丸山眞男のレビュー一覧

  • 丸山眞男セレクション

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    ネタバレ

    はじめは読みにくいと思ったけれど、どんどん引き込まれていった。
    今の日本は戦前とほぼ同じであることが察せられたし、日本人の本質はどの時代も変わっていないのかもしれないと思った。責任を取ろうとしない、曖昧さで乗り切る悪い癖があるのは、昔からなのだとわかり絶望した。軍人自身も聖戦と思い込んでしまった、なんてとても日本らしいと思う。
    いくらか励まされる言葉もあった。既成事実への屈伏を拒絶しようではありませんかという呼びかけ、たとえ悪法が通ってしまっても抵抗を示すことで運用の慎重さを引き出すなど。
    日頃から疑問に思っていた政治の謎が、いくつも解消されたので非常に有意義だった。
    丸山氏は広島で被爆したと知り、キノコ雲を近くからその目で見てよくご無事でいらしたと思った。戦争の時代を耐えた人々が語れなくなったとき、本当に恐ろしいことが再び起こるような気がしてならない。

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    2026年04月23日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山眞男は、なぜか怖い印象を持っており、手に取ることができなかった。そもそも文章が読みづらい。ただ、それは1945年頃の発表であり、その後はだんだん読みやすくなり、さらに対談形式で議論する形式を深めるなど、色々と工夫を凝らしている。そしてどうやら丸山は左派の学者と呼ばれているそうだが、実際にはそんなものに関係なく、論理を重視しており、どちらも斬っている。怖い印象は間違っていなかった。
    さて、まず驚くのは、このセレクションは1945~1960年代までだが、内容として全く色褪せていないことだ。世界情勢が動き、右極化が進んでいるが、丸山の時代は冷戦時代で朝鮮戦争が起きている、そんな中なので緊張感は今よりも高いのだから、当然である
    内容を細かく振れると大変なことになるので、気になった点だけをメモとして書く。

    戦時における天皇主権での構造的問題、責任意識などは現在にも通じるし、そもそも普通の会社での責任感へ繋げてもよい。ここでの「現実」として考えると仕方ない、これしかないという思考停止は現在にも起きている
    また政治的なリアリズム、政治的な思考についても語っている。そして理論を語る学術と現実に起きていることの考えも示している。「理想はそうだけど現実はそうではない」という思考停止であり、政治とは起きうる可能性のうち、何の可能性を伸ばすのか、とめておくのか。その選択である、という。
    その例としてソ連、中国の日本攻撃に備えての軍備論がとりあげられる。そもそもこれらの国が日本侵攻するのか。そのあとの展開を考えて本当に侵攻するのか。現実として、あり得ない悲観論をもとに「心細い」理由での軍備論を政治的リアリズムではないとしている。(ここでは右派を例にしたが、その後の文章では左派の例がでる)
    また政治と政局の違い。政局の安定は政治の安定ではない。報道も政局の報道に偏っており、政治部を政局部に変更してはどうかと辛らつである。
    大衆が誤った選択をしてしまうこと、それについては錯誤、混乱を認めながら政治的判断をする習熟度をあげていく、民主主義はプロセスであり、それが条件なのだとも語っている。二項分類しない、多数決についても全員一致ではなく、少数意見がでてくることと、その意見を尊重することが重要であるとも。これはミルの自由論にも類似した内容があった。考え方が違う。逆に全員一致の危険性を指摘する

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    2026年02月08日
  • 政治の世界 他十篇

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    一度に全て理解するのは難しいので数回読もうと思う.

    特に最後の章には国民としてどうやって政治に関わっていけばいいかということに関して参考になるものが多かった.

    政治は「可能性の束」. ありうる可能性について一通り考えてみるのが大事.
    国民が政治不信に陥り政治に不参加でいるということが政治にも影響を与えている. それによってさらに統治者側の思い通りになり政治が腐敗するのを促しますます政治不信が蔓延ってしまうという悪循環.
    政治不信・無関心であることが政治に参加しない理由にはならない. 個人的にはまだまだ政治について無知ではあるが無知であるなりに政治に向き合い続けるようにしたいと思った.

