あらすじ
真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。改版(注解・解説=藤田正勝)
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Posted by ブクログ
状態の良い古本で探しているうちに後回しになってきた岩波文庫-青の一冊。
いやこれはもっと早く読むべきだった!新品で買ってもよかったくらい。
読みやすい、おもしろい。読んでいて頭と心が喜んでいるのがわかる。
一つひとつの章が長くないので休憩時間にキリ良く読み切れる。
難解なのではないかと敬遠している方、まったく恐れる必要はありませぬ。
┈┈第二編「実在」 第一章「考究の出立点」より┈┈
深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明らかにせねばならぬ。
┈┈第三編「善」 第十章「人格的善」より┈┈
人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。
人格は単に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。
Posted by ブクログ
何度も読みたい本。
意志も感覚も同じ純粋経験の枠組みの中に位置しており、全てはその程度の問題という考え方。
そしてその根本には個人それぞれが持つ性分があり、善とはその能力を最大化することであると。
そこを見つめ続けることが人生を生きるということなんだと思う。難しいが。いつか心からこのことがわかる時が来ることを願う。
Posted by ブクログ
難しい。読破したとは思えない。
それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。
特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。
善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。
ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。
そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。
「人格的要求」という言葉も好きです。
言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。
アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!)
岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。
子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・
(追記)2021年8月に再読
今回はノートを取りながら。
前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。
特に印象に残った点を3つお伝えします。
1 西田は白黒思考をしない
思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。
一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。
主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。
2 あたりまえの倫理感を疑え
彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。
直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。
権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。
合理説、快楽説、、、、
特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。
自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。
合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。
話の3つめは、その目的を抜き出しました。
3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない
ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。
アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。
自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。
その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。
さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。
社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。
実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。
彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。
そう思えてなりません。
以上、再読の感想をまとめました。
この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。
長文お読みいただきありがとうございました。
Posted by ブクログ
この人の本は大学にいるうちに読んでおきたかった。キーワードは「主客合一」。この観点から、認識論、実在論、倫理(善とは何か)、そして神について語っていく。もっとも、あまり初心者向けではない。 内容の解説は他の人にお任せするとして、個人的に気に入ったのは、論理の流れが非常に把握しやすいところ。各章がA→A1→A2→B→B1……という風に順序立てて構成されており、話がすっと頭に入ってくる。もっとも、それを理解できるか否かはまた別の問題ではあるのだが……
