小野恭子のレビュー一覧
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私たちの身の回りにはいろいろな基準値があります。食品の消費期限や、大気汚染の基準、そして放射性物質による被爆基準など。でもこれらの基準が守られていても「本当に安全なの?」と疑問に思うことはよくありますよね。福島第一原発事故の後、枝野官房長官(当時)が「ただちに健康に影響はありません」とよく言ってましたが、「じゃあ長期的にはどうやねん」と疑問に思った方も多いのでは。
本書は様々な基準値がどのような根拠で決定され(非科学的な決め方が多くて驚きます)、それを私たちがいかに受け止めるべきかの指針を与えてくれます。「基準というのは 考えるという行為を遠ざけてしまう道具である」という本書にある言葉どおり、単に基準以下かどうかという極論に陥らず、「○○基準の何倍!」というような新聞等の見出しに必要以上に煽られることのないように心がけたいですね。
「必要以上に危険を煽るつもりもないし、安全を強調するつもりもない。基準値のありのままの姿を知ることで身の回りのリスクの大きさを知ってほしい。リスクを知らないまま不安になるよりは、知っている方が安心だ」という著者の姿勢には強く共感できます。 -
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国民の安全を守る基準値。食品,環境,事故の各分野で定められる基準値のしくみを詳しく解説。「基準値の〇倍!」という叫びに何の意味もないことが分かるし,およそ基準値というものが科学のようでいて科学だけでは決まらない「レギュラトリーサイエンス」であることも丁寧に教えてくれる。大筋・大枠は科学でも,基準値を決める際の数値の使い回し,リスクだけでなく達成可能性をも加味する必要性,決めた後になかなか変更できないという硬直性などの実例を見ると,科学が社会を律するというイメージは打ち砕かれ,まさに社会と科学の相互作用でやっているんだなと感じる。こういうことは社会の側にいる我々市民も,前提として共有しておかなくてはならないはず。お薦め本です。
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●日常を取り巻く「基準値(ルール)」が、科学・政治・妥協の混ざり合いによっていかに作られるかを解き明かし、盲従せずにリスクと向き合う思考力を養うための一冊。
●基準値というものの考え方と未知のリスクと向き合ったときのアプローチの仕方を学ぶ。→根拠に目を向けることと基準を盲信するのではなく「何を守りたいか」を考えることが大切。
●我々はリスクを判断する時、「基準値以下なら安全、超えたら危険」という二分法で世界を捉えがちだが、本書は、その一線が、純粋な科学だけでなく、政治、歴史、さらには「説明のしやすさ」といった極めて人間的な事情で引かれている実態を鮮やかに描き出している。特に興味深いのは、「20歳からのお酒・タバコ」や「2メートルのソーシャルディスタンス」といった身近な数字の根拠が、実は過去の数字の使い回しであったり、実行可能性との妥協の産物であったりするという指摘。一度決まった数字が「権威」となり、思考を停止させてしまう危うさ。著者は、科学と社会のギャップを埋める「レギュラトリーサイエンス」という視点から、この見えないルールとの付き合い方を説いている。本書は、基準値を単なる「壁」として恐れるのではなく、私たちが「何を守りたいのか」を議論するための共通言語(道具)として捉え直す。未知のリスクが次々と現れる現代、自分の頭で判断するための「物差し」を授けてくれる。 -
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世の中に存在する「基準値」が緻密に決められているのか、意外にエイヤっと決められているのか、背景が知れたらいいな、と思い購入
緻密に技術的な裏付けだけでは決められないこと、社会的な事情や、考え出したらキリがないパターン、条件があって、どこかで割り切らないといけないということ、昔決めた基準値を変更するのは、その根拠がよくわからなかったりそぐわなかったりしていても、なかなかハードルが高かったりするということ、国や人種によっても考え方が異なること、でも参考にしたりもすること、と言った感じで、個人的には、結構適当に決めてるんだなぁ、でも、そうやって決めるしかない事情なんかも知れて面白かったです
また、例えば健康診断を受けるとデメリットも存在するという考え方があるという話など、「基準値」以外のことでも知らないことがまとめられていてとても勉強になりました
個人情報とプライバシーの違いが曖昧になってきている話や、AIへの適用基準は発展が速すぎて永遠に追っつかない話なんかも最先端で興味深いものがありました
「基準値」の背景を知った上で、今の状態の良し悪しを判断することが大切であることを改めて感じました。けれど、そんなことをいちいち確かめていられないのでなかなか難しいですが… -
