前田英樹のレビュー一覧
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遺言で「私は公衆に読んでもらいたい著作はすべて刊行した。そこでそれ以外の講義録や講演録、手紙の類の出版は禁じる。もしこの禁止を(自分の死後)破った者がいた場合妻と娘に裁判に訴え出て貰い、出版されたものの廃棄を要求する」なんて言った哲学者がかつていただろうか。びっくりした。
普通哲学者の全集が出る場合講義録や講演録や手紙の類も含まれるし、ハイデガーのように生前から自分で出版するよう働きかける哲学者もいるのに。
これはもう「持続において思考する」ベルクソンだからこその配慮であり、その人物の著作物なら何でも読みたいと思うのは人間のさがだとも思うので、その他の研究者にはできないものだった。ベルクソンはそれ以外の著作物が「単純な一つの行為」を読み解く道筋を塞ぐものだと理解していた。
どういうことかというと、知性や知覚が停止させたものに運動を取り戻すこと。
ベルクソンは読む人が唖然とするような転倒を行う。
宇宙には物質と生命の二傾向がある。知性は生物上の発生時から物質を少数の要素に細分し、その組み合わせを自由に行い、物質を自由に取り扱うことを目的とする。宇宙を満たすもう一つの運動の側面は生命であり、こちらはそのような固定も合成も受け入れない。
『意識の直接与件に関する試論』
一つの心理状態から別の心理状態に変化するのではない。あるのは連続する心の変化それ自体であり、そこにはどんな切れ目もない。純粋たる持続とは、融合し、相互に浸透しあい、明確な輪郭を持たず、互いに他を外在化しようとする傾向を持たない。寄生的自我が形成され、人間が自動人形のように動くようになる。しかし人間は意志するより寄生体に任せた方が楽なのでそのままにする。この寄生からの脱却が自由となる。
『物質と記憶』
過去はそれ自体で実在する。脳は静止した個物としての記憶を保管する器官ではない。実在する過去を現在の行動に応じて不断に膨張、収縮させて、現在の地点で働かせている、これが脳の機能。円錐の比喩がこれ。脳は突出した器官だが思考そのものの器官ではない。脳は精神が考え感じ覚えたものを身体の行動に結びつける神経組織。人間は、静止した個物としての記憶をどうやって呼び出すのかといった問題はニセの問題に属する。松田氏の分かりやすい例では、オーケストラ(精神のシンフォニー)と指揮棒(脳)。指揮棒を失えばオーケストラはバラバラになるだろうが、指揮棒が音を出してるのではない。ここから、私達は脳があるにも関わらず持続を思考できる、持続において思考するとは、いわば脳の作用を突破して思考することだ、という説に至る。
難解で有名な『物質と記憶』だけど、本書の4章と5章は分かりやすい解説でもあるので、『物質と記憶』のお供になると思う。
『創造的進化』
生命は進化によって器官を作ったのではない。私達が器官とみなす物質の通り道を運動の後ろに残してきた。物質の中を持続が貫くことで、惰性的な物質的傾向は深く入り込まれ屈折している。持続が貫通させた持続自身の路、これが有機物質としての器官だ。環境への適応ではなく、問題への回答という概念に作り直される必要がある。人間とホタテ貝の眼の構造が同じなのは、同じ持続の力が同じ強度で通過した物質的抵抗の痕だと考えれば納得いく。どちらの身体も視覚という問題に、同じ強度で回答した。
『道徳と宗教の二源泉』
人間は本能を知性で抑え込むことに成功した唯一の生物。本能の赴くままに、まるで機械のように反応することもなく、人間は自分の行動を自由に使うことができるようになった。これは個々の人間が利益を得るには大変有効だが、人類の生命を根本で支える群れに対しては危険なものとなる。人類が知性による個体の勝手な行動を許せば許すほど、人間社会は本能に起源を持つ道徳や宗教で自らを防衛しなくてはならない。人間の知性は、宇宙の半身である生命的傾向、本能がないと生きていけない。この本能とは人間にあっては「開かれた直観」というものに引き上げられた。直観とは精神を追う知性であり、物質を追う知性が普段実行していることをいつも前提にし、逆向きに辿る。
本文庫には補章として昨今話題の人工知能(AI)を持続において思考している。
知性は生物上の発生時から物質を少数の要素に細分し、その組み合わせを自由に行っている。AIとはそれの最たるものだ。人間が行っていた知性の行動を、情報を即座に記号関係に分類する能力を極限まで高めたロボットにやってもらう。これに人間がかなうわけがないのは当然だ。人間が持ち上げられない重量の鉄筋をクレーンでやすやす持ち上げられるようになったが、これと同じこと。しかし、これを生成AIと呼ぶことはどうだろうか。ベルクソンのいう生成とは、分割不可能な持続が、絶え間なく自己自身は創造している運動を指す。この持続は限られた極小要素の無限の組み合わせではない。つまり、創造ではなく、組み合わせ可能な状態であったものの顕現でしかない、という。ベルクソン芸術論では、芸術家は芸術特有の記号を使って勝手なファンタジーを織るのではなく、彼らは自然への知覚を、生活の注意から解放する。押し広げられた知覚は自然そのものである持続を対象とする。ここには限られた極小要素を無限に組み合わせる絵札のような作業とは質的な差異がある。実用に役立つ記号の群れや、社会的に受容されてる一般観念、つまり私達に実在を隠してる一切のものを取り除き、実在そのものに直面させてくれない。