Posted by ブクログ
難しい本という先入観があったが、読んでみると「純粋経験」の概念と既存の認識論・道徳論・宗教論を丁寧につきあわせながら説明がなされており、けっこうわかりやすい。西洋・東洋の思想史のおおまかな流れをつかんでいれば、おもしろく読めると思う。基本はヘーゲルの思想に近い気がするが、ヘーゲルが主体としての「絶対精神」をおいたところに、西田は主客を超えた場としての「純粋経験」をおいた、という理解でいいのだろうか。
Posted by ブクログ
初読のときはまったくわかんなかった。思うところがあって、また引っ張り出してきて、後半部のみを再読したんだけど、すっごくクリアに頭に入ってきた。目的をもった読書だったからかな?それともちょっと賢くなったからかな?カッコワライ!
Posted by ブクログ
あるがままの真理や純粋経験に目覚めるのに「知のフィルター」は邪魔になりますね。
禅の影響を受けた哲学者の本はおもしろい。真理は教外別伝、不立文字とは言われますが、哲学的思考による予備知識は役に立つと思われます。
Posted by ブクログ
本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。
その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明しようとする。
さらにそこから人間にとって「善」とは何か、「神」とは何かを導出していく。
哲学なので、本質的に抽象的であるため理解が難しいところはある。ただ古典の中ではかなり読みやすい部類かと思う。
やや冗長ではあるものの、難解なレトリックやメタファーなどは少なく、丁寧に読んでいけば理解できるようになっている。また主張も端的なので掴みやすい。
経験主義をよく理解できる一冊かと思う。その他の主張も分かれば興味深いものが多い。
特に、美の概念と善の概念が近接するという仮説は興味深い。つまり美とは物が自然の本質を実現する場合に感じられるものであり、善も同様に天から与えられた自己の人格を統合することで達することができる領域である。
人間は真の自己を知り、それを鍛えることで善の領域に辿り着かねばならない。
「主観は自力である。客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力を捨てて他力の信心に入る謂である。」
Posted by ブクログ
人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識。▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合っているような感覚。音楽に没頭しているときに主客の区別はない。「素晴らしい音楽だった」と思う段階は、すでに判断がなされているので、純粋の経験ではない。▼ 物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛するにはこれを知らなければならない。知識の真理は実践の真理であり、実践の真理は知識の真理でなければならない。▼主客が分かれておらず、自分と世界の間に区別がないので、個人が善を実現することは、世界の善を実現することでもある。善は人格の実現である。内から見ると意識統一(真摯なる要求の満足)であり、究極的には自他をともに忘れ、主客相没するという所に到らないといけない。外に現れる事実としてみれば、小は個人性の発展より進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達する。西田幾多郎『善の研究』1911
どんな事物も、それが個体として現れるためには別の個体を必要とする。自分自身の否定によって個物は個物になる。事物同士の関係が成り立つ土俵。個物は互いに独立だが、相関係する。p.146- 西田幾多郎『現実の世界の論理的構造』1935
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人は愛されることを求めることなく、愛するべきである。愛は欠けたものを求める心ではなく、溢れるものを包む感情である。倉田百三ひゃくぞう『愛と認識との出発』1921
いき。色っぽさがあり(媚態びたい)、心の張りがあり(武士道の理想主義)、諦めている(非現実性=現実社会の執着から離脱)。媚態・武士道・仏教。宵越しの銭は持たねぇ。いきの逆は野暮。くき・しゅうぞう『いきの構造』1930
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある▼人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない▼独断する者は知性の敗北者であり、外見ほど強くはない。三木清みき・きよし『人生論ノート』1941
人間が人間以上の存在との関係を失ってしまい、みずからを絶対化したところに、近代の不幸は根付いている。ピカールト。無源の水を尋究(じんきゅう)すれば、源窮まりて水窮まらず。源にたどり着くことはできるが、水はそこで終わっていない。寒山詩。大きな自然のいのちに触れることがなくなると、人間生活は奥行きを失う。唐木順三からき・じゅんぞう『おそれという感情』
Posted by ブクログ
読んでるうちに、この書のタイトルが善の研究であることに僕も疑問が湧いた。純粋経験や統一作用という言葉の比重が明らかに大きく、感覚的にはそこを根拠にした実在論の展開をしている様に思えてならなかったからである。西田幾多郎は生きている存在としての人間に焦点を当てたかったのだろうか。ただ、第3編の善についてもやはり倫理というよりは実在論に寄っているとは思う。
Posted by ブクログ
明治44年に出版された本。日本人に哲学はできないと言われていた時代に著された本格的で体系的な哲学書。理解が容易な訳ではないが、実在、倫理、意志などを一つ一つ解きほぐす論理展開が明快で読みやすい。『善の研究』よりも相応しいタイトルはあったのではとも思うのだけど、このタイトルだったからこそ広く、長く読まれる本になったのだとも感じる。歴史的にも意義深い一冊。西田哲学自体はもっと後年の内容も知りたい。
それにしても大学時代から読もうと思って機会を逃し続けた本をやっと読めて気持ちが良い。
Posted by ブクログ
