西田幾多郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ状態の良い古本で探しているうちに後回しになってきた岩波文庫-青の一冊。
いやこれはもっと早く読むべきだった!新品で買ってもよかったくらい。
読みやすい、おもしろい。読んでいて頭と心が喜んでいるのがわかる。
一つひとつの章が長くないので休憩時間にキリ良く読み切れる。
難解なのではないかと敬遠している方、まったく恐れる必要はありませぬ。
┈┈第二編「実在」 第一章「考究の出立点」より┈┈
深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明らかにせね -
Posted by ブクログ
難しい。読破したとは思えない。
それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。
特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。
善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。
ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。
そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。
「人格的要求」という言葉も好 -
Posted by ブクログ
ネタバレ我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。
科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。
物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚すること -
Posted by ブクログ
"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということ -
Posted by ブクログ
哲学における根本問題を純粋経験によって解決しようという、西洋思想に囚われぬ初にして至高の日本哲学書「善の研究」を、注釈とわかりやすい解説を添えてわかりやすく噛み砕いた一冊。原著を買って、章の一つの節を読むのに数時間唸りながら読んでいた最中に発売されて…もう少し待てばよかった。。。注釈は言わずもがな、見慣れた書体とルビがあるというだけで、かなり読みやすくなるのだから不思議。日本哲学を語る上で、避けては通れない一冊。まずはこの本で予習をして、次こそは原著だけで読み込んでみよう。シーザーを理解するのに、シーザーである必要はないワケで、このような難解な本に対してこそ、理解社会学として意味と説明を構造化
-
Posted by ブクログ
本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。
その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明しようとする。
さらにそこから人間にとって「善」とは何か、「神」とは何かを導出していく。
哲学なので、本質的に抽象的であるため理解が難しいところはある。ただ古典の中ではかなり読みやすい部類かと思う。
やや冗長ではあるものの、難解なレトリックやメタファーなどは少なく、丁寧に読んでいけば理解できるようになっている。また主張 -
Posted by ブクログ
人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識。▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合っているような感覚。音楽に没頭しているときに主客の区別はない。「素晴らしい音楽だった」と思う段階は、すでに判断がなされているので、純粋の経験ではない。▼ 物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛するにはこれを知らなければならない。知識の真理は実践の真理であり、実践の真理は知識の真理でなければならない。▼主客が分かれてお
-
Posted by ブクログ
真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。
しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく
意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。
意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの
主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している
西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。
いかに生きるかという実在の問題、
世界はこういうものであると -
Posted by ブクログ
西洋人の形成力は、理論一つにしても、まるでそれぞれのものに実体があるかのような精巧さがある一方、多面性に欠ける。一面的な効用を主張するあまり、本質の性質に欠落が生じる。やがて見落としてきたものたちが問題となって噴出する。
我々は意思に従うよりも原理・法則に則る方がより大きな自由を得られる。
この世にはある一つの統一意志が働いており、万物はその意志の発現による産物である。そして、事象の発現に伴い、必ず二つのものが生まれる。例えば無から有が発現する場合、何もなかったはずのところに有の発現と同時に無という概念も発現する。これはすなわち、有と無は独立した別の働きがあるのではなく、有を生むという統一