感情タグBEST3
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二宮尊徳のことから始まって目から鱗の連続だった。自らの無知を恥じ入るばかりだ。目次から内容が予想できなかったここ最近初めての本である。最後は具体性をもって、幸福と平和の本質に迫っていた。
・畏怖や讃仰のないところに、教育は成り立ちようがない。
・人生のなかでほんとうに考え、学んだことは、みな口には出し難いものだ。
・国際人である必要など少しもない。
・進歩の思想ほど退屈なものはない。
・何から何まで人任せで、あれが旨いだのまずいだのと言っている。このことが、精神の独立性に影響を与えないはずはない。
・戦争の残酷さ、怖さを伝えるのは逆効果だろう。
・努力して生きることへの根本からの自信のなさがある。
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ほんとうに大事な事は何ひとつ教えることなどできない。
学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかない。
こうした単純で大切な事実について、その当たり前の事実が行き着く先について、根っこから考え抜く。
学問とは生きるために必要な事であり、それこそが大学で学ぶべき「教養」というものであると思う。
この三章で建築について少し焦点を当てているが、建築以外の人が語った方がその真理に近いと思う。
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文通を通して意見交換した「剣の思想」とは
打って変わってこの本は遠慮のない文体なので
読みやすいし気兼ねなく反論を覚えたり共感したりできる
読み出しの「まえがき」からして愉しく読み出せた
人間は産まれると同時に辺りを探り相手と出合うことの
独学によって自分の存在を確認してきた
それが歴史のある縄張りほど責任転嫁と依存に逃げ込むための
官僚制度に頼ることになる
それは結局騙された形での
暴力支配による恩恵に浴することを願っているのだ
学問が外目線で始まると単なる物知りの知識になる
学問を冒険にできれば出合いを切磋琢磨にして発見をつなげて
人生と宇宙を舞台に遊ぶことができる
この点で前田さんの生き方を尊敬する
前田さんは世間とは違う面で二宮金次郎の生様を
引き合いに出して独学を説く
社会性とか損得とか価値観とかに縛られて
競争することで権利権限を得て搾取支配に
安全地帯を求めることを嫌い
出合いの人生を謳歌すために学ぶことが幸せに繋がるという
更に独学者を歴史から拾い上げて人生を説く
孟子・中庸・大学を比較して金次郎は
「孟子は難し中庸は易し」と言う
官僚的で机上的で部分的な孟子の理に対して
全体的の俯瞰した真理を説く中庸を生きた理と説く
私学者伊藤仁斎=空言・都合よく読まずに真意を探る
大小にかかわらず一身を持つものには一身で受けなければならない
本居宣長=身一つで生きる
パスカル=人間は考える葦である 時空を超えて考える
柳宗悦=民芸運動・購買運動
手仕事の民芸品と機械作りの量産品と頭作りの芸術品
奇をてらった独創的な作品と日常の中の工夫による作品との違い
人力による生産の限界と生活に沿った物の量とは調和している
この調和を壊すのは不自然な競争による欲望である
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二宮尊徳や本居宣長といった人物を取り上げながら、学ぶということについて、思索をめぐらす一冊。異端の学者による極端な説が開陳されるのかと思いきや、述べられている内容はうなずけるものが多い。特に、第三章の職人の話題はおもしろかった。一人ひとり人間が違うからやり方も異なるという話は、当たり前ではあるのだが、普段見過ごしていることだなと感じた。
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[ 内容 ]
漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができない…大学生の「基礎学力」のなさが言われて久しい。
だが、「教育」に過剰なこの国の若者が「学力」を欠いているとは驚くべきことではないか。
なぜ私たちはかくも「無教養」になったのか。
本書は、現代の日本人が見失った「独学の精神」をめぐる思索である。
「ほんとうに大事なことは何ひとつ教えることなどできない」「学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかなされえない」―こうした単純で大切な事実について、その当たり前の事実が行き着く先について、根っこから考え抜く。
[ 目次 ]
第1章 身ひとつで学ぶ(金次郎の独立心;学校嫌いこそ正しい ほか)
