青山拓央のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
一読しただけの状態で、実のあるノートが書けるとはとても思えない本だ。
でも、時間についてわかっていないことがこんなにある、と知り得ただけでも十分自分には意味があった(と思う)。
行動の意志を起こす以前に、既に何らかの脳反応がある。
そんな実験が結果が発表され、その後も研究が継続されていることが紹介される。
筆者によれば、現時点ではまだ人間の自由意思を否定するほど強い結果ではないそうだが、私にはそういう研究さえ、かなり驚いた。
本書では、その直後にチョイス・ブラインドネス(選択盲)の話に発展する。
自分が選択したものをすり替えられていても、気がつかず、すり替えたものを選んだ理由さえ述べる。
こういう現象も、きっと「今」が把捉しがたいからなのだろうか、とも思ったけれど。
いずれにしても、意志とか、主体とかは、掘り崩される方向に進むのだろうか?
その流れからの自殺論、死ぬ権利は認められるかという議論も興味深かった。
自殺には、未来の自分という他者を殺害する他殺性があることを指摘するものの、それですべての自殺の善悪を判断できるわけではないとも書かれている。
なるほど、確かにそう考えると時間論にも関わってくるのだなあ。
ただし、この本は自殺論をメインとしたものではないので、自分の考えを持つにはやはり別の本を読む必要があるようだ(そして親切にもピーター・シンガーらの本が紹介されている)。
少し時間を置いて、もう一度読み直してみよう。 -
Posted by ブクログ
分析哲学も、一般の読書人向けの入門書が乏しい分野だという印象があります。大庭健の『はじめての分析哲学』(産業図書)や、冨田恭彦の小説形式の本はたしかに読みやすいのですが、とりあげられているテーマに偏りがあって、分析哲学全般の入門書とは言いがたいところがあります。とくに可能世界意味論の登場以降の動向も踏まえた入門書というと、本当にかぎられてくるように思いますが、本書はその貴重な一冊です。八木沢敬の『分析哲学入門』三部作(講談社選書メチエ)に比べるとかなり読みやすいのですが、それでもクリプキの「本質」理解の検討をおこなっている第7講の議論は相当に難しく感じました。
第6講では、言語ゲームの実践における人々の行動の無根拠な一致がわれわれの生活の底板を形成していることに着目して、それを「原初的自然」と呼び、この「自然」とクワインの認識論の自然化がめざす自然科学的な「自然」との関係について考察がおこなわれています。著者は、ウィトゲンシュタインの私的言語批判の議論を参照しつつ、言語が私的な心の領域から公共的な領域へと移行することで問題が解決したのではなく、公共的な領域でこそ規則のパラドクスが考慮されなければならないと指摘します。これによって、ベタな行動主義との違いが定められることになるのですが、さらに著者は、人びとの行動の無根拠な「一致」がまさに「一致」として記述されるのは、その記述自体がベタな行動主義と同様の「非原初的な自然」の次元に属していることに依拠していると指摘し、「原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力をもちません」と主張します。
一方第9講は、著者の専門である時間論で、とくに時間対称的な物理的な世界観の中に「時間の矢」を見いだそうとする議論が、ひそかに日常的な時間の非対称性を密輸入してしまっていることを指摘する議論などは、興味深く読みました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ当たり前に思っていた「過去」「今」「未来」が地続きであるということが、この現代の学術をもってしても未だ不確かなものであるということに驚いた。
責任の章では、未来志向的と過去志向的という事柄についての話があった。印象的だったのが、過去志向的な認識は虚偽を含んでいたとしても人間の存続や拡大に対して未来志向的な効果をもちうるという点である。虚偽を含むと言われると、それは良くないのではないか直感的に思ってしまう。しかし、実際そうであるからといって「あの時とか考えたってそうなるしかなかったんだ」(未来志向的)と考えるより、実際はあの時は存在しないけど「あの時もしこうしてたら違う結果があったかもしれない」(過去志向的)と考えた方が、結果未来に起こることはプラスになるのであれば、虚偽を含んでいても世界にとっては良いことであるという考えだと理解した。こういった視点は、科学技術の進歩がめざましく、様々な事柄の細部が明らかになってくる現代において大切な考え方だと感じた。
