青山拓央のレビュー一覧
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・哲学:抽象的な言葉、概念をより具体的な行動、事象、名称などで説明すること
・なりえた→ありえた(時間概念を含む可能性→無時間で時間概念を含まない可能性)、初めから”ありえた”というものがあるように思うが、”なりえた”ということの経験や推測から”ありえた”は発生したもの。
・自己は他者との関わりで形成される。他者の考えは、原理的にわかりえない。(わからない部分がある)わからない部分が自分の中にも含まれる→わからないことが様々な可能性がある(自由に選択できる)と考えるようになる。
・やってはいけないとされること、やったほうがいいことについて。(社会規範)望ましい行為、望ましくない行為がある(ありうる)として、社会、他者から、いくつか与えられる。
・無限の数の行為から選択されるのではなく、実際は、知りうる有限の行為から選択を行う。様々な経験をすることで、選択肢が増加するが、増やすことができるという事実(経験)から、選択肢は無限にあると錯覚を得る。まだ見ぬ選択肢が無数にあるものと思ってしまう。 -
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テキストとしても使えるように書いたと書かれているように、分析哲学について厳密に、濃密に描かれていて凄い楽しかった
分析哲学の主な分野を多く扱っていてこの本から他の入門書・専門書への手引きとしても良質だと感じた
その学問の性質上、文字通り論理的に客観性を求めて書かれているためスラスラ読める感じじゃなくて、ペンと紙を用意して、詰まったその都度整理しながらじゃないと存分には楽しめないと思う
講義3の記述理論や、講義5の規則解釈の所は特に詰まりながら人に説明しながら自分も理解深めたって感じでどうにか理解出来た
講義7の様相論理・可能世界意味論はそれまでの講義を踏まえるとめちゃくちゃ面白かった -
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山口大学の准教授である著者による「分析哲学の専門書。
講義の形式をとっており、順番に話が進んでいくためついていきやすい。しかし、そもそものテーマが哲学で抽象度が高いため非常に難解。目が滑る箇所が多かった。
理解できた内容は半分程度だったが、それでも面白い本だと思う。
分析哲学とは、言語の働きの解明を通じてさまざまな問題に答えるものである。
私たちは、何を論じるにも観察するにも、言語に依存している。分析哲学はこの言語を徹底的に掘り下げる。その意味であらゆる哲学やあらゆる思考と、科学や倫理や芸術と、連続的なものである。
分析哲学は開かれた学問であり、本書が取り扱うテーマだけでも、「言語の構造の分析」「言語の使用に関する分析」「形而上学的「心の哲学」「哲学的時間論」と非常に広範。
分析哲学はすなわち「考えること」そのものに関わる活動なのだ。
個人的には、新しい範囲の専門知識でありながら、それが色々な考え方や概念と根底で繋がっているという感想を受けた。
難解ではあるが、トライする価値はある本だと思う。 -
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分析哲学も、一般の読書人向けの入門書が乏しい分野だという印象があります。大庭健の『はじめての分析哲学』(産業図書)や、冨田恭彦の小説形式の本はたしかに読みやすいのですが、とりあげられているテーマに偏りがあって、分析哲学全般の入門書とは言いがたいところがあります。とくに可能世界意味論の登場以降の動向も踏まえた入門書というと、本当にかぎられてくるように思いますが、本書はその貴重な一冊です。八木沢敬の『分析哲学入門』三部作(講談社選書メチエ)に比べるとかなり読みやすいのですが、それでもクリプキの「本質」理解の検討をおこなっている第7講の議論は相当に難しく感じました。
第6講では、言語ゲームの実践における人々の行動の無根拠な一致がわれわれの生活の底板を形成していることに着目して、それを「原初的自然」と呼び、この「自然」とクワインの認識論の自然化がめざす自然科学的な「自然」との関係について考察がおこなわれています。著者は、ウィトゲンシュタインの私的言語批判の議論を参照しつつ、言語が私的な心の領域から公共的な領域へと移行することで問題が解決したのではなく、公共的な領域でこそ規則のパラドクスが考慮されなければならないと指摘します。これによって、ベタな行動主義との違いが定められることになるのですが、さらに著者は、人びとの行動の無根拠な「一致」がまさに「一致」として記述されるのは、その記述自体がベタな行動主義と同様の「非原初的な自然」の次元に属していることに依拠していると指摘し、「原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力をもちません」と主張します。
一方第9講は、著者の専門である時間論で、とくに時間対称的な物理的な世界観の中に「時間の矢」を見いだそうとする議論が、ひそかに日常的な時間の非対称性を密輸入してしまっていることを指摘する議論などは、興味深く読みました。 -
