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真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。改版(注解・解説=藤田正勝)
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Posted by ブクログ
何度も読みたい本。 意志も感覚も同じ純粋経験の枠組みの中に位置しており、全てはその程度の問題という考え方。 そしてその根本には個人それぞれが持つ性分があり、善とはその能力を最大化することであると。 そこを見つめ続けることが人生を生きるということなんだと思う。難しいが。いつか心からこのことがわかる...続きを読む時が来ることを願う。
難しい。読破したとは思えない。 それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。 特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。 善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。 ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく...続きを読む、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。 そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。 「人格的要求」という言葉も好きです。 言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。 アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!) 岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。 子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・ (追記)2021年8月に再読 今回はノートを取りながら。 前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。 特に印象に残った点を3つお伝えします。 1 西田は白黒思考をしない 思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。 一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。 主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。 2 あたりまえの倫理感を疑え 彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。 直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。 権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。 合理説、快楽説、、、、 特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。 自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。 合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。 話の3つめは、その目的を抜き出しました。 3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。 アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。 自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。 その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。 さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。 社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。 実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。 彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。 そう思えてなりません。 以上、再読の感想をまとめました。 この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。 長文お読みいただきありがとうございました。
この人の本は大学にいるうちに読んでおきたかった。キーワードは「主客合一」。この観点から、認識論、実在論、倫理(善とは何か)、そして神について語っていく。もっとも、あまり初心者向けではない。 内容の解説は他の人にお任せするとして、個人的に気に入ったのは、論理の流れが非常に把握しやすいところ。各章がA→...続きを読むA1→A2→B→B1……という風に順序立てて構成されており、話がすっと頭に入ってくる。もっとも、それを理解できるか否かはまた別の問題ではあるのだが……
難しい本という先入観があったが、読んでみると「純粋経験」の概念と既存の認識論・道徳論・宗教論を丁寧につきあわせながら説明がなされており、けっこうわかりやすい。西洋・東洋の思想史のおおまかな流れをつかんでいれば、おもしろく読めると思う。基本はヘーゲルの思想に近い気がするが、ヘーゲルが主体としての「絶対...続きを読む精神」をおいたところに、西田は主客を超えた場としての「純粋経験」をおいた、という理解でいいのだろうか。
知識・研究として読むのではなく、自分のなかの善とは何かということを、己に照らし合わせながら読むと楽しい。
さすがの密度。読み慣れないので骨が折れるが、一章一章で他の本なら一冊分くらいの内容がある。日本最初の哲学書が分別の還元なのも面白い。
初読のときはまったくわかんなかった。思うところがあって、また引っ張り出してきて、後半部のみを再読したんだけど、すっごくクリアに頭に入ってきた。目的をもった読書だったからかな?それともちょっと賢くなったからかな?カッコワライ!
あるがままの真理や純粋経験に目覚めるのに「知のフィルター」は邪魔になりますね。 禅の影響を受けた哲学者の本はおもしろい。真理は教外別伝、不立文字とは言われますが、哲学的思考による予備知識は役に立つと思われます。
本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。 その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明しようとする。 さらに...続きを読むそこから人間にとって「善」とは何か、「神」とは何かを導出していく。 哲学なので、本質的に抽象的であるため理解が難しいところはある。ただ古典の中ではかなり読みやすい部類かと思う。 やや冗長ではあるものの、難解なレトリックやメタファーなどは少なく、丁寧に読んでいけば理解できるようになっている。また主張も端的なので掴みやすい。 経験主義をよく理解できる一冊かと思う。その他の主張も分かれば興味深いものが多い。 特に、美の概念と善の概念が近接するという仮説は興味深い。つまり美とは物が自然の本質を実現する場合に感じられるものであり、善も同様に天から与えられた自己の人格を統合することで達することができる領域である。 人間は真の自己を知り、それを鍛えることで善の領域に辿り着かねばならない。 「主観は自力である。客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力を捨てて他力の信心に入る謂である。」
人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識。▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合っているような感覚。...続きを読む音楽に没頭しているときに主客の区別はない。「素晴らしい音楽だった」と思う段階は、すでに判断がなされているので、純粋の経験ではない。▼ 物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛するにはこれを知らなければならない。知識の真理は実践の真理であり、実践の真理は知識の真理でなければならない。▼主客が分かれておらず、自分と世界の間に区別がないので、個人が善を実現することは、世界の善を実現することでもある。善は人格の実現である。内から見ると意識統一(真摯なる要求の満足)であり、究極的には自他をともに忘れ、主客相没するという所に到らないといけない。外に現れる事実としてみれば、小は個人性の発展より進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達する。西田幾多郎『善の研究』1911 どんな事物も、それが個体として現れるためには別の個体を必要とする。自分自身の否定によって個物は個物になる。事物同士の関係が成り立つ土俵。個物は互いに独立だが、相関係する。p.146- 西田幾多郎『現実の世界の論理的構造』1935 ***************** 人は愛されることを求めることなく、愛するべきである。愛は欠けたものを求める心ではなく、溢れるものを包む感情である。倉田百三ひゃくぞう『愛と認識との出発』1921 いき。色っぽさがあり(媚態びたい)、心の張りがあり(武士道の理想主義)、諦めている(非現実性=現実社会の執着から離脱)。媚態・武士道・仏教。宵越しの銭は持たねぇ。いきの逆は野暮。くき・しゅうぞう『いきの構造』1930 孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある▼人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない▼独断する者は知性の敗北者であり、外見ほど強くはない。三木清みき・きよし『人生論ノート』1941 人間が人間以上の存在との関係を失ってしまい、みずからを絶対化したところに、近代の不幸は根付いている。ピカールト。無源の水を尋究(じんきゅう)すれば、源窮まりて水窮まらず。源にたどり着くことはできるが、水はそこで終わっていない。寒山詩。大きな自然のいのちに触れることがなくなると、人間生活は奥行きを失う。唐木順三からき・じゅんぞう『おそれという感情』
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