本作で哲学的な題材の本に初めて触れた。現在の自分の当たり前から遠く離れたところに意識が移るような感覚になり、また自分が暮らしている世界を疑うように見ることが面白いと感じたため、他の哲学の本も読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ評価を3にしてしまったが、本が悪いのではなく、僕の読解力が追いつかず全然理解できなかったことが理由である。難しかった…
割と自分は内省的な性格で、なぜ生きるのかみたいな問いを考えるのが好きな方だと思っていたが、哲学者の考える哲学は全然次元が違った。正直、そんな現実離れした問いを難しくこねくり回して考えて何になるのか、現実を素直に生きればいいのでは?と本を読みながら何度も思った。が、確かに時間って何だろう?と疑問が生まれ、当たり前を当たり前とせずに考察を重ねることは人生の豊かさに繋がるような気もした。
最近なぜ生きるのかを考え直すことが多く、本書を手に取ったのもそんなことがきっかけでもあったかもしれない。今まで触れてこなかった学問の一端に触れることができ、少し見識を広げることができた気もする。もう少し時間がたってから、また読み直してみたいと思う -
Posted by ブクログ
最初の分岐問題から気持ち悪い
哲学系で卒論から、というので、研究が浅いのは仕方ないかもしれない
それこそ、物理学への理解として、カール・ポパーやブリゴジンの知見は咀嚼できていない
量子力学的な重ね合わせの現在であったりにも対応できないと思う
議論もまるでスコラ哲学か?と思うくらい安易に感じる
矛盾律を用いて議論を進められるほど包括的な検討ができてるとも思えない
悪い意味ですごく「哲学的」な域にいると感じた。
最後まで読めばそうは思わないのかもしれないが、1章を読む間に感じるストレスが大き過ぎてちょっと最後まで付き合いきれないな、と思った
物理学だけでなく、意識の脳科学的な理解もたりてないと思う。やはりそういう意味でもあまりに「哲学的」な域にいる。語の本来の哲学には至ってない狭苦しさしか感じない。
なるほど、そう感じるのはわかる、でもそれは、あなたの未熟故では、としか思えないのだった。。。 -
Posted by ブクログ
テーマは興味深いが「時間とは何か」の前にそもそも「心とは何か」が私にとっては問題なのだけれど、そこは共通認識がある前提で書かれている…のかな?一通り読んでも「心」の定義(著者がどう定義して書いているのか、そもそも定義しているのか)がわからない。
「心」というよりは「意識」や「脳」に近いような気がした。確かに近いものではあるように思うが、イコールではないと私は捉えている。サブテーマを見る限り「意識」とも違うのだろうけれど、その辺りが何とも言えず、モヤっとした。
あとは、分かりやすい本ではないが難解な内容というより読みにくい文章だと感じた。まぁ慣れなのかもしれない。
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Posted by ブクログ
まず真っ先に指摘したいのはこの本の章立ての独特さだ。もちろん意欲的な試みだとは思うのだが、扱っている題材の重さと新書というメディアからするとやっぱり複雑すぎると思う。奇数章で時間の認識論及び存在論、偶数論で理論の現実世界への適用のあり方を扱うというのはいいとして、これをさらに前半と後半で2分割する必要があるのだろうか。結果として議論がぶつ切りになってしまい、僕には一つの統一した書籍として処理することができなかった。仕方なく本書を断章の集積としてエッセイ的に読んだのだが、やはりフラストレーションは否めない。ただ各章の内容それ自体は極めて示唆に富んでおり、興味深く読めるのは間違いない。
有名なリベットの実験を初めて知ったのは多分ノーレットランダージュ「ユーザー・イリュージョン」だったと思うが、その時に感じた素朴な疑問を本書の第2章がダイレクトに扱っているのが嬉しかった。件の準備電位の実験は「自由意志の発現時点」が確定可能であるという前提を所与として行われているのだが、これを読んだ時「そんなの被験者の自己申告なのにどうやって客観的に確定させるの?」と思ったのだ。こんな素人考えは僕だけのものだろうなあと思っていたのだが、改めて本書の「自由意志に明らかに対応する心理現象などあるのだろうか?」という疑問に接して再び意を強くした。仮にそういう心理現象が確定されたとしても、さらにその原因となる前駆現象を探さねばならないという無限後退に陥る。脳神経科学の唯物論的な議論に一定のシンパシーを覚える僕だが、ひょっとして脳神経科学はプロセスを解き明かすのには至便だが、自由意志の原因にリーチするという目的からは離れてしまうのでは?とも思ったりした(ただし、本書でも触れられている「脳と時間(ディーン・ブオノマーノ著)」では、脳内ニューロンの電位変化から prospective に被験者の動作を予測できたという実験結果が紹介されている。これが事実ならリベットの実験にも hindsight 的な側面はないことになるのだろうか?)。
