは弱い人間が強くなるための思考法を提示しているのであって、「超人」思想を説く主人公のツァラトゥストラでさえ、理想的な強い人間(=超人)には完全にはなりきれていないと思わせる箇所があった。
「俺のように強い人間になれ」というよりも「俺と一緒に強い人間になろう」と言われているような気がした。
ニーチェの超人思想を社会論的に発展させたのがオルテガの大衆批判だと思っている。
ニーチェの超人思想には「他者とのかかわり」という視点が無視ないし軽視されている点がいかにも玉に瑕という観もなくはない。
が、やはり「超人になろうとする意志」は個人の心の中に留めておくのが無難な気がする。
「私はいまや超人であるぞ」と認定できるのは自分自身のほかにない。
加えて、大衆批判は「自己言及のパラドクス」の危険を常に孕んでいる。
「そしてわたし自身も仮想してあなたがたのなかに坐っていよう。――そしておたがいに姿を見せないでおこう。これがすなわち、わたしの最期の処世の術である」(p252)
冒頭に「だれにも読めるが、だれにも読めない書物」とあるとおり、文章自体は平易だが書かれている内容は難解極まりない。
半分も理解できたかわからないが、読むたびに違った発見がありそうな気がする。
時間をおいて再読するのが楽しみな本、ということで!
下巻に続く
Posted by ブクログ
最近になって読んだ本の中に、
「若いときに読んでいたらよかった」という
ものは、いくつもありますが、
これもその一つです。
神を否定した実存主義、キルケゴールは神に向かう実存主義。
19世紀の実存主義は、20世紀のそれに比べ、
社会性がない。
などの知識はあり、書名もインパクトがあり、
若い頃から知っていましたが、
初めて読んでみると、
たいへん感銘を受けました。
まず、全体を流れる、ニヒリズム。
ニヒリズムとは、辞書によると、
「既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度」
だそうですが、
19世紀にニヒリズムを全うするニーチェの強さを実感するとともに、
現代に生きる人間にとってこそ、
こういった思想を読み、
いちど、通過点にすることは、
意味あることに思えました。
本当に、自分が善と思っていることがらなど、
ツァラトゥストラにかかれば、
何の意味がありましょう?
それと、「超人」、「力への意志」が主なテーマですが、
ニヒリズムだけに終始せず、
この2つを掲げているおかげで、
僕は、生へのやる気がみなぎって来るのを感じました。
それに、訳が分かりやすい。
解説にもあるように、
注釈をつけない訳し方が、
僕は好きです。
絶対にオススメな非常に優れた著作ですが、
僕なりのニーチェへの批判を。
それは、徹底的なニヒリズムを超えて、
社会的道徳の必要性。
難しいけれど、
そういったものが表れるのではないかと。
ああ、それにしても、この本は、若い頃に読むべきでした。
今回ほど理解できたかどうかは別として。
それとも、生まれ変わっても、やっぱり、
この歳になって読む運命なんでしょうか?
僕の脳年齢は、19世紀かもしれません。(笑)
(下)が楽しみです。
Posted by ブクログ
痛烈な社会、人物批判が箴言として書かれている。
なんだか生きにくい世の中だ!と感じる者にとっては胸がすく思い。
ただ、天に唾すれば…おのずと自分自身にも降りかかるもので、私は「悲壮な者」でしかなかった。
「精神の苦行僧」醜い獲物しか得られず、ボロボロになった者。
わたしは、笑いを学んでおらず、美を学んでいなかった。
いつか腹の底から笑いたい。
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ニーチェ 「 ツァラトゥストラ はこう言った 」上巻は キリスト教世界の価値観を批判し、超人という新しい価値観を創造。
時間概念も少し入ってきて永遠回帰につながる感じ。面白い。岩波文庫なのに 注釈が なくても読める。比喩の意味に迷う時もあるが、何となく 意味は理解できる
女性や戦争については 現代感覚とズレはある
蛇=永遠回帰の知恵の象徴
鷲=知恵を身につけた超人の象徴
太陽=超人〜人間は他人の幸福を妬むが 太陽は妬みを克服
「人間は克服されなければならない或物である」
ツァラトゥストラ「人間は 動物から超人へ わたる一本の網」
*この網は 超人へいたる希望の橋
*そこそこの幸福、理性、道徳に自分を軽蔑すること
*末人=軽蔑すべき おしまいの人間〜教養に満足している人間
*ツァラトゥストラ=永遠回帰を教える人
人間の精神の変化〜駱駝→獅子→幼な子
*駱駝=高みを目指す修行者〜駱駝は楽→駱駝は自己を無にして他者の命令に従う
*獅子=他人に従う自分を嫌がり、命令する竜(キリスト教の神)に飛びかかる→獅子の否定力は 自由を切り拓く
*幼な子=創造には 幼な子のような 無垢の肯定力が必要→獅子が幼な子に変身して初めて 人は自分の意志を意志する
人は戦いの備えがあって初めて 平和が可能になる
永遠回帰=運命を味方にする
*人間を過去の復讐心から解放するため
*自分の不幸を他人のせいにしないため