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    2022年03月10日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)
    (和書)2012年09月27日 12:28
    丸山 眞男 平凡社 2010年4月10日


    数ヶ月前に、柄谷行人さんの講演を聴きに行った。その時、丸山真男さんの話題が出た。デモについてでしたがなかなか面白い話だった。そして最近、片山杜秀さんの本を読んでいて又、丸山真男さんの話題が出た。柄谷行人や浅田彰以上の影響力を持った知識人だという話でした。

    そうか今まで一冊しか読んでいない。佐藤優さんのお勧めで読んだ一冊きりだ。そしてあまり意味が分からなかったときた。それで入門編を兼ねてこの本を手に取った。そしたらなかなか面白いではないか!苅部正さんが嵌るのもわかるわかると言う感じになった。

    なかなか面白く今、丸山真男を読むのは意義深いことだと感じる。

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    2020年09月26日
  • 超国家主義の論理と心理 他八篇

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    ネタバレ

    『日本ファシズム の思想と運動』
    この論文は、初めて読んだが、日本のファシズム 運動について、担い手とか明晰、明快に分析されている。
    『軍国支配者の精神形態』
    東京裁判の公判の速記録から分析。
    何ら計画性もなく、日本の支配者層が、日米開戦に踏み切ったのは、連合国人を驚かせ、理解に苦しんだ。
    枢軸国側で日本に特質的な事は、指導力の欠如である。

    2.ナチ指導者との比較
    ナチ指導者と日本の戦犯の比較を進める。
    ナチ指導者は学歴が低かったが、日本の戦犯は、学歴が高かった。

    ナチ指導者は、自覚的に残虐行為を行う。
    日本の戦犯は、顕著な無計画性と指導力の欠如により、目的意識により手段をコントロールできず、手段としての武力行使が、ずるずる拡大して行き、自己目的化してしまった。
    日本の戦犯ら指導者たちは『弱い精神』の持ち主、弱い性格であった。

    "日本支配層を特色づけるこのような矮小性を最も露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であった。"(p 162)

    "被告を含めた支配層一般が今度の戦争において主体的責任意識に希薄だということは、恥知らずの狡猾とか浅ましい保身術とかいった個人道徳に帰すべくあまりに根深い原因をもっている。それはいわば個人の堕落の問題ではなくて後に見るように『体制』そのもののデカダンスの象徴なのである。"(p 167)

    3.日本ファシズム の矮小性 その1
    既成事実への屈服と権限への逃避。
    既成事実の屈服は、自民党のお家芸。
    起こってしまったこと、決まってしまったことは、仕方がないというスタンス。

    "ここで『現実』というものは・・・(略)作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起って来たものと考えられていることである。"(p 173)
    東京裁判での支配層にいた戦犯の証言を分析して。

    皆、責任転嫁し、何処に政策決定の主体があったのかが、わからない。

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    2020年02月15日
  • 丸山眞男セレクション

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    「超国家主義の論理と心理」をはじめとした彼の代表的な文章をうまくまとめてあります。丸山眞男を持ち歩くのにとても良い本。
    安保闘争を知っている世代はまさに体験として彼を知っているのだろうが、私は彼を原体験として知っているわけではなく、大学の授業で習ってはじめて知った。
    しかし、昨今の日本の政治家の発言を聞いていると、氏が示した戦前の日本戦争に突入していった特殊性が根本では解消できていないことに気づく。
    例えば、国家、国体を区別できない政治家。また、国家を「形式的秩序」としてとらえられない政治家。だからこそ「教育勅語はいいところもあった」などというのだろう。そういった、一級品の戦前の日本の課題の分析を読み解くことで、「超国家主義」の彼の指摘は、単なる過ぎ去った「昔の日本」への指摘ではなく、むしろ今日にその課題が残り、解消されず、再生産されているという我々の危機を知ることができる。
    是非はあるかもしれないが、戦前、戦中、戦後にわたる彼の分析力と明快な文章は一度読んでみたほうがいいと思う。

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    2019年05月19日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山真男の著作(講演も含む)集。

    政治的な「思惟方法」について、その在るべき姿が模索される。
    日本の伝統的な思惟方法の問題点として、際限のない「無責任」(これは、日本において、中核・機軸となる思想が欠落していること、自由な主体的意識が生まれていないことに一因を帰する)や、「現状追認」(「現実」という言葉が「既成事実」と同義に用いられ、現状の盲目的受容がなされてきた日本の政治にありがちな風景)といった点が、様々な著作において、微妙に形を変えながら指摘される。