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前著「基準値のからくり」が好評であったろうからの続刊。大体こう言うのはうまくいかない。
ネタが切れるし、前と同じでいいのか、オリジナリティを出せばいいのか迷って、自然体でなくなるからじゃないかなあと思う。いいのもあるけどね。
この本は微妙。
前と同じ主題であるが、項目が減って、深掘りをしてる感じで。
ブルーバックスだから仕方ないのだろうが、結局、個別の基準値について一個一個検証しない我々は、一つ一つのエピソードを楽しみたいのであって、そこんとこどうすかねと思った。
いくらかリスクを組み込みながらも、守らなければいけないことがあるなら、こんこんと理屈を説明するより宗教のように、こうやねん、と言い切った方が案外役に立つみたいな記述は、なるほどなと思った。
そう言うもんなんだろう。 -
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ネタバレタイトルの通り、世界は基準値でできているかどうかは眉唾だけど、コロナ禍以降というか、昨今の異常気象だからか、大地震のあった後だからか、たしかに、やたらた基準値という言葉は耳にする。
そもそも、なぜ基準値が必要か? というと、要は「安全」「安心」のためだというのが、本書の主旨(そのわりに、最初はスポーツ界におけるジェンダー問題、女子選手の”基準値”の話から入るのだが)。
ともかく、その基準値は「科学的な評価」のみならず、今や社会・経済・文化など、さまざまな要素も加味され、それゆえに、”基準値の根拠を探ることは「世の中の意思決定のしくみ」を探ることでもある” という論の展開は、見事。
ジェンダーの基準値、テストステロンの話から始まり、 新型コロナにおける、距離、時間といった基準値や、命に関わる話としては、放射線の基準値、処理水と除去土壌の話、がん検診は2,3年ごとでいいのかどうなのか、その基準値はどこにあるなど、身近な話題がてんこ盛り。将来的には、AIと個人情報の基準値と、それは「値」か? という話まであれこれ網羅していて楽しい。
ともあれ、基準値には4つの特徴があるという点は、まず押さえておいた方が良さそうだ。
1.従来型の科学だけでは決められない
2.数字をつかいまわしてしまう
3.一度決まるとなかなか変更されない
4.法的な意味はさまざまである
とくに3.とか。確かにいつまでたっても過去に決めた基準値で思考か固定されてしまいがちなのは、なんとなくだが体感的にも理解できる。
基準値を、どのレベルに定めるか、という問題は「私たちはどのような世界に生きたいのか?」ということだという指摘は、なるほど、ごもっとも。
とはいえ、本書も語るように、
「根拠は、後付けで積み重なってくる」
というのも、世の常だと思うし、あまり基準値に振り回されない心持ちが大事なのかもしれない。
所詮、人が定めたもの。それが絶対ではない、という思いを常に持っていたい。基準値、それは、あくまで参照する値、くらいでいいのかもしれない。 -
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「基準値は社会の約束事」だそうだ。
OK か NG かの判断基準となる数値だ。
基本的には人にとっての安全を担保するために科学的根拠を前提にして数値を決める。
だが高血圧の値などは、医者や製薬会社、健康食品メーカーの儲けを鑑みて数値を決めているように感じる。
日本人の3人に1人が高血圧って、高血圧の基準がおかしいんじゃないの?
同様にメタボの基準も日本人の3割をメタボにする値が設定されている。
ちょいメタボが長寿という報告が世界中から挙がっているので、基準値が変わるかもしれない。
男性はBMI25~27、女性はBMI23~25、が死亡リスクが最低というデータもある。
体重を落として、BMI25以下まで痩せたけど、もう少し太ってもいいのかな。
いくつもある科学的データのどれを採用するかは、社会活動や経済活動からの要求も加味されている。
決める人の利権や都合に左右されているということだ。
自民党の国会議員なら、3000万円未満なら裏金を貰ってもOKという基準値もあるしね!
男と女、大人と子供、これらを区別するための基準値はどのように決められたのか?
酒・煙草は20歳から、はどういった判断から?
酒・煙草は体にとって有害な要素があることは分っているが、大人(成年)になれば「自己責任」ということで許可することにしたようだ。
だが、最近 20歳=成年 から 18歳=成年 になっても、酒・煙草は20歳からと変わっていない。
昭和の時代までは喫煙は日常生活の一部だった。
かつては子供も喫煙していたようで、なんと、明治時代なって「小学校における児童の校内での喫煙が禁止」されている。(へー、そうなんだ)
その後、18歳未満は喫煙禁止となり、現在の20歳未満は禁止に至る。
なぜ20歳なのか、医学的見地からの根拠は示されていない。
喫煙がやめられない20歳以上の大人が沢山いますからね。
真面目に検討すると喫煙は全面的に禁止となりかねないので、検討しないようにしている(らしい)。
男女の基準値は?オリンピックで女子選手とされる基準値は?