何をどう呼ぶかはその者の自由だが、生命の傾向をまっすぐに対象とする哲学者にとっては、生成という語をこのように用いることはできないという。この意見に賛同するか反対するかはともかくとして、考えさせられる。だから何だと思われそうだが、AIに対して「生成」というのは過大評価しすぎているような気がする。
『笑い』について
本書には『笑い』についての話がなかったので、私が勝手に補足してしまうことにする。笑うことがどう持続と関係してるんですか?という話。
物質とは生命に浸透されており、注意深い生とは変化にとんだ継続であり、不可逆の進行であり、分割できない統一である。その生が突如放心してしまい、本来注意深く生きているはずの人間が、まるで機械人形や操り人形のように同じことを繰り返しだしたらどうだろうか。それはすごく滑稽だ。
(『ベルクソン哲学の遺言』から)物質とは惰性的に繰り返すもの(101P)、記憶を持たない繰り返し(130P)生きた実感から離れたもの(140P)、実感に基づかない計算、こわばっている(150P)。物質と生命という二傾向の人間が、このような物質的傾向のみになってしまって(人が物に似てくる)、バネやネジで動かされてるように見えるとき笑いが生じる。この笑いはある種の矯正であり、放心してしまった人に生を取り戻させる。 -
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前田英樹の著作からは、いつも深々とした読後の余韻と、大切なものに触れさせてもらったという実感をもらうことができる。
やや図式的にまとめてしまえば、人間の知性は物質の解明には役立つが、生命、精神の解明には役に立たない、そのためには直観が必要ということを、最も明晰に語ってくれたのがベルクソンであるということを、味わい深く解説してくれている。
一部引用する。
数学が作り出した微分の観念は、純粋な持続への全体的な直観から生まれている。が、この直観は科学になることによって、元の直観が捉えていた運動、持続を犠牲にした。
哲学とは、このような犠牲への抵抗でなくて何だろう。物質の、身体の、「人間的なもの」の水面へと浮き上がってきて科学に変貌しようとする直観を、始めの深さへと押し戻す努力でなくて何だろう。
美しくも、正確な哲学の定義である、と私には思える。 -
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とてつもない読書体験だった。
一冊の本読み終えて、これほど深い感銘を受けたことがこれまであったろうか、とわが読書人生を振り返させられた。
ここに描き出された保田與重郎という人物のなんと魅力的なことだろう。
文学の歴史を語っても、美術の歴史を語っても、凡庸な学者が教科書的に知識を羅列すると全く対照的に、物事の本質と核心に真っ直ぐに向かい、それを剔出してきて、端的に示す。
そのようにして示されたわが国が守るべきものは、「日本」ではなく「くにがら」である。
そのくにがらとは、天照大御神がその孫に授けた「稲穂の神勅」に始まる。この「事(言)依さし」によって、神と人が共に働く。米作りをする。その勤労のすべてがそっくりそのまま祭りの暮らしであり、神と共に生きて働く至上の喜びである。
これこそ、平和に人々が暮らしをたてるための究極の道であると。
さらに保田は断言してみせる。
この道を伝えることができるのは、文学だけなのだ、と。
そしてそれを伝えてきた隠遁詩人の歴史を語るのである。
それにしても保田與重郎という人物の眼力と文章力、そして何より自らがその文学の力と使命を体現せねばならないという覚悟の透徹を、かくまで清澄で味わい深い文体で、しかも保田の内側に深く入り込んで描き切った、前田英樹のこの文業は特筆すべきである。
読むことも、考えることも、感じることも、味わうことも、生きることなのだと、生きることの真髄を教えられた読書体験だった。
これから、折に触れ、読み返すことになるだろう、大切な本だ。(だから一切書き込みや棒線引きはできなかった) -
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ずっと積読だった本を、日本人の原点について考えていてあらためて手に取り、読んで深く心を揺さぶられ、かつ、驚嘆した。
日本人には宗教あるいは信仰心と呼べるものが希薄、というイメージが浸透しているが、著者はそうではないと言う。
日本人にも信仰はある、などという軽々しいことを主張しているのではない。
日本人の宗教には経典という形でまとめられた教義がないために宗教の存在が疑問視されるが、ことは逆さまである。日本人の信仰はその立ち居振る舞い、行動、とりわけ祭りという営みの中に端的に表現されているのだという。
そして祭りの根源は、年祈祭であり、新嘗祭であり、とどのつまりは稲作民が神に祈り感謝し、神とともに稲の収穫を祝うという生活そのものである。
このような米づくりそのものの中に生き生きと生きている信仰は、一神教のような闘争や競争、ひいては殺戮など起こしようがない。
すなわち最も根本的なレベルでの平和の原理なのである。
人が人を貪り食うカニバル(共喰い)資本主義がはびこる現代、人類の未来へのひとすじの希望がここにしたためられている。
