【感想・ネタバレ】善の研究のレビュー

あらすじ

日本最初の本格的な哲学書『善の研究』。深い思索とたゆまぬ探究心、西洋思想との厳しい対決。西田幾多郎は、人間の意識を深く掘り下げ、心の最深部にある真実の心は何かを探究し続けた。本書では、難解な本文を平易に噛み砕きやさしく読み解き、詳細で懇切な注釈と的確な解説を施し、論旨を纏め示す。2編の補論も収載、西田の代表作理解のための最善の書。(講談社学術文庫)

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。
途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。

"純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。
(講談社現代新書100や100分de名著テキスト等)
第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。
第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。
第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。

読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど
この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。

何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。

読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。
補論はこれから。

0
2024年01月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。

今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。

科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。

物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられている。種々の哲学も科学も皆この事実の説明に過ぎない。

我々の意識現象の外に独立自全の事実はない。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

上の考えは、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬものであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これによりて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出会うのである。しかし、これらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。

我々の思想感情の内容はすべて一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互いに相通ずることができる。故に、偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神をもって支配する。この時これらの人の精神を一と見なすことができる。

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。

因果律は客観的に存在するものではなく、我々の思考の「習慣」に基づく「信念」に過ぎない。

因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起こった思惟の習慣であることは、この因果律によりて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのをもってみても分かる。因果律は世界に始めがなければならぬと要求する。しかし、もしどこかを始めと定むれば因果律はさらにその原因は如何と尋ねる。すなわち自分で自分の不完全なることを明らかにしているのである。

意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受くべきものではない。

同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。

明瞭なる目的観念を持っている時は能動であり、持っていない時は受動である。意志や思惟が能動的であると考えられ、反対に衝動や知覚が受動的と考えられるのはこれによる。

意識の外なる物体とか客観的世界とかいうものは存在しない。我々が客観界と呼んでいるのも、やはり一種の統一力によって統一されたものである。ただ、それが個人の外にあるように見えるのは、それらの意識現象が単なる個人の統一力によるものと思われないような、ある普遍的な性質を持っているというだけのことである。いわゆる客観界とは、各人に共通しているような普遍的性質の存在から推理され想定された抽象的世界にほかならないのである。

個人の意識が昨日の意識と今日の意識とただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見なすことができる。この考えを推し進めていく時は、ただに一個人の範囲内ばかりでなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより相理解し相交通することができる。

普遍的理性が一般人心の根底に相通ずるばかりでなく、ある一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。

時間というのは我々の経験の内容を統一する形式にすぎない。意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反対にこの統一作用によって時間が成立するのである。

純粋経験の範囲を昨日の意識と今日の意識に限定する理由はなく、それを個人の生涯にまで拡大して、個人の一生の意識というものも同一の意識の体系的な発展と考えることができる。同様の理由で、我々は自己の意識と他人の意識をも同一の意識体系に属すると考えることができる。

通常、我々は自己と他人は空間的に隔たっているため別個の実在であると考えがちである。しかし、空間というものは客観的な実在ではなく、時間と同様我々の経験の内容を統一する形式にほかならない。

0
2019年11月21日

Posted by ブクログ

"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。

0
2019年10月24日

Posted by ブクログ

哲学における根本問題を純粋経験によって解決しようという、西洋思想に囚われぬ初にして至高の日本哲学書「善の研究」を、注釈とわかりやすい解説を添えてわかりやすく噛み砕いた一冊。原著を買って、章の一つの節を読むのに数時間唸りながら読んでいた最中に発売されて…もう少し待てばよかった。。。注釈は言わずもがな、見慣れた書体とルビがあるというだけで、かなり読みやすくなるのだから不思議。日本哲学を語る上で、避けては通れない一冊。まずはこの本で予習をして、次こそは原著だけで読み込んでみよう。シーザーを理解するのに、シーザーである必要はないワケで、このような難解な本に対してこそ、理解社会学として意味と説明を構造化し理解する自身の腕が問われる。しかしそれは西田幾多郎の言う純粋経験に基づく実存と対を為すもの…じゃあどうすればいいのか?それを考えるのが哲学の楽しみ。唯物論と唯心論を超越した二元的哲学論。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

主観と客観は同じであるという主客合一の考え方、なかなか難解である
ただ、個人性の実現、個と全体がつながる利他や社会性の倫理観や二元論を嫌う考え方は、この対立が増す現代にこそ学ぶべき示唆があるように思えた

0
2023年09月10日

Posted by ブクログ

真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。

しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく

意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。

意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの

主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している

西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。

いかに生きるかという実在の問題、

世界はこういうものであるという哲学的世界観および人生観と人生はこうせねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。

宗教と科学の仲裁というれいの命題か。

真の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるところに成立する

0
2015年08月14日

Posted by ブクログ

わが国最初の独創的な哲学書である西田幾多郎の『善の研究』のテクストに、西田研究者の小坂国継氏による注釈を付したもの。テクストは一段落ずつ切られて注釈が挟まれ、各章の終わりには小坂氏の「解説」が置かれている。

小坂氏はほかにもいくつか西田の論文のコメンタリーの仕事を手がけているが、本書の注釈もそれらに劣らず、手堅くポイントが押さえられている。西田哲学に関する研究書には、解釈者独自の理解が前面に出されたものが少なくない中で、本書の解説は西田自身に語らせるようなものになっている。

また、『善の研究』では、当時流行していた哲学者の思想が参照されて議論が進められることも多く、今日の読者がその内容を理解することを難しくしているが、本書の注釈はそうした書肆的情報についての解説も充実していて、読者の理解を助けてくれる。

0
2011年08月19日

Posted by ブクログ

日本を代表する思想家西田幾太郎のエッセンスが凝縮された伝説的名著


……と聞いて読み始めたのだよ
しかし、これは難解だ
もちろん哲学書なわけで簡単なはずがないんだけど、頑張って読み切りたい

0
2010年02月01日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「成瀬は天下を取りにいく」で成瀬が読んでいたので、読んでみることにした。

「純粋経験」や「自我の統一」といった概念が、一度読んだだけでは完全に理解することが難しく、本文だけでなく解説部分を中心に読み進めた。

その中でも印象に残ったのは、「自分」という存在が固定されたものではなく、経験や意識の流れによって成り立っているという考え方である。
普段は「自分」を一つの変わらない存在として捉えがちだけど、それが常に変化し続けるものだと考えると、自分自身の見方や他者との関係の捉え方も大きく変わるのではないかと感じた。

また、「純粋経験」という考え方からは、物事を言葉や理屈で理解するだけでなく、実際の体験そのものを大切にする視点の重要性を学んだ。これは日常生活においても、先入観にとらわれず物事を捉える姿勢につながると思う。

一度読んだだけでは十分に理解できなかったが、哲学書は繰り返し読むことで理解が深まるとネットに書いてあったので、今後改めて読み直し、自分なりの解釈を深めていきたい。そして、物事をすぐに言葉で判断するのではなく、まずは自分の経験として受け止める姿勢を意識していきたい。

0
2026年04月26日

Posted by ブクログ

真の自己を知るのが善。こう言い切っているが、真の自己とはなんだろう。それはマニュアル的に知ることではないのかもしれない。何度も読み返して理解すべき本なのだろう。

0
2020年02月25日

「社会・政治」ランキング