西洋人の形成力は、理論一つにしても、まるでそれぞれのものに実体があるかのような精巧さがある一方、多面性に欠ける。一面的な効用を主張するあまり、本質の性質に欠落が生じる。やがて見落としてきたものたちが問題となって噴出する。
我々は意思に従うよりも原理・法則に則る方がより大きな自由を得られる。
この世にはある一つの統一意志が働いており、万物はその意志の発現による産物である。そして、事象の発現に伴い、必ず二つのものが生まれる。例えば無から有が発現する場合、何もなかったはずのところに有の発現と同時に無という概念も発現する。これはすなわち、有と無は独立した別の働きがあるのではなく、有を生むという統一意志が働いた結果、同時に相反する無も露わになる。
一つの統合に向けた作用は分化発展を繰り返す。西洋はこの発展の一面、言わば「有」ばかりを見て主張する。この見方では個の事象が隔離され孤立させられる。これはすなわち個の事象を限定するという事。だから一見発展しているようでも実態は同じ次元を延々とめぐる事になる。
今の風潮はあたかも自然は独立した客観的存在、まるで機械のようなものであり、人間の技術が主観的なものであるという考え方をしているが、自然と精神は同一のものであり、万物とは程度の差による違いが発露したものたちにすぎない。
我々がモノを知るという事は、自己とモノが同一となる事。
優れた創造物にはモノの本性が矛盾なく表出されている。
我々が意志だと思っているものは、実は身の回りの環境、自然の作用である。
精神とは自他を区別し、自己を自覚する意志活動の事であり、人間はそうした自然の意志・精神を自らに取り込む事で自己を形成する。我々がいわゆる人格と呼ぶものも、自己と自然との遭遇、純粋経験の積み重ねによって作られる。
道徳観の共通点は、義務で自己の要求や活動を制限してしまう事。だが、このような自己の抑圧をしない事こそが真の「善」である。
自己が世界と不可分な状態にある時、自己は世界の秩序に取り込まれ、そこに自立した意志が働く必要はなくなる。我々が我々である為には、常に自己と外界との衝突がつきもの。各人が完璧に整った環境に生まれ発展しても何の個性もない。各々ユニークな環境下において、絶えず自己の分化発展を続ける事。
個人は自主独立している。有を離れた無は真なる無ではないように、一切を離れた一もまた真なる一ではない。個人が個人によった働きをするからこそ世界は豊富深遠となる。
万物は神の発現であるならば、宗教による個人の目的は神との合一にある。ただ個人の欲求のままにあるのではなく、世界との合一をはかる事。自己の統一と発展が不可分なく行われる事が、真に生きた宗教である。現代の宗教は自己の安心や小欲無憂が最上であると誤認されている。
本来、世の全ては善である。仮に悪が存在しようが悪には悪の役割があり、因果がある。
キリスト教の信条は「愛」。相手との共有や同化を求める情動。仏教の信条は「知覚」。知とは主観を限りなく客観へ向ける為、無我が求められる。この二つは、自己を限りなく外に向ける点では、まったく同じ性質を秘めている。
日常の全てが自己の統一活動の場。
我々は、宇宙こそが唯一の実在だと考えているが、自己とは宇宙精神の実験のように思える。
Posted by ブクログ
結果はなるべくしてなる。
そうかーそうだよな。ある程度特定の状況が重なるとその結果を予想することができる。
それを避けるには準備が必要などなど難しいことはないがあんまり楽しいってわけでもない内容でした。
それと、でも精神の話は良かった。自然とひとつになって客観的な思考で器を大きくしたら幸せになれるよねとあってそんなことをある物理学者も言ってたなと思い自分もそういう考えを持った人になりたいと思いました。
自然に淘汰されるとまでは行かないですが川の流れに身をまかせ本質を見極めあるがままを受け容れるのは良いですね。
他に何というか、何もそんな面倒な言葉(純粋経験とか)使わなくてもいいのではないかと(時代とか著者の趣味ですかね)、内容をより早く理解するのに手間取りました。
斜め読みが向かないので結構もしかしたら重要な箇所を読み飛ばした感じがします。
Posted by ブクログ
難しい。
とにかく難しいです。
前半の内容が特に理解不能で、純粋経験なるものを解説していますが一知半解…。主観と客観の超越とか言われても今一つピンときません(笑)
本書後半からがタイトル通り『善の研究』について述べています。こちらの方が分かりやすい。ただ、これといった知識を得られないまま読み終えてしまい(これは僕の理解力不足にある)、また歳を重ねてから読むといいのかなと感じました。
上記引用を見れば分かる通り、本質の本質を掘り下げようとする姿勢には感服です。『なぜ地球が自転しているのか』『なぜ私が私であるのか』『なぜ殺人を犯してはならないのか』『インセストタブーの普遍性』…例えを挙げればきりがありません。しかしこの根本的な質に、明快で説得力のある答えは未だかつて出されたことはありません。
人格の実現が善ならば、突出した、つまり何かに秀でたものがある人が良い、と。個々人の突出したものが総体として民主主義につながっていく、あるいはそれらが互いに刺激し合って多様な社会・文化を育んでいく…。
読後感としては『すごい』の一言に尽きます。日本にはこれほどの哲学者がいるのかと、驚愕しました。
純粋経験(主客合一)の視座を築き、さらに実在論や神についての考察はまさに圧巻です。
本書の最後、
主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂いである。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
(―中略)
而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るのである。印度のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずるという者は、最も能く神を知りおる者である。
上記引用は秀逸。鋭い洞察力と言えます。『知を愛する』という単語(フィロソフィア=哲学)があるのを知ってか知らずか、それを神と結び付ける技、巧みな論考には驚きです。
と、素晴らしい本だと褒め称えたいのですが、恐らく本書の半分も理解していないだろう僕の頭では、『面白いけどもっとわかりやすく解説して!』と心の中で叫んでいるので(笑)評価をA―にします。
Posted by ブクログ
