フェリックス・ガタリのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったということ。
そのせいでどこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至っ -
Posted by ブクログ
「リゾーム」「多様体」「器官なき身体(CsO)」「強度」「顔貌性」「非正確(不正確ではなく)」「存立平面」「戦争機械」「抽象機械」といった数々のD-G用語について、おぼろげながら理解した。
本の主題は、資本主義と分裂病なのだが、内容は資本主義の分析にとどまらず、「人間」「言語」「国家」「生命」を、歴史的・宇宙的な規模から考察するどえらい内容となっている。
思考のフィールドが広大すぎて、さすがの翻訳者(宇野邦一先生)も、その全貌をとらえきれないという感じで、あとがきを書いておられる。発刊後43年が経過して、まだ、この本の本格的な解説書は現れていない。
リゾーム概念は、おそらくブロックチェーン -
-
-
Posted by ブクログ
「生成変化」「リトルネロ」および、既出ではあるが幾度もリロードされアップデートされる「(脱/再)領土(化)」の3つの概念が中巻においては差し当たり極めて重要。その周囲に彼らの独創的ではっとするようなテリトリーがあり、おそらく彼らの予想を越えた含蓄がある(その予感が「文学をひきあいにだしすぎる」と非難されながらも[上p ]、文学性に近づけた動因ではないだろうか。その美しい表現は、まわりくどく曖昧ないいかただととらえることもできるだろう。しかし、「すべてを曖昧にしておくのは容易だなどと考えないでほしい。」[p64])。
第7-9章は、それらの重要な概念をもちいた実践例。「顔貌性」や「切片性 -
Posted by ブクログ
序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[
-
-
-
Posted by ブクログ
1082夜
ドゥルーズの中では一番好きだなあ。
1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手 -
-
-
Posted by ブクログ
この本の真骨頂である「欲望機械」や「分裂分析」、「器官なき身体」の定義、「欲望的生産」と「社会的生産」、死と強度の問題、革命の話などが展開される下巻。「脱コード化」という概念は流行ったが、今読むとそこはあまり面白くない。
むしろ、オイディプスの三角形、端的に言えば近代家族モデルであるが、これを解体するに飽き足らず、「人間」そのものも概念的に解体し、あらゆる欲望という切り口でその存在を捉えなおし、その欲望が社会の中へはめ込まれていく、あるいはそこから逸脱していくさまを描いたところが非常に面白い。この説明はわかりにくいだろうか?
つまり、自我を持つ主体としての人間という定義すら、DGは投棄し -
Posted by ブクログ
もう流行ったのは一昔前になるだろう。ドゥルーズ=ガタリのもっとも初期の著作、アンチ・オイディプス。
上巻は、「資本主義と分裂症」の後者、分裂症と精神分析、そしてオイディプスの三角形の批判が行われる一章と二章。そして、モルガン=エンゲルス的な唯物史観と絡めて論じる三章の前半だ。
多くの概念が、その内容を提示されないまま並べられ、論旨が進んでいくので、上巻だけでいろいろと読み込んでいくのは難しい。ただ、もう最初の方だけで「アンチ・オイディプス」という論の趣旨は十分に理解できる。とはいえ、この本の面白いところは「アンチ・オイディプス」の立論とは別にあるので、上巻はまだ前座といったところだ。
困っ -
-
Posted by ブクログ
かつて、高価で分厚くやたら重いハードカバーのドゥルーズを、こづかいはたいて買っていた身としては、河出文庫で次々と廉価・軽量に発売されていく状況を見て悔しい気持ちがつよい。
『千のプラトー』だけは買ってなかったので、文庫で購入、早速読んだ。
面白い。
ドゥルーズと言えば「ポップ哲学」などと言われたりもするが、この著作にはまさにぴったりな言葉だ。
ポップということは、ヴィヴィッドで人の目をひくカラフルな表現、そのシニフィアンの連鎖に内容=シニフィエの重さが伴わない、むしろ空疎な構造体を指すが、この本はまさにそんな感じである。
『アンチ・オイディプス』よりもずっと「面白い」この本は、かなり独自で奇抜 -
Posted by ブクログ
はっきりいってほとんどわからない。精神分析にも資本主義にもたいして知識を持っていない自分にはわからない理論が多すぎるし、脱領土化、脱コード化というような重要単語も、どれだけ読み進めても今一つ意味が定かにならない。こういうことなのかなと自分なりに解釈して読み進めていくと、ぜんぜん違ってましたということもしばしば。
でも、わからないならわからないなりに読んでて面白い。わからないものが次々と繰り出されて、頭くらくらになるのが心地よいというか楽しいというか。蛇行してうねりながらものすごいスピードで展開する精神分析批判・資本主義批判を、振り落とされないようになんとついていく(完全に振り落とされているけ -
-
-
Posted by ブクログ
欲望を一定の方向に導くような秩序・規則はない。例えば、母を愛の対象とし、父親に打ち勝とうとする欲望(エディプス)は、家族という枠組み(秩序・規則)に限定されない。欲望の矛先は木の根っこのように色んな方向にごちゃごちゃになって向かう。遊牧民のように次から次へと住処を変え、一つの場所にとどまることはない。だから、異なるものを整理して、統一して、秩序だった体系を作るのではなく、異なるものを異なるものとして受け入れよう。▼同様に、価値観や「自分とは何者か」を体系化するのではなく、その時々で様々な価値観や「自分とは何者か」をこだわりなく受け入れよう。ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ Deleuze
-