    講演録である『政治的判断』では
    ・政治的な責任というものは徹頭徹尾結果責任である
    ・政治から逃避する人間が多いほど、専制政治を容易にする
    ・選挙とは、いわば「悪さ加減の選択」であって、ベストを選択するプロセスではない
    ・「政局」とは「政界」と同義であり、「政局不安定」だからといって「政治的に(あるいは国民生活が)不安定」ということには必ずしもならない
    などとして、政治的な思惟方法の理想形を、具体的に提示する。

    日本政治の腐敗や政治的無関心等が日々問題視されるが、根本的解決の兆しはうかがわれない。
    そうした問題を考察していくに当たり、本書から得られるものは大きいといえよう。

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    2017年08月14日
  • 超国家主義の論理と心理 他八篇

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    不勉強ながら丸山眞男を読まずにきてしまいました。戦後10年ほどの論考、講演録を収めたこの本、非常に勉強になりました。「現代文明と政治の動向」は、あたかも今の時代を描いているようにも思われ(登場する諸国などを今の状況に置き換えてみると)、偉大な思想は古くならないことを実感。

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    2017年03月17日
  • 超国家主義の論理と心理 他八篇

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    戦後間もない頃の政治学論文・講演録集。
    最初の方の、戦時中における日本独特の「ファシズム」体制についての分析が面白かった。
    漠然とした表象に忠義を尽くし、「みんなで」そこに一新に命を賭す。みんなで、空気のままにやっているわけだから、誰も責任者はいない。強いて言えば全員に責任があるとしか言えない。イタリアのファシズムとレジスタンスの歴史と比べると明らかに異様な戦時下の日本社会は、なるほど、「誰も責任をとろうとしない」ままに敗戦を通り抜けた。
    そして今、福島原発事故に関しても「誰も責任をとろうとしない」ままに、「空気のせい」と言わんばかりの逃避言動がまかり通っている。
    こうした無責任な言いぐさは公務員の得意とするところでもあり、いわば「官僚的」性質だ。個人は自らの行為を自己の選択に基づくものとはなかなか認めない。逆に言えば、自分に責任が帰着しないように、うまく間合いをとりながら行動している。
    これは「私的な領域」を決して社会と結びつけようとしなかった日本的特質が結果したものだろう。
    これのために、現在も無責任でいいかげんな政治が政府内で行われているのだから、困ったことである。やはり何かが、ざっくりと変わらなければ、この国に民主主義は実現しないのではないかという気がする。

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    2015年03月31日
  • 政治の世界 他十篇

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    現にある前提から生じるという意味で自分自身からの自己批判・現実批判ということを考えていたことがありましたがそういったことを丸山真男さんが明確に書いていてこういった政治なら自分にも覚えがあるし僕は政治が嫌いだと明言したことがありましたが僕自身が政治的人間だったなと感慨を覚えた。

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    2014年09月06日
  • 政治の世界 他十篇

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    1947年の日本政治学宣言とも言うべき巻頭「科学としての政治学」から、50年代の政治学関連諸論考を集めたもので、かなり読み応えがあった。
    丸山さんの主張に対してはいろいろ反論もあるようだけれども、歴史上日本において、国の主権そのものを論じる余地がなかったのは確かだろう。明治になって少しその可能性が出てきたと思ったら、見る見る絶対主義国家化して自由な言論は封じられた。
    ようやく「政治に関する自由な議論」が可能になったのはようやく敗戦後のことだ。そもそも「国家」という概念が、明治より前には、一般庶民には縁遠かったのではないか。
    しかしいかに無関心であろうとも、現代人のあらゆる生活状況はすべて「政治」の影響に強烈に左右されている、と丸山真男は指摘している。これは敗戦後まもない頃の指摘としては驚くべき先見性だ。現在の状況はもっとラジカルで、政治と無縁なふりをしようとしても、決してそうはいかない。「投票しないこと」すら、それ自体がひとつの政治行動である。
    私はかなり若い頃から、芸術家は政治に極力首をつっこむべきではないと考えてきたが、そうした保護された「聖域」はもはやないのかもしれない。芸術「作品」自体は政治的静かさの「聖域」に置くべきかもしれないが、あいにく作品を発表する行為自体、そして芸術をつくるその人間自体は、絶対的に「社会内」に配置されており、よほど人里離れた場所にエスケープでもしないかぎり、「政治」から逃げることはできない。
    現在の日本で、たとえばつい最近の「美味しんぼ」の福島原発被害に関する言表を政権が必死で非難し、あるいは出版社やマスコミもしくは一般国民が「発言自粛」を集団心理的に忌避するような状況は、日本社会がいま酷い危機状態にあることを教えてくれる。こういう国で、政治と無縁な「純粋芸術」にだけ「専念している」つもりになっているということは、「野蛮である」と言われても仕方がない。
    丸山真男は「政治の世界」(1952)の中で、民主主義により形式上主権が民衆の側に移れば移るほど、民衆の政治的無関心は増していくというパラドックスを語っている。この状況は日本だけではなく、世界全体に共通する現象だ。丸山氏は、消費主義的欲望へと民衆の目を向けさせるマスコミの機能がそれに一役買っていると見ている。
    民主主義と消費主義は、現代社会では確かにリンクしているように見えるが、その根源的関連はいったいどうなっているのだろう。これについては考えてみなければならない。