*いつか誰かが救ってくれる他人任せにならないため
永遠回帰のステップ
1.私はこれまでの人生を何度も繰り返し生きる(永遠回帰)と考える→この現実からの逃げ道は どこにもないことになる
2.永遠回帰を 喜んで欲する→永遠回帰を消化し 超人になる
永遠回帰=無神論的宗教
*世界は同一の状態を永遠に反復している
*世界は始まりも終わりもなく、目的も意味もない。ただ存在しているだけ
Posted by ブクログ
【熱血・超人説教】
第1部と第2部が収められています。
ツァラトゥストラ、という主人公が、なんだか人間を超えようと修業したのちに山を下りてきて、人間たちに説教をする、というような流れです。
ちょっと分かるようなところもあり、分からないところもありました。
難しさ、わざな部分もあるようです。ルター訳の新約聖書の文体、語りと掛け合わせて書かれていると、あとがきで解説がありました。
そのニーチェの工夫は、解説がないと大部分の日本人には伝わらないところだと思うので、解説大事だなーと思いました。
神に代わる、超人の存在を説く、のですが、いろいろな現生の人間の批判をしているというか、とにかくめちゃくちゃに言っています。
静かに山で修行していたのにすごい勢いだなーと思いながら、それもニーチェの描く超人は、破壊と争いを肯定しているので、それぐらいエネルギーがないとダメなのかもしれない、、、ですね。第2部では歌も歌っています。意志への力、が一つ超人の必須スキルですが、まさに、思いに溢れているようすが伺えます…。
__そうだ、傷を負わせることのできないもの、葬ることのできないものが、わたしのなかにある。岩をも砕くものがある。それはわたしの意志だ。それは黙々と変わることなく、幾歳月を歩みつづける。(192)
人間の本能としての権力欲?みたいな印象も一部受けたのですが、今のところかなり男性優位、というか完全に男性中心の考え方があります。
__意志ーこれが自由にし、よろこびをもたらすものの名だ。(242)
でも、意志はとんでもないもの含んでいると警鐘を鳴らします。
__『そうあった』ーこれこそ意志が歯ぎしりして、このうえなくさびしい悲哀を噛みしめるところである。すでになされたことに対しては無力である。…意志は、さかののって意志することができない。意志は時間を打ち破ることができない。... 時間、および時間の『そうあった』に対する意志の反感、これが復讐の招待である。(242-243)
これがルサンチマン的なものの話なのでしょうか。
キリスト教など、罪を償うための罰に変えて神にすがるというような、他人任せの救済として宗教を批判しているみたいですね。
__『そうあった』は、すべて断片であり、謎であり、残忍な偶然である、-創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうあることを意志した!』と言うまでは。(245)
__誰ひとり意志にむかって、時間との和解を、またあらゆる和解よりもさらに高いものを、教えたことはなかった。(245-246)
見た目の迫力的には達磨を思い出しましたが、その後の無口度(?)とは正反対の道を行ったのだなーと思いながら。でもニーチェは仏教も参照して触れられていますが、宗教のすべてを否定しているようなので、ツァラトゥストラの新しい悟りの境地、後半を読み進めたいと思います。
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超訳ニーチェシリーズを読んでからのツァラトゥストラ。
少しは理解できるかな?と思って読んでみたけど、私の理解力では追いつけなかった(笑)
他の方々の感想を見ていて、本文を理解し、楽しんでおられる方が羨ましく、
私もそこのレベルまでいつかいきたいなと思った(笑)
言葉の意味を理解するのにも時間がかかり、
何度も読み返して咀嚼していかないといけない本だなと思った。
噛めば噛むほど味わえる、スルメみたいな本だなと思った。
私も超訳とかではなく、そのままのこの文章を自分の中に落とし込んでいって、
自分なりの解釈を考えることを楽しめるように、
ツァラトゥストラと対話できるようになりたいな。
「今のレベルでは私はこう思った」という感想も大事にしたい。
また再びこの本を挑戦するときまでに、たくさんの本を読み、
成長した自分がまた読んでどう思うのか?ということも楽しみだなと思った。
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ニーチェの文体を初めて読んだ。詩的な文章になかなか翻弄されたが、中程まで読んだ頃には段々とそのリズムが心地よくなっていった。
言っていることは正直よく分からないが、私の乏しいキリスト教の知識と当時の時代背景を考えながら、ニーチェの語る哲学に想いを馳せてみた。
ユダヤ教の価値観が飽和して、惰性的に割礼の有無だけで信仰を判断するようになってしまった世の中でキリスト教が生まれた。ニーチェのツァラトゥストラは、その後のキリスト教の価値観が飽和した社会においてまた先祖返り的にゾロアスターの名を用いて、キリスト教の負の部分を払拭したいと考えたのではないか。などと考えながら読んだが、ニーチェ研究の書などもっと詳しく読んでみたいと思う。