1章の議論も、僕が抱いてうまく言語化できなかった疑問をストレートに表現してくれている。時間を測ることの奇妙さだ。物理的な質量・大きさなどの他の概念と異なり、時間を測るときだけはなぜだか「物差しの長さをその物差し自体を使って測る」ようなトートロジーを感じるのだ。なお本章で扱われる「バーバーポール説」も、時間の流れとはあらゆる時空が並存する「多元宇宙」の各ブロックを連続して認識した時に生じる錯覚であるというブライアン・グリーンの説を想起させ興味深い。どちらも「この今」という概念を捨象し「今」性というべき時間の一般性を扱う点で共通している。
ラッセルの「5分前仮説」に関連し、個人的に好きな野矢茂樹氏の議論が扱われる第3章。著者の主張は「5分前仮説は確かに危険だが、1秒前仮説や1億年前仮説と同等の危険性しかない。無数に挙げられる懐疑論の一つでしかなく、そこには深刻な個別の懐疑はないため無視しても無害」というもの。うーん、確かに小気味良いけど、果たしてそれでいいのか…。「無数に挙げられる懐疑論が全て致命的に危険」という可能性はないのか。仮にこれが「個別の危険性」を唯一の評価軸にしてよいという意味なら、思考実験の大宗は無意味ということになりそうな気がするが、違うのだろうか。ただこの章を踏まえた、なぜ我々が眼前の「スケッチ(5分間仮説における懐疑の出発となる土台)」を出発点とせざるを得ないかを論ずる第7章は、エピソード記憶をメタ的に分解することで眼前の景色の蓋然的な確からしさを身体論にリンクさせており、なかなか面白い。
あと印象に残ったのは第6章。イーグルマンのように有責性を脳の器質的要因に帰属させるとなると、それは確かに未来志向的(予め規定された犯罪の類型=タイプとの照合で有責性を判断)ではあるが、個別の(=トークンとしての)犯罪には他行為可能性が認められないことになり、その犯罪者に修正可能性がなければ責任は問えないこととなる。かなりラディカルな決定論をとっているといえるが、これに対する著者の反論が気が利いている。犯罪について環境と遺伝を重視するのであれば、ことの善悪を問わず社会制度全般に同じ評価軸を当てざるを得ず、倫理に与える影響が甚大だというのだ。つまり器質的決定論は正しいかもしれないが、現実社会への適用の場面で問題を生じる。「認識における未来志向」と「効果における未来志向」を衡量し、倫理の進化過程に鑑みれば後者に天秤が傾いているため前者は放棄して良い、というのが著者の考えであり、プラグマティズム重視と言えよう。ただ、発生主義で決定論と自由意志のコンフリクトを調停しようというのはよくある手筋。本書では量的な制限もありそこからの深い議論はなされていないのがやや残念。
読み終わってみると「あれ、これって時間の本なんだっけ?」と思うほど扱われている領域が多岐にわたっていることに気がつく。やや不親切な章立てには不満を覚えたが、時間のもつ圧倒的な奥深さを実感できたことは収穫だったと思う。 -
Posted by ブクログ
日々の予定と重なって、そうスラスラとは読み進ませてくれない本書に皮肉にも「時間」をかけた。
個人的に最近ハマっているテーマである。
構成はよく練られていて面白いのに、時間がかかったのは文章の相性が悪かったとしか言えない。
具体例は入ってくるのに、それをまとめる言葉の繋がりが見えにくく、全体として把握出来たとは言えない。なので、このレビューは役に立たない。
知覚と時間の関係性。
私たちが意志と見なしているものより前に脳が反応を示しているとすれば、自由意志とは何か。
記憶と時間の関係性。
私が今ここに存在することは、複数の記憶から成り立っていると言える。
ただし、私は生まれてこの時点に至るまでの全ての出来事を記憶している訳ではない。
「五分前に世界が生まれた」ことが真だとして、この時点に至るまでの重みのある点が植え付けられているのだとしたら、それを覆す時間的根拠はどこに見出せるのだろう。
責任と時間の関係性。
これは本文からはかなり外れるのだが、私たちは過去に犯した過ちの責任を負う。
本文では責任の所在について論じているけれど、私はその責任の負い方に時間的な関わりがあることに興味を持った。
つまり、罪を償うにはお金での解決より、時間での解決の方がより「効果的」だと見なされている。
人間にとって時間とは、生きる意味で最も貴重な有限の資源だからだろうか。
最後に死についての章がある。
筆者が、眠りという数時間の断絶を引き延ばした感覚を死と重ねて述べているのを読んで、なんだか腑に落ちる感じがした。