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    2014年05月18日
  • 丸山眞男セレクション

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    「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」(丸山[1946=2010:80])

    丸山眞男は戦後すぐに記した『超国家主義の論理と心理』の末尾を以下の一文で締めくくる。その3年後に記された『軍国支配者の精神形態』の末尾はこうだ。

    「これは昔々ある国に起こったお伽噺ではない。」(丸山[1949=2010:184])

    以後この調子が続く。ここに丸山の失望を読むことは簡単だ。が、もし失望してしまったのであれば、トゥホルスキーのように口をつぐみ、唖者として暮らしたであろう。そうならなかった丸山は何を期待し、何を実践したのだろうか。『超国家主義の論理と心理』で丸山は次のように言う。

    「「新しき時代の開幕はつねに既存の現実事態が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。」(丸山[1946=2010:59])

    二度あることは三度ある。では、同じことを繰り返さないためにはどうすればよいか、どうすべきか。それは、徹底的に「認識すること」あるいは「対象化すること」である。この姿勢を丸山は生涯貫き通した。であるがゆえに、丸山は日本人の思考の癖を極めて的確に認識し得た。では、われわれ日本人はどうか。そうではないだろう。ここに丸山を読む意義がある、と私は思う。

    『「現実」主義の陥穽』にて、丸山は、我々日本人がこれこそまさに「現実」だ、と考えるその「現実」とは何か、ということを考察し、その落し穴を明らかにする。はじめに、丸山は「現実の所与性」を挙げる。現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られるものであるにも関わらず、日本人は前者のみに着目してしまうこと、それが「現実の所与性」が意味することだ。2点目に、「現実の一次元性」を挙げる。これは、現実の一つの側面だけが強調される、ということだ。たとえば、6割の日本人が、憲法改正に賛成しており、残りが反対していたとしても、後者を無視し、憲法改正が「現実的」である、と考えがちである、ということだ。丸山は以上2点より、次のように言う。「その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです」と。

    以上より、丸山は国民が公平な判断を下すために、つまり現実を認識するために、以下3つの条件が充たされている必要がある、と言う。
    1.通信・報道のソースが片よらないこと
    2.異なった意見が国民の前に公平に紹介されること
    3.以上の条件の成立を阻む、もしくは阻むおそれのある法令が存在しないこと

    さて、衆議院を通過した「特定秘密保護法案」であるが、これはどうみても、3に該当するだろう。何をもって「秘密」とするのか、それが明確に規定されていないため、たとえば、TPP問題、たとえば、原発問題等に関して、重要な情報が「秘密」として指定された場合、どうなるかは、火を見るより明らかであろう。政府から与えられた「現実」を受け入れることが「民主主義」であるという構図を知らない「現実主義的」主権者にはなりたくないですね。