さて、頑張って下巻も読破しよう………
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本書では、著者ニーチェの哲学や根本思想が散りばめている。著者の作品を読むのは初めてであり、注釈も全くなかったため難解であった。神は死んだという象徴的な言葉を残した著者であるが、本書ではその思想について物語形式で詳しく書かれている。しかし、正直なところ本書のほとんどを理解できなかった。比喩的な表現が多いため、イマジネーション能力が必要とされる。巻末にある解説を読んで初めて、本書の面白さを感じたといっても過言ではない。しかし、本書を通して哲学は興味深いと再確認したので、これから簡単な入門書を読んで哲学を学んでいきたいと思う。
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大地、身体、踊る神の重視。歌うような調子で「物語」は進んでいく。
女性に関することはダメだね。
読みやすい訳文だが、内容の理解は難しい。星の王子さまのような謎解きが挑まれているようなスタイルだからだ。
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興味深いのは、第1部の最初で山を下りて「神は死んだ」や「超人」という教えを広めたツァラトゥストラが、上巻の最後(第2部の最後)で再び弟子と分かれて山に戻ることである。
10日間で書かれたという第1部に、ニーチェは満足がいかなかったのだろう。
そして第3部で、再び教えを説く際に新たに現れるのが「永遠回帰」という概念である。
何度も繰り返される「私はあなたを愛するからだ、おお、永遠よ」が、本来の最終部であったはずの第3部のラストを飾っている。
第4部はもともとは自費出版で40部程度が配られただけとあって、明らかに趣が違う。
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ツァラトゥストラを主人公にした、当時のキリスト教社会を否定したニーチェの思想を盛り込んだ物語。
初めはなんやこれな感じだったが、聖書をパロッタものということがわかってからは、これがどうして中々面白く読めた。
本来の思想はもっと違うのかもしれないが、個人的な感想としてはより現代的であると思うし、結構自己中心的でもあってとても人間くさく感じる。
哲学書として非常に難しくはあるが、今風っぽく人間らしい主人公に共感しながら読み進められる分、入り口としてはうってつけなのではないかと思う。
またある程度時間が経ったら読み返してみようと思う。
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ニーチェは大衆を「畜群」として毛嫌いした。
そして今日の大衆は「大衆」を馬鹿にする時代。
ニーチェの哲学は奴隷道徳と貴族道徳を発想したことであった。前者は受動的に生きることを好み、後者は自ら責任を負い、能動的に生き自ら価値を創出出来る人間である。
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学生時以来、久々の再読。聖書風散文体で書かれた、ツァラトゥストラが語る至高のぼっち賛歌。次から次へと畳み掛けられるアジテーションの通底は『善悪の彼岸』的な価値判断の問題であり、道徳や常識といった基準に安穏している者、強者への妬み=ルサンチマンを正当化する者たちを糾弾し己の価値を己で決定する独立者たちへ超人への道を説く。自分は読んでいてニーチェの思想からはニヒリズムを感じないのだが、それは強者が弱者を装い、弱者と認められない弱者がルサンチマンを抱く現代社会に対しての方が遥かに虚無感を抱いているからなのだろう
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ニーチェの作品の中で唯一読んだものだ。哲学書というより詩のような神話のようだ。それがこの作品を難解にもさせるし、強いインパクトを与えもする。ツァラトストラは明らかに聖書を意識している。
「神は死んだ」の台詞は有名だが、これは言われるまでもなく当たり前なことで、誰もが知ってることではないかと思う。日常での理不尽さ、戦争及び災害、飢餓、暴力を振るう側と振るわれる側、支配する者と支配される者、このような世界のどこに神がいると言えるだろう。
遠藤周作の「沈黙」で、島原で迫害を受けるキリシタンの農民の一人が宣教師にこう言っている。「あなたの教える神がいるというなら、どうしてこの悲劇の中に現れないのか」と
遠藤周作はこれを「沈黙」としているが、「死んでいる」としても同じだろう。何もせず沈黙を続けているだけならば、それは存在意義を失っているから。このことは神だけでなく人間も同じで、沈黙せず存在意義を持ち続けなければならないのだろう。そして、ニーチェはこれを「超人」としたのではないのだろうか?
