朝日新聞社会部のレビュー一覧
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購入済み
考えさせられました
実際、話題になった事件の裁判の話もあり、事件のいきさつ、加害者の生い立ち、加害者の言い分、量刑などがわかり、勉強になりました。
サイコパスのような、犯罪者はまれで、育って来た生活環境や、偏った考え方、思い込み、タイミングで人は加害者になってしまうだなと感じました。 -
Posted by ブクログ
こんなにたくさん事件が起きているんだ、わかっていたようなわかっていなかったような気がした
子育てに悩み、介護に悩み、人間関係に悩み、そういう事件がこの中にはすごく多かった
特に子育てに悩み、我が子を手にかける
怖くて震えるんだけど一方で、子供を育てていると何が何だかわからなくなってくる瞬間もあることに気がつく
反抗期、イヤイヤ期、そういうけど
それは人によって度合いがあって
専門家の人が認識している範囲や度合いをかなり超えている場合がしばしばある
こういう時はこうすれば良いというのが、通用しないことが多々ある
それは子供の方も、個性があるということであるし、親もそう、100人いたら100人の反抗期があると思っている
テレビや本やYouTubeなんかで専門家の人が、こうしたら良いんですよ、こうすれば解決する
反対に、こうしたらいけない、こんなことを言うと将来子供がこうなる のようなまだ起きてもいないのに親を縛り付けるような言葉も眼にする
ダメと言われたことをやっていたら、自分はダメな親なんだ、子供は将来こうなってしまうんだ、と思ってしまう
でも実際はどうなんだろう、言ったらいけないことを一回でも言ったらいけないのか、何年にもわたって毎日言い続けたらいけないのか
その程度だって、子供によって違うんだから
この本は事件を傍聴席から淡々と書いていたが、その背景や細かい経緯も知りたいと思う事件がいくつもあった -
Posted by ブクログ
到底許されないような身勝手な犯行から、読んでいて胸が痛くなる犯行まで様々な事件の朝日新聞記者が傍聴した裁判の記事。
どんな理由であれ、人を殺めてはいけないこと。ただ、介護や育児から精神的に追い詰められ犯行に及んでしまう。真面目な人だからこそ逃げられなかったり、助けを求められなかったり。そんな事件を目にすると、本当に切なくなる。
俗に言うワンオペ育児を経験したことがある身としては、子供に手を上げるか思いとどまるかは本当に紙一重だと思っている。
そして、きっとこの先、介護に関わることになると思うと、正直他人事ではなく怖い。
家族はもとより国や行政にも、こんな悲しい事件が起こらないよう、もっともっと深く考えてほしい問題。 -
Posted by ブクログ
実際にあった事件の裁判傍聴記録。
このシリーズは読むたびいつも胸が痛み、頭の中がさまざまな感想で埋め尽くされる。
あの事件、事故だ、と思うもの、記憶にないなと思うもの。
私のような「他人」には「ああこんな事件もあったっけ」であっても当事者にとっては一生忘れられない苦しみ。
それを消費していいのだろうか、いや、公開の裁判であるのだからそれを知った上で何かをすればいい。
いや、でも何をすれば。
子供を3回落として殺した母の事件は読んでいて辛かった。
産後うつは人ごとではない。
この母親は自分で病院に行ったり、夫に助けを求めたり、周囲に何度もヘルプを出していたのに。
子供の鳴き声が自分を責めているように聞こえる、ただ泣き止んでほしい、もうそれ以外考えられない気持ちはよくわかる。
この母親は、私だったかもしれない。
介護殺人や老親、配偶者の死体遺棄もまた辛い。
人は眠れなくなったり、一人で頑張り続けたりすると、ある日突然、頭の回路がプツッときれる。
本書を読んで、ああすればよかったこうすればよかった、意味わからない、なんで、というのは簡単だ。
根本的な問題として、誰かの適切な助けがあれば、というのは共通項と思う。
誰かの助けを得ることは恥ではないし、当たり前のこと。
周囲も甘くみず、かといって騒ぎ立てず、寄り添いつつ淡々と手助けをすればいくつかは防げたかもしれない。
だが助けとはなんだろう。
相手が固辞しているところに無理矢理にでも介入することが本当にいいのか?
ことが判明すれば、無理矢理にでもやればよかった、となるが、そうでなければ別の問題を引き起こす。
だから共通認識として持つべきは、助けを求めることは恥ではない、ということだ。
助けは片方だけが手を伸ばすだけでは成立しない。
自助共助公助、そしてそれを実現するための教育。
誰かを傷つけてしまう前に、誰かを叩くより先に。
行うべきこと、できることは、最もそばにあって、最も小さきところにある。 -
Posted by ブクログ
『母さんごめん、もう無理だ』に続く裁判傍聴記。
この中には有名元野球選手やお笑い芸人、漫画家兼アーティストの女性など、耳目を集めた事件も取り上げられている。
記憶に残る事件がある。
「ラビットケージに消えた悲鳴」
3歳の次男をウサギ用のケージに閉じ込めて死亡させた虐待死事件である。
被告人の父が言う、児童相談所に次男を一時的に預けたいと申し入れたのに断られた、親の愛情が足りないと言われた、そんな主張がなされている。
その全てを真に受けることはできないが、おそらく発達に何らかのハンディを持った子供を育てるのは苦しかったのではないかと推察される。
もっと支援があれば、いや、行政が家庭にどこまで介入すべきか、予算も人手も足りない、そんな中で、どうやってこの子を助ければよかったのか。
児童相談所だけ、行政だけ、親だけ、そんな一箇所に責任を押し付けて終わる問題ではないのだ。
「渋谷の闇で消えた赤ちゃん」「LINEに残った虐待の記録」「通学路で奪われた9歳の命」
私が立ち止まった事件は子供に関するものばかりだった。
決して私がいい人だからではない。
いい母親でもないし、彼らを救える仕事をしているわけでもない。
逆だ。
心に闇を、同じような闇を、抱えて生きているからだ。
裁判でも決して全ては明らかにはならない。
だからこそ、私たちはせめても、知って、感じなければならない。
そうあらねば、社会もかわらない、自分自身も救われることなど、ない。