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    2013年11月28日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山眞男は世間では「左翼知識人」という位置づけなのだろうか?しかし彼はマルクス主義では全然ない。ただ、兵士として原爆投下の日に広島にいたらしく、平和主義を主張していることは確かだ。
    周到で学問的な冷静さにあふれた丸山眞男の鋭い分析を、せめて昨今の頭の悪い右翼連中に論駁してもらいたいものだ。
    「政治的判断」の中では、「(戦後の)現状はケシカランから(戦前に近い形に戻そうと)改める」というのが現在の保守政党で、「何々を守ろう」と言っているのが革新政党である。という、パラドキシカルな状況を指摘している(377ページ)。
    なるほど、日本で言われる「保守性」とは、現在ではなく過去の方向を向いているのに間違いない。
    「「現実」主義の陥穽」には、講話論議、再軍備の問題に際し、いちばん頻繁に向けられる非難の言葉は「現実的でない」という言葉だ、と書かれている。
    この言葉は、いままさに、原発を巡る推進/脱原発議論のなかでも繰り返されており、日本人の意識構造のキーワードなのだと思った。
    丸山はここで言われる「現実性」を、(実際は多面的なはずの現実を)一面的にとらえたものであり、「既に与えられたもの=既成事実」としてとらえられたものだと指摘している。慧眼である。
    「日々造られていくもの」としてのプラスティックな「現実」という側面に対する意識が、どうやら日本人には欠如しやすいらしい。

    そのほか、福澤諭吉の相対主義的な考え方や、東京裁判での戦犯容疑者の証言から見えてくる、日本的官僚制度ふうの気質など、実に面白い、鋭い論評があふれている。
    誰かにおすすめしたくなる本。

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    2011年07月17日
  • 丸山眞男セレクション

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    p.132(軍国支配者の精神形態)
    東京裁判で巨細に照し出された、太平洋戦争勃発に至る政治的動向は、開戦の決断がいかに合理的な理解を超えた状況に於て下されたかということをまざまざと示している。むしろ逆にミュンヘン協定のことも強制収容所のことも知らないという驚くべく国際知識に変えた権力者らによって「人間たまには清水の舞台から眼をつぶって飛び下りる事も必要だ」という東条の言葉に端的に現われているようなデスペレートな心境の下に決行されたものであった。

    p.154(同上)
    千差万別の自己弁解をえり分けていくとそこに二つの大きな論理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。
    (中略)
    ここで問題なのは、自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度自体なのである。
    (中略)
    ここで「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。

    p.162(同上)
    軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層(引用者注:軍務課あたりに出入りする右翼の連中や在郷軍人その他の地方的指導者層のこと)に排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった「世論」によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで推し進めて行かざるをえなかった。三国同盟から日米交渉の決裂に至る一九四一(昭和一六)年の十月ごろにはもはや軍部自体が「国民」に対してひっこみのつかぬ境地に追い込まれていたのである。日米交渉において最も難関だった問題が中国からの撤兵問題であったということは既成事実の重圧がいかに大であったかを語っている。東条は来栖大使の米国派遣の際にも、この条項だけは絶対譲歩出来ぬことを繰返し強調し、もしこの点譲歩するならば「靖国神社の方を向いて寝られない」と述べた。(来栖三郎、泡沫の三十五年、七二頁)。松井石根もまた「大亜細亜主義」誌上で、「今にして英米と妥協しアングロサクソンとの協力によって事後処理に当ろうなどという考えを起して、どうして十万の英霊に顔向けを出来ようか。蓋し十万の英霊の名に於て吾人は絶対に対米妥協に反対である」(事変処理と対米問題、同誌、昭和一六年七月号)と気勢を挙げている。国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して「英霊」がおさまらぬというところまで来てしまった。過去への繋縛はここに至って極まったわけである。

    p.213(「三たび平和について」第一章・第二章)
    今や戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪となったのである。どのような他の悪も、戦争の悪ほど大きくはない。従って逆にいうならば、世界中の人々にとって平和を維持し、平和を高度にするということが、それなしには他のいかなる価値も実現されないような、第一義的な目標になったといわなければならない。どのような地上の理想も、世界平和を犠牲にしてまで追求するには値しない。なぜなら、それを追求するために戦争に訴えたが最後、戦争の自己法則的な発展は、当該の理想を毀損してしまうからである。

    p.246(「現実」主義の陥穽)
     現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られていくものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。

    p.269(戦争責任論の盲点)
     天皇の責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判のウェップ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。しかし少くも国内からの責任追及の声は左翼方面から激しく定義された以外は甚だ微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の道義的責任を論じて退位を主張したのが世人の目を惹いた程度である。実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人びとまでが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを露呈したものはなかった。大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限を持ち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。事実ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでなかったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも拘らず天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果すところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追求し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚性支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起されるべき事柄である(具体的にいえば天皇の責任の取り方は退位以外にはない)。