しかし、私はこれに異議をとなえたい。もし自分が超人でありさえすればいいなら、世界の理不尽な主客の関係の中での支配者が、「超人の中の超人」になるだけだからだ。それは今の現実と何も変わらないだろう。
神が死んだことを理解しながら、世界の理不尽さの中では、神ではなく人間が「沈黙しなければならない」のだ。実存主義者のように言えば、世界に生を受け、その存在意義は別として存在そのものは受け入れなければならない現実がこの世界の全てなのだろう。その意味では、三島の「金閣寺」の描写は的を得ている。この小説は、絶対的な美であり憧れの存在だった金閣寺に主人公が放火して終わる。最後の描写こうだ。『一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。』
よく「沈黙は金なり」というが、「沈黙は金より重い」と言いたい。絶対的な美も信じる神もなく、人はそれに沈黙し受け入れ、生きるしかないからだ。
Posted by ブクログ
とりあえず読んでみたものの、内容を理解できたとは言いがたい。やっぱり難しい本だ。竹田さんや永井さんのニーチェの解説書を読んで、あまりよくわからなかったから、原書を読んでもわからないのは当然か。もう少しニーチェの思想を解説書で理解し、ニーチェの原書の中でも簡単なものを読んでから読まないといけないかもしれない。
ただ、文章はとても詩的で美しく、読んでいてとても楽しかった。ところどころに知っている言葉も出てきた。「神は死んだ」や「力への意志」など。それに文章に力があって、アフォリズムがたくさんある。自分のことかもしれないと感じる言葉もちらほら。あまり理解できなかったが。
ニーチェの思想を理解するのは難しいかもしれないが、読み物としては楽しい。哲学を読みたいと思っているから、ここは諦めずにニーチェへの理解を深められるように励みたい。
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いつかは読もうと思っていた本。ゴールデンウィークに腰を据えて読みはじめる。神は死んだ、超人になれと説く。うむ、分からん。読み進めたら分かるのだろうか。今は立ち止まらず下巻に進む。
Posted by ブクログ
高校の倫理を一通り受けて、興味が出たニーチェの代表作ということで読み始めた。解釈が難しい文章で、一ヶ月かけて、ちまちま読んだが、全然頭に残っていない。所々高校の授業で出てきた思想が出てきて読みやすくなったものの、全体を通して何を言いたいのかさっぱり。。
こういう書評は低レベルであることは心得ているが、これからこの本を読もうと思っている同志に向けて警鐘の意味を込めて書いた。
ニーチェの入門書を読んでからまた読み直そうと思う。
Posted by ブクログ
そのうち読みたいと思ってた本にやっと手を出した!
全てをしっかり理解しながら読んだわけではないんやけども、意外と文字は全部読んで読破。
丸呑みできた感じかな?
基本的に私も人間最後は自分ひとりという考えやから、共感できる箇所もあった。
Posted by ブクログ
人間とは一本の吊橋であり、片方は超人、もう一方は畜群である。どちらになるかは自分次第である。歯車にならず、モーターとなれ、価値を受容するだけでなく、自らが価値を生み出せ。他人指向型の大衆社会に一喝を入れる力強い言葉が多くある。
Posted by ブクログ
思っていたよりもだいぶ読みやすく、なんとなく言いたいことはわかった。ただ、宗教的な背景などを元にした文がかなり多い為、そちらの方面に明るければさらに理解が深まるかと思われた。