スポーツ競技だけでなく、日常生活においてもトイレ問題や公衆浴場問題で、最近も性別判定基準はしょっちゅう揉めている。
セーヌ川はトライアスロンのスイム競技の水質基準をクリアしている?
放射線の基準値。
原子力発電所の基準値。
水道水の基準値。
食の基準値。
なんだそりゃ、という変てこな決まり方をした基準値もあるが、多様な価値観を反映すべく決められている。
車や飛行機なども「事故ゼロ」を求めたら作れなくなる。
安全基準として、どの位なら人が死んでも良いかを決めて、コストに見合った設計・開発をしている。
「基準値は自分たちで決めていい」とも言っている。
福島原発事故の後、漁師さんや海鮮物を食べる人、そこに住む人などが意見して、放射能の許容値に口出しして「基準値」を決めている。
一度決めてしまうと、基準というものは、考えると言う行為を遠ざけてしまう道具になりがちだ。
しかし「基準とは、私たちが生きたいと思う世界を考え、実現するための良い道具である」
だから、この「基準」はおかしい!何とかしろ!と言う人が多ければ変えられる。
私が時々思うのが辛さの基準。
カレーでは、甘口・中辛・辛口・大辛、激辛や、辛さ2倍とか5倍、10倍とかあるが、標準値がわからない。
カレーは種類が多く、辛さの基準はメーカーやお店が独自に決めているらしい。
だいたい美味しく食べられるので、辛さの基準はどうでもいいけど… -
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いろいろな場面で登場する「基準値」と言うモノ。
様々な基準値がありますが、そのいくつかについて決められれるまでの経緯やら、その意味やらを掘り下げて解説されている一冊です。
意外と、いい加減な基準もあったり、時代にそぐわないものもあったりと、基準値の種類によってずいぶん変わるものなのだなぁと。
17ページと106ページに登場する、米国の疫学者であり衛生工学者のウィリアム・セジウィック先生の
" Standards are devices to keep the lazy mind frm thinking. "
(基準と言うものは、考えるという行為を遠ざけてしまう格好の道具である)
のフレーズが印象に残りました。
付箋は20枚付きました。 -
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リスク評価とか、それをどう社会に導入するのか、とかについて、基準値を足がかりにいろんな具体例にそって解説した本。
基準値の決め方(あるいはリスクの評価方法)というのは対象によって実にいろいろで、何か一つ決まったやり方というものがあるわけではない。一つの対象についても、立場によっていろんな評価の仕方が提案できるんだろう。そういう意味で、絶対的な真実を追求する科学とは違うものであり、わざわざ「レギュラトリーサイエンス」と名付けていわゆる科学とは区別したりする。人類の歴史においては比較的新しい分野なんだろう。特に、分析技術の進展によってそれまで測れなかったような微量成分の定量が可能になり、リスクの有無を分ける閾値が存在しないケースがあることが明らかになって、我々は「受容可能なリスクはどこまでなのか」を決めなければならなくなった(ここら辺の歴史についてもふれられている)。つまり、基準値は、リスクの有無を分けるものではなくて、そのリスクが受容可能な範囲にあるかどうかを分けるものとなったのである。
このリスクに関する新しい考え方は、まだまだ一般にはなじみがない。それゆえに、基準値に関する誤解も広く見られる。しかしながら「受容可能なリスクがどこまでなのか」というのは科学では決められない、人々の合意として社会的に決めるよりほかに決め方が存在しない問題だ。ゆえに、リスクに関する正しい認識が人々に広く伝えられることは、どうしても必要なことなのだと思う。
著者たちは基準値オタクなのだそうで、盛り上がるポイントがいまいちシロウトにはわかり難かったりした。あと、網羅的な話題が多く、俯瞰的な話がもっと読みたいとも思った。でも、それはまだまだこの分野がこなれていないためなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
食品に限らず、行政が設定するいろんな基準値について、その根拠と考え方が説明されている。
一番気になるのは食品に関する放射性物質に関する基準値。他の記載はなんとなく分かった気になれるが、この部分だけはうまく理解出来ない。いったいどう読めば自分なりに安全かどうかを判断できるのか、自分なりにどう折り合いをつけることができるのか、自分の考えを持つことが出来ない。
読み手の理解力の問題も多分にあるだろうが、基準そのものに想定要素が多すぎて、私達が考えているほど確定的に決めることが出来ないからだろう。
著者は現在流通している食品の摂取は許容できるリスクと考えているようだが、それは事故以来放射性物質が放出されていないことが前提のようだ。しかし、どうやらF1からは事故以来ずっと現在までもいろんな形で放射性物質が放出され続いている。それでも、許容できるリスクと考えられるのか?疑問に思える。