オルテガ・イ・ガセットのレビュー一覧
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原著が書かれたのが1930年。訳書の初出が1953年、神吉訳が67年。そして神吉訳がちくま学芸文庫で再版されたのが95年、いま手元にあるのはその二十二版で2014年発行。
2015年になってから読んだ本書は、あと十数年で原著の出版から一世紀が経とうとしているが、未だに色褪せないばかりか、今日の社会の様相をよく言い当てているという感じがする。
今日的に解釈しなおすべき部分があるとすれば、それは大衆の可視的な現象が都市の中だけでなく、インターネット上に現れているということである。大衆による無知の押し付け、私刑(リンチ)の執行は、見えない暴力として目に見える形で人を襲っている。技術によってインターナショナルになった世界はしかし、あくまで機械としての超国家(スーパーステート)を構成しているだけで、そこには何らの試みも、何の目標も計画も意志もない。だからテロリズム、ゲリラが容易に跋扈するのである。これらのものには目標があり、計画があり意志があるからだ。
オルテガのこの本は、論旨がやや雑駁であちこちに飛び、確固たる論理構成を持つというわけではないが、警句、箴言としては傾聴に値する。わかりやすいし。その意味で楽しく読ませてもらった。 -
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有名な“大衆批判”の書。
大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。
(以下、引用)
『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である』(pp17-18)
ギャフン!
「エリート・貴族擁護」と批判されることもあったようだが、著者はむしろ「大衆を脱却して精神的貴族になろう」と読者に鼓舞しているのであり、本書の批判の矛先は(いわゆる社会階層上の)エリート・貴族にも向けられている。
ニーチェの超人思想に近いものを感じる。あくまで「個人の在り方」であった超人思想を社会論的に発展させた感じかな。異なるところは「他者・社会とのかかわり合い」を大前提としているところか。 -
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ネタバレ概要
人々は自由主義や産業革命の進展により、歴史的に類を見ない高い生活水準を達成した。しかし、その副作用として、大衆による支配の時代が始まった。大衆は、自らの凡俗さを認めながらも、その凡俗さに安住し、変化への努力を怠る人々である。オルテガは彼らのことを、「満足したきったお坊ちゃん」と称した。また、彼らは、文明の繁栄を享受しながらも、感謝や貢献といった義務を果たすことを考えず、自らの権利だけを主張する。大衆の増殖により、政治が愚鈍で自分勝手な人々によって支配され、イノベーションは衰退する。
このように空虚で中身のない大衆が増えたのは、産業革命や自由・平等主義を背景とした歴史的な生活水準の向上である。今日の人々は、今の時代が歴史の中でも一番優れているという確信に満ちており、過去への尊敬や謙虚さを失った。歴史的に、人間社会は知識の蓄積とその継承によって、発展を遂げた。ニーチェ曰く、超人とは「最も長い記憶を持つもの」である。しかし、過去への謙虚さや憧憬を喪失した現代人は、過去を参照することは無くなった。かくして、現代人は歴史上最も優れていると確信しつつ、根無草のように自分がどこに向かえばいいのか分からない空虚さを抱えることになった。
大衆のもたらす悪影響のうちでも、最も憂慮すべきは政治の支配である。本来、文明とは共生の意志を問うものである。そして、国家は慣習や宗教、言語、血縁では統一できない人々を積極的に組み込んでいこう(連合、植民地化)とする形態である。国家の統一基準は、慣習や法律、宗教などの内部存立要素だけに求めることはできない。理由は二つある。①そもそも画一的に統一されていないこと。②特に経済的関係から、内部存立要素から外れた人々や企業との関わりが必ず生じること。そのため、それらの所与の条件を超えて、外部存立と内部存立双方を達成できる仕組みを構築する必要がある。
このような他者への拡張と共生を究極の目標とした国家や文明の基盤となるのは自由主義デモクラシーである。自由主義デモクラシーは、自分を犠牲にしても自由な空間を残し、