第2章 身ひとつで生きる(葦のように考えよ;知らざるを知らずと為せ ほか)
第3章 手技に学ぶ(大工仕事は貴い;教える愚かさ ほか)
第4章 農を讃える(狩猟の悲しみ;農の喜び ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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正直、やや読みにくい文章だと感じた。しかし、筆者も書いているように、私立中学の試験問題などにも出される、いわゆる「読解力」を試される文章構成ということなのだろうか。筆者自身が「読解力」を試すことのおかしさをやや皮肉めいてかいている個所はおもしろい。
全体を通して、勉強法や教育論というよりは、筆者が日頃感じていることがつづられていると思う。最初の「二宮金次郎」の身ひとつで学ぶという項は勉強になった。
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建築、大工、農業がいかに学問とむすびついたものであるか著者自身の言葉で書いてあり説得力がある。しかし近代西洋の合理的考えをやたらと排斥しているのがいただけない。東洋と西洋の間をとるのがいいのだと思うが。
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目次より
1身ひとつで学ぶ
2身ひとつで生きる
3手技に学ぶ
4農を讃える
教育、学校で教えることよりも、独学で自分から学ぶことの必要性をとく。二宮金次郎のことが語られている。「大学」を読む、繰り返し読むこと。過酷な環境の中でも学んだことはすばらしい。
後半の3章4章は身にしみた。考えるおろかさ。
職人技を教えない理由→勘は一人一人皆違う。道具、材料、自分にあった遊びなど、
勘の手技教えられない、身一つの感覚を勘という。ごまかしの聞かない自分ひとりの技に尽きる。
vs
物に即した正確さ。
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古典は読まれることによってますます新たな古典になる。少なくとも繰り替えし読むに値するような本は、大工にとって木と同じである。
教育について二宮金次郎、内村鑑三らを例示して述べている。
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ちくま新書は思想系だと改めて感じさせてくれる著書。
二宮尊徳が焚き木をしょいながら読んでいた本は、儒教の『大学』という著書とのこと。世俗に交えず、教本に没頭できた尊徳はあるいみでは幸せだったかもしれないという説明が印象に残っている。‘精神’という言葉が入っているように精神論になってきたので、途中で切り上げる。
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『独学の精神』というから、福澤諭吉の独立自尊のような内容を思い描いていましたが、内容は全くの逆。「学問とは何か」を、巷の学者がいうようなことと真逆のことを述べている、というより、本来の学問の『本質』を痛烈なまでに切り込んだ本だと感じました。
そして、これまで僕が読んできた書物の中で、「肌身離さず持ち、擦り切れるまで何度も読み返す」くらいに信じられる書物は無いということに、痛感したのです。
明治以降の学問は、いわば『勝つため』の教育。科学的に発展した欧米列強諸国に負けじと、日本も対等になるための知識と教養を植えつけ「させる」ための制度。
しかし、ここでいう学問本来の『本質』は、身一つで如何に生きるか、誰か、何かを虐げたり優位に立つことではなく、共に生きるためにはどうしたらいいか、ということを教えていくためのもの。あるいは、手取り足取り記号化された内容を単に伝達することではなく、今あるもの、今ある技量で、自分は何が出来るか、絶えず変化する過酷な環境の中で、教えてくれる人がいない中で、『自分』という身を立てていくにはどうすればいいか。それこそが学問の『本質』であろう、ということを述べています。
今までの通ってきた道、読んできた書物を、ある意味真っ向から否定することにビックリした傍らで、「ああ、なるほどな」と思ったことも事実。様々なニーズで溢れ、それに対するビジネスが数多くあるも、あまりにも複雑化しすぎて負いきれなくなっている。それを補うために道具が発展し、またコンピュータが計算するようになったが、その分人間本来の『部分』が欠落してしまっている。
しかし、人間であるが以上、何かが充足するとあれもこれもといのは、古来から続く避けられない欲望です。これを避けて人間の本質を磨くのは、かなり至難の業のようにも思えます…
いずれにしても、学問の『本質』は何かを考えさせてくれる一冊です。