小坂国継の作品一覧
「小坂国継」の「西洋の哲学・東洋の思想」「善の研究」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「小坂国継」の「西洋の哲学・東洋の思想」「善の研究」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
本書は数多くの西田研究を著す著者による手堅い西田哲学入門である。著者の名前はおそらく講談社学術文庫の『善の研究』の注解者として名前を見かけた読者もいることであろう。著者の他の西田研究の特色を成すのはテクスト密着型の読解にある。そのような著者が満を持して一般向けに西田論を著した一冊なのである。
まず注意を引くのは西田哲学が最初の「日本の哲学」であることの内実を西洋哲学の具体的なテクストに突き合わせながら、実に明確に浮き彫りにしていることである。本書全体を通して「自覚」という語を手掛かりに、『善の研究』に始まる西田の思索の探求を、西田の生涯にわたる著作全体を通して実に「骨(コツ)」をつかませる仕方で明らかにしてくれる。西田論の多くが処女作である『善の研究』と晩年の「場所的論理と宗教的世界観」に記述が集中する中、『思索と経験』や『働くものから見るものへ』などの著作から満遍なく読み解いていることに特色があろう。
西田の難解さの代名詞ともいえる「絶対矛盾的自己同一」に関する著者の記述は、これ以上にない仕方で否定の論理の内実を明らかにしてくれるものである。それこそ『善の研究』に始まる自己の探求が西洋とは違う「論理」を掴んでいくさまが実に鮮やかに描かれているのである。その「論理」を明確にしていく過程が「自覚」という言葉に収斂していき、独自の論理を打ち立てていくのであり、それは決して閉鎖的なものではない。西田幾多郎に惹かれてその個別的な魅力を感じながらも彼の哲学をどううまく言葉にしてよいか分からない読者にとって、他の書では得難い導きとなってくれよう。禅の経験や体験を重視する読みが見られる中で、あくまでテクストそのものから西田の論理を明らかにしていることに大きな特徴がある。
本書の最後に取り上げられている『日本文化の問題』についての著者の解説は、改めて日本文化論の古典として西田を読む可能性を開いてくれるものであり、グローバルな世界にあって単純な二項対立を超えた文化の可能性を見出させるものとして未だなお魅力ある一冊であることを伝えてくれている。
数多くの西田研究を持ち、全集編纂にも携わる著者ならではの生涯にわたる西田の著作を跡付ける本書は、小さな一冊ながらも生涯にわたる西田哲学の深まりを垣間見させ個々の著作の魅力をありありと伝えてくれるものである。本書は西田と一緒に考え生きていくことへと読者を招く類を見ない西田入門である。
Posted by ブクログ
約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。
途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。
"純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。
(講談社現代新書100や100分de名著テキスト等)
第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。
第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。
第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。
読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど
この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。
何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。
読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。
補論はこれから。
Posted by ブクログ
我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。
科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。
物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。
我々の世界は意識現象の事実より組み立てられている。種々の哲学も科学も皆この事実の説明に過ぎない。
我々の意識現象の外に独立自全の事実はない。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
上の考えは、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬものであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これによりて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出会うのである。しかし、これらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。
我々の思想感情の内容はすべて一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互いに相通ずることができる。故に、偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神をもって支配する。この時これらの人の精神を一と見なすことができる。
個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。
因果律は客観的に存在するものではなく、我々の思考の「習慣」に基づく「信念」に過ぎない。
因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起こった思惟の習慣であることは、この因果律によりて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのをもってみても分かる。因果律は世界に始めがなければならぬと要求する。しかし、もしどこかを始めと定むれば因果律はさらにその原因は如何と尋ねる。すなわち自分で自分の不完全なることを明らかにしているのである。
意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受くべきものではない。
同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
明瞭なる目的観念を持っている時は能動であり、持っていない時は受動である。意志や思惟が能動的であると考えられ、反対に衝動や知覚が受動的と考えられるのはこれによる。
意識の外なる物体とか客観的世界とかいうものは存在しない。我々が客観界と呼んでいるのも、やはり一種の統一力によって統一されたものである。ただ、それが個人の外にあるように見えるのは、それらの意識現象が単なる個人の統一力によるものと思われないような、ある普遍的な性質を持っているというだけのことである。いわゆる客観界とは、各人に共通しているような普遍的性質の存在から推理され想定された抽象的世界にほかならないのである。
個人の意識が昨日の意識と今日の意識とただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見なすことができる。この考えを推し進めていく時は、ただに一個人の範囲内ばかりでなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより相理解し相交通することができる。
普遍的理性が一般人心の根底に相通ずるばかりでなく、ある一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。
時間というのは我々の経験の内容を統一する形式にすぎない。意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反対にこの統一作用によって時間が成立するのである。
純粋経験の範囲を昨日の意識と今日の意識に限定する理由はなく、それを個人の生涯にまで拡大して、個人の一生の意識というものも同一の意識の体系的な発展と考えることができる。同様の理由で、我々は自己の意識と他人の意識をも同一の意識体系に属すると考えることができる。
通常、我々は自己と他人は空間的に隔たっているため別個の実在であると考えがちである。しかし、空間というものは客観的な実在ではなく、時間と同様我々の経験の内容を統一する形式にほかならない。
Posted by ブクログ
"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。