そしてこの本から教えられたことで、個人的に極めて大きかったのは、それまで読んだこともなかった保田與重郎という強靭な文人・思想家の存在である。
これから少し保田を読まねばならない。 -
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二宮尊徳のことから始まって目から鱗の連続だった。自らの無知を恥じ入るばかりだ。目次から内容が予想できなかったここ最近初めての本である。最後は具体性をもって、幸福と平和の本質に迫っていた。
・畏怖や讃仰のないところに、教育は成り立ちようがない。
・人生のなかでほんとうに考え、学んだことは、みな口には出し難いものだ。
・国際人である必要など少しもない。
・進歩の思想ほど退屈なものはない。
・何から何まで人任せで、あれが旨いだのまずいだのと言っている。このことが、精神の独立性に影響を与えないはずはない。
・戦争の残酷さ、怖さを伝えるのは逆効果だろう。
・努力して生きることへの根本からの自信のなさがある。 -
Posted by ブクログ
文通を通して意見交換した「剣の思想」とは
打って変わってこの本は遠慮のない文体なので
読みやすいし気兼ねなく反論を覚えたり共感したりできる
読み出しの「まえがき」からして愉しく読み出せた
人間は産まれると同時に辺りを探り相手と出合うことの
独学によって自分の存在を確認してきた
それが歴史のある縄張りほど責任転嫁と依存に逃げ込むための
官僚制度に頼ることになる
それは結局騙された形での
暴力支配による恩恵に浴することを願っているのだ
学問が外目線で始まると単なる物知りの知識になる
学問を冒険にできれば出合いを切磋琢磨にして発見をつなげて
人生と宇宙を舞台に遊ぶことができる
この点で前田さんの生き方を尊敬する
前田さんは世間とは違う面で二宮金次郎の生様を
引き合いに出して独学を説く
社会性とか損得とか価値観とかに縛られて
競争することで権利権限を得て搾取支配に
安全地帯を求めることを嫌い
出合いの人生を謳歌すために学ぶことが幸せに繋がるという
更に独学者を歴史から拾い上げて人生を説く
孟子・中庸・大学を比較して金次郎は
「孟子は難し中庸は易し」と言う
官僚的で机上的で部分的な孟子の理に対して
全体的の俯瞰した真理を説く中庸を生きた理と説く
私学者伊藤仁斎=空言・都合よく読まずに真意を探る
大小にかかわらず一身を持つものには一身で受けなければならない
本居宣長=身一つで生きる
パスカル=人間は考える葦である 時空を超えて考える
柳宗悦=民芸運動・購買運動
手仕事の民芸品と機械作りの量産品と頭作りの芸術品
奇をてらった独創的な作品と日常の中の工夫による作品との違い
人力による生産の限界と生活に沿った物の量とは調和している
この調和を壊すのは不自然な競争による欲望である -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができない…大学生の「基礎学力」のなさが言われて久しい。
だが、「教育」に過剰なこの国の若者が「学力」を欠いているとは驚くべきことではないか。
なぜ私たちはかくも「無教養」になったのか。
本書は、現代の日本人が見失った「独学の精神」をめぐる思索である。
「ほんとうに大事なことは何ひとつ教えることなどできない」「学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかなされえない」―こうした単純で大切な事実について、その当たり前の事実が行き着く先について、根っこから考え抜く。
[ 目次 ]
第1章 身ひとつで学ぶ(金次郎の独立心;学校嫌いこそ正しい ほか)
第2章 身ひとつで生きる(葦のように考えよ;知らざるを知らずと為せ ほか)
第3章 手技に学ぶ(大工仕事は貴い;教える愚かさ ほか)
第4章 農を讃える(狩猟の悲しみ;農の喜び ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
剣術とは無関係な素人レビュー。
オビには「近世剣術「新陰流」の優れた術理を明快かつ詳細に説き、身体論、日本人論として秀逸な一書。」とある。
恐らく、そういう方面に聡い方であれば、第三章にある十の太刀筋についての記述は、非常に分かりやすいと感じるはず。
しかし、この本をただの剣術書としていない所は、その「日本人」論的な部分である。
日本人が鉄器を持ち始めたのは、殺戮の為ではない。
稲作文化の栄えたこの国において、鉄器は農耕と離せない豊穣の神具であった。
いつか読んだ文にも、例えば多く古典が残されている平安時代においてさえ、殺戮のシーンというのは描かれない。
それは芸術性を高め、日本刀と成る。
勿論、その後、剣は道となり、筆者が言うには法(のり)となるわけだが。
内田樹は合気道について「どのように身体を使えば、どのように動くか、ということを型を以て知ることは、自分自身の内面を、知らなかった部分を知ることに通じる」というような事を話していて、それは本書にも通じるように思う。
相手をどう動かし、どのタイミングで剣と身を一つとするのか。
人が剣と一体となる、とはどのようなことか。
結局、必勝に至るには、自身についてよくよく知らなくてはならない、そんな哲学が含まれているのだと感じた。
およそ自分から手に取ることのない分野の本を読んだことは、貴重だった。