    p.306(日本の思想)
     「國體」という名でよばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはやないし、またその「魔術」にすっぽりはまってその中で「思想の自由」を享受していた古い世代にももともとない。しかしその魔術はけっして「思想問題」という象徴的な名称が日本の朝野を震撼した昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如として地下から呼び出されたのではなかった。

    p.425(現代における人間と政治)
    現代において人は世間の出来事にひどく敏感であり、それに「気をとられ」ながら、同時にそれはどこまでも「よそ事」なのである。従ってそれは、熱狂したり、憤慨したり適当にバツを合わせたりする対象ではあっても、自分の責任において処理すべき対象とは見られない。

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    2011年03月23日
  • 超国家主義の論理と心理 他八篇

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    丸山眞男ほど毀誉褒貶の激しい思想家もめずらしい。解説子の指摘を待つまでもなく、丸山の日本ファシズム論が「社会科学」として実証に耐えないことに異論の余地は少ない。それでもなお繰り返し議論の対象とされ、こうして生誕百周年にアンソロジーが編まれるのは、一面的であるにせよそこに何ほどか真理が含まれており、それが我々の琴線に触れ、また痛いところをついてるからであろう。

    肯定するにせよ否定するにせよ丸山を論じる時、誰もが否応なく「熱く」語ってしまう。これは我々日本人の深層心理と関係があるに違いない。確か福田恆存が言ってたと思うが、明治以降日本人は自らの短所ばかりあげつらうことと、逆に長所ばかり強調することを交互に繰り返してきたが、それは自分に自信を持てないことの表れであると。おそらくこれが丸山への愛憎の正体ではないか。西洋文明という怪物の脅威におののき、師と仰ぎ、乗り越えようと苦悶した近代日本の悲劇であり宿命でもあるだろう。

    丸山の言う「無責任の体系」とは、山本七平が「空気」と呼び、河合隼雄が「中空構造」と名付けたものと重なり合うが、好むと好まざるとにかかわらず日本文化に深く根ざすものだ。時代が置かれた状況により、それは短所となりまた長所ともなるだろう。確かなことは我々が歴史と文化に規定された「日本人」であることを逃れようもないということだ。反省や批判でどうなるものでもない。であればそれを運命と思い定め、愛しみ、自信を持つより他ないだろう。その上で自らの長所と短所を曇りなき目で見つめ、それと正しく付き合うことだ。これは無批判な現状肯定でもなければ「ズルズルべったり」でもない。自分だけを日本人から除外して、安全地帯からなされる日本批判は「ズルズルべったり」の裏返しでしかない。『日本の思想』を読めばわかるように、それは丸山自身が忌避したことだ。

    かく言う評者とて自信のない一介の本好きに過ぎない。丸山を語る時は人並みに熱くなる。学生の頃この有名な表題論文を読んだ時の異和感は、四半世紀を経た今読み返してもやはり変わらない。あの戦争が絶対悪であるという大前提からスタートし、それに繋がる一切を否定するという態度には根本的な錯誤と欺瞞を感じざるを得ない。真理は多面的である。過ちも非道もあったであろう。しかし総力戦を戦うということは「無責任の体系」や「抑圧移譲の原理」といった概念装置で説明できるほど簡単なものとは思えない。「天皇制ファシズム」という神話から丸山を解き放つ時、この偉大な知性の遺産を継承する「可能性の中心」が開けると思う。