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最初の分岐問題から気持ち悪い
哲学系で卒論から、というので、研究が浅いのは仕方ないかもしれない
それこそ、物理学への理解として、カール・ポパーやブリゴジンの知見は咀嚼できていない
量子力学的な重ね合わせの現在であったりにも対応できないと思う
議論もまるでスコラ哲学か?と思うくらい安易に感じる
矛盾律を用いて議論を進められるほど包括的な検討ができてるとも思えない
悪い意味ですごく「哲学的」な域にいると感じた。
最後まで読めばそうは思わないのかもしれないが、1章を読む間に感じるストレスが大き過ぎてちょっと最後まで付き合いきれないな、と思った
物理学だけでなく、意識の脳科学的な理解もたりてないと思う。やはりそういう意味でもあまりに「哲学的」な域にいる。語の本来の哲学には至ってない狭苦しさしか感じない。
なるほど、そう感じるのはわかる、でもそれは、あなたの未熟故では、としか思えないのだった。。。 -
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「幸福とは何か」「いかにして幸福になるか」「なぜ幸福になるべきか」という問いを哲学的に考察する道筋をわかりやすいことばで示している本です。
著者は、現代の哲学・倫理学における幸福論が「快楽説」「欲求充足説」「客観的リスト説」の三つについて紹介し、それらはたがいに対立するよりもむしろ「共振」するということに注目して、著者自身の幸福についての考え方が語られています。
あるいは、テーマそのものがこうした論じ方を要求しているところもあるのかもしれませんが、哲学的な方法によって幸福の概念についての考察を展開していくのではなく、もうすこしわれわれ自身の実感に寄り添うような場面に足場を求めつつ、議論が進められているように感じられました。 -
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「哲学」ならば、聞いたことがあるし想像もつく学問の分野だな、
という人は多いですよね。
じゃあ、「分析哲学」となると、どんな分野の学問なのか、
「分析」とつくだけで、多くの人にとって憶測の範囲の学問になります。
哲学よりも、細かいことを考えるんだ、と思う人もいるでしょう。
しかし、哲学は細かいこともちゃんと考えていく学問です。
なにか数式を使ってアナライズしていく学問かな、と思う人もいるでしょう。
確かに論理式を使ったりもすると書いてありますが、本書のような入門書には
ごくごく少ない数式の登場に抑えられていました。
かいつまんで「分析哲学」を紹介すると、
言葉を考えていく学問と言うことになります。
言葉と言っても、単語を掘り下げていくというよりか、
ひとつの文章を一つの単位として読んで、
その中での単語の働きなどからでてくる意味から探っていく感じです。
そうやることで、信じられないかもしれませんが、森羅万象にも近づいていくことになるんです。
言葉をベースにちまちまと哲学すると言ったほうが早いのかもしれないです。
イメージ先行、発想先行で考えていくわけではなくて、
言葉で論理的に、飛躍せずに考えていく哲学といえるでしょう。
そのあたりの説明などはまったくといいほどないのですが、
それはそれ、分析哲学のありかたとして、哲学者・ウィトゲンシュタインの手法のように、
一つの文章を読んで、その方向性や全体としての意味などを見ていくスタイルなので、
読者は自分で本書を読みながら汲み取っていかなければいけない。
いろいろなトピックを、著者に導かれながら考えていくのですが、
そうすることで、あぶり出されるようにわかるのが、分析哲学と言うものの有りようだ、
という構造になっています。
言葉の欠点というか盲点というか、そういう部分を見つけ出してそこを埋めるために
考えていくというのが多いです。
「トマトは赤い」という言葉から伝えられる「赤い」は、一体どんなイメージなのか、
という話もありました。「トマトは赤い」と言った人の見た「赤い」が、
相手にそのまま伝わることは不可能で…、でも、相手には「赤い」が伝わります。
そのイメージの差があると同時に、その「赤い」を相手はどこから想起したのかが
謎ではないかというのです。発話者の「赤い」は私的な言葉ですから、
その私的さが相手に伝わるわけはないんですよね。
…とまぁ、くどくど書いていくと、僕もアラがでますので、
いろいろ知りたい人、考えたい人は本書を手に取ってみてください。
難しい本ではあります。
言葉は完璧じゃないからこそ、浮かび上がってくる深みっていうものがあります。
そこを、さらに言葉でえぐることに限界はあるんじゃないかなと僕は思うのです。
分析哲学はそういう意味での弱点ってありそうです、素人考えですが。
「クオリア問題」た「心脳問題」も、こころの哲学の章で少し扱っています。
後半3章は楽しむ内容で、それまでの章が、後半を楽しむための修練的でもありました。