再読。かなり昔読んだときよりも、格段によく理解できた。
特に前半(第1編、第2編)がすばらしい。禅的な香りもする「純粋経験」の思想は、たしかに画期的かもしれない。
ただし後半(第3編、第4編)は倫理学、宗教を扱うが、急に平易になり、哲学入門めいた密度の薄さで、物足りなかった。
後年の西田幾多郎は、このように「神」を語ったりしない。
このあとの著作と比較してみても、全体に、この本はとてもわかりやすく書かれている。
Posted by ブクログ
「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の四篇からなる。60年も前に出版されたもので、発想に新しさを求めるのは難しいが、『「いき」の構造 (岩波文庫)/九鬼 周造』に似て、その思索と思想に詠嘆に値する見事な一冊。
本書は著者が三十歳代の十年間を過ごした高等学校の講義のための草案で、二篇と三篇に他を加えた構成になっているらしい。正直なところ読みにくくて、多分海外の哲学書に慣れたからだろうと思ったが、読み終えてから眺めてみると、かなり重要な箇所に重点が置かれていて、教育に向きだと思った。
本書を読んで、もしかしたら自分が苦手だと思っている中島義道の本も、相性の問題ではなくて慣れの問題ではないかと思えて来た。今は興味が手元にある氏の本に向いていないので、落ち着いたら開いてみようと思う。
ただし、本書は歴史的な宗教考察をするものではなくて、特に四篇に関しては著者の私的発想について述べられているものなので、そういった類いを期待することはできない。
そして頻発する偶然の話をすると、本書は半分ほど読んだところでしばらく放置してしまっていて、昨日『世界がわかる宗教社会学入門』を読み終えて、何となく本書を手に取ったのだけど、三篇と四篇はそれに直結した内容で、自身の宗教と倫理・論理に対する認識の位置を明確にするのに役立った。
最近読書に関して思うのは、西田先生の言を借りると、発展完成のうちにあるもので、偶然性と適当に諦めて進めるものだということ。そこには技術・姿勢といった問題があって、それを発展させる過程に注視せねばならないが、それを個性と呼べる程度まで昇華させてからでよいという個人的趣向がある。
最近は「〜する」とか「〜したい」と言うことに少し敏感になっていて、なるべく言わないようにと思っている。再読すると言って読んだ本なんてミルの自由論くらいしか思い当たらないし、でも読書に関してはそこで諦めたくないので違和感を封じて言ってしまっていたりする。
そしてこれも偶然なのだけれど、数ヶ月前から悩んでいた「特質と技術」の関係の問題が、最近徐々に解決していて、本書を読むことで一応の解決をみせたのでよかった。途中の期間的断絶のせいもあって理解が不十分というかほぼゼロなので、余暇を使って読み直したいと思う。
『「いき」の構造』のときには気づかなかったけど、僕はこういうウマい本が苦手で、づいづい進んでしまう割には読み終えたときの理解度(もしくは満足度)が他の本に比べて低くなってしまうらしい。今回もそうで、共有する発想が多いのもあってか、いっそう後に残る者が少なかった。
Posted by ブクログ
日本で数少ない「哲学者」の名前に値すると評価される著者の代表作。
元々は学校の講義内容であり、決して予備知識は多量に必要ではないはずなのだが、完全に形而上概念を元にしていることもあり、比較的難解な部類に入る。
人が「これはこうだ」と知覚する以前の「純粋経験」を、万物の本質だと捉え、主客の区別すらない状態であると定義し(禅の概念に近いかもしれない)、それに基づいて知識や宗教のあり方について――そうした純粋経験そのままにある状態を善であると看做し、その為の手段として――考察した。
この概念は後年、著者自身に乗り越えられる概念であり、この著作も最早現代的意義は持たないかもしれないが、
日本の哲学史というものを通してみる時、やはり欠かすことの出来ない一冊ではある。
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「日本人に哲学はできない」とときに言われるが、世界に誇れる純粋な日本人哲学者として格別の存在として挙げられる西田幾多郎。難解と言われるその思想にチャレンジすることにした。
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中世以降の西洋哲学の始まりがデカルトによる「我思う、故に我あり」だとするなら、文明開化以降の日本哲学は西田幾多郎による「純粋経験ゆえに我あり」から始まるのだろうか。それはデカルト的な主客二元論を否定し、知識(=客観)とその対象(=主観)が合一している状態こそ全ての実在の根底に置かれているとする思想であり、その知性を疑い自己に宇宙を見い出す姿勢は善の思想は禅の思想でもあるのだということを示している。本書によれば、善とは何より自己の実現であり、それは真の自己は宇宙の根本でもあると認識することなのだ。まじですか
Posted by ブクログ
「価値判断」というのは、時代背景やおかれた環境によって変化する。昔は「良い」と思われていたことが今の時代では通用しない、とか。あの国では「良い」と判断されることが、他の国ではダメだとか。「善悪の判断」についてもそうだ。それは「価値観」ほど個人的なものではないが、決して絶対的・普遍的なものではない。では、唯一絶対普遍的な「善」は存在しないのか。自分の行動の拠り所とすべき、絶対的な「善」は存在しないのか。
その探求に果敢に取り組んだのが、日本で始めて哲学体系を構築したといわれる西田幾多郎教授である。ただし超難解なので、内容を十分に消化するのは、初読では不可能に近い。
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「いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ」そうですか。がんばります…。
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西田幾多郎(1870-1945)の主著。1911年刊。「善とは一言に言えば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。」と説き、「純粋経験」こそ真の実在であるとする。西洋思想を思弁的統合することにより独創的な思想を展開する。西田哲学の原点となる著である。