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    2023年12月29日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山真男の代表的な論考14遍である。
    超国家主義の論理と心理
    軍国支配者の精神形態
    福沢諭吉の哲学
    戦争責任論の盲点
    日本の思想    等々
    かつて文庫本や新書等で何度かトライしたが、その都度よくわからずそのままになっていたものが多い。その他初めての論文も含めて通読するなかで、丸山真男に対して今回はかなり理解が進み納得感があった。
    先の大戦・15年戦争の総括を真剣かつ誠実に行なった政治学者という印象を新たにした。戦争責任の問題や軍部の無責任体制の解明など、日本の海外思潮受容の歴史特性まで遡って統治体制を政治思想や組織構造面から分析する思考の深さと明解さは秀逸なものを感じる。天皇の戦争責任の指摘には政治学者としての矜持や覚悟が滲んでいる、「退位以外になくうやむやな居座りこそ戦後の道義頽廃の第一号」。日本共産党の責任論はまだソ連社会主義への幻想に浸っていた時代でもあり、ファシズムへの批判の鋭さに比してまったく無内容であり、
    日本の戦後リベラルに繋がる限界の萌芽をみる。
    福沢諭吉の評価については、彼の「惑溺」に陥らない思惟方法と価値意識、多元的価値の知性による試行錯誤の過程が文明だとという主張、「世の中と交際を多くし議論を捏ねくりまわし進歩の先陣を切って世の中をデングリ返す」という哲学等が取り上げられ、日本の思想史における彼の価値を発掘し重要性を再確認した丸山の功績と意義はとりわけ大きいものがあると思う。
    話は変わるが、丸山の超国家主義の「超」たる所以を思想信条や道徳・宗教の「私事」、倫理的実態としての価値内容をも国家主権の支配根拠においたという当時の国体をベースにした政治体制の分析は独伊と比較して十分納得できる。

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    2023年02月12日
  • 丸山眞男セレクション

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    断っておきたいが、本書を全面的にレビューはしない。例えば「超国家主義の論理と心理」を取り上げてしまったら、それこそ五千字以上の論文にならないといけないと個人的には思うからである。

    先日5月3日の3年ぶりのリアル憲法集会に於いて本書の『「現実」主義の陥穽』(1952「世界」5月号)を話題にしていた。久しぶりに再読したくなった。今年はサンフランシスコ体制(安保体制)70年。正に70年前、丸山眞男は(軍隊の復活に反対している丸山に対して)「現実的でない」という言葉をよく使われたらしい。

    現在日本の閣僚のほとんどが参加している日本会議が、「ウクライナは現実を突きつけた」と言っているらしい。
    丸山眞男は、「現実的ではない」「現実を直視しろ」という主張には3つの特徴がある、と言っている。
    ①現実=既成事実に屈服しろ、という事に他ならない。それは容易に「現実だから仕方ない」に転化する。
    ②問題は多面的なのに、一面だけを強調する。
    今回でもNATOへの批判は多々ある。例えばギリシャはNATOの戦車の動きを2週間止めた。ベルラーシでは、ロシアの戦車を止めるため、鉄道の信号システムを遅らせた人々がいる(その人たちがどういう処分を受けたかは明らかではない)。そういうことは報道されない。
    「現実たれ、というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指しているのでしょうか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択しているのです」
    ③「現実的」と呼ぶのは、たいていは支配勢力。反対する人たちは、「観念的」「非現実的」とレッテルを貼られがちだ。「なんといっても昔から長いものに巻かれてきた私たちの国のような場合には、特に支配層的現実即ち現実一般と見做されやすい素地が多いと言えましょう」

    そこから丸山は、1952年の情勢について滔々と述べて、再軍備すべきという主張がいかにリスクが多いかを明らかにする。

    現代も、「現実を見よ」という勢力の次の言葉は、「だから改憲するべきだ」「だから日本も核兵器をシェアするべきだ」「敵基地攻撃能力を持つべきだ」という主張を次々と発するようになった。選挙を睨んでの発言であることは明らかである。
    長いものに巻かれてはいけない。

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    2022年05月18日
  • 丸山眞男セレクション

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    丸山真男の論稿から代表的なものを掲載。50年代の第二次世界大戦の記憶がまだまだ生々しい頃の論稿において、日本における責任の所在のなさ(最終的に円の中心に天皇がいる)、現実を既定のものとして受け入れてしまう姿勢を論じていることに、時代を感じつつ、しかし今もアクチュアルに感じる議論が展開されている。

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    2020年12月27日
  • 丸山眞男セレクション

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    初めて丸山眞男の文章に触れた。難しい言葉を使ってるようで分かりやすい、面白い文章だった。第二次世界大戦期の日本人の精神その他についての彼の考えが目から鱗。こんな教授に出会いたかった。ほんのわずかだが自分がこの世に生を持った時間と彼がこの世に魂を残した時間が被っていることに感動。

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    2016年10月18日
  • 超国家主義の論理と心理 他八篇

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    今から見れば確かに首をかしげたくなることはある。しかしこの先見性には舌を巻く。まるで今のこと言ってんじゃないの?と疑いたくなるくらい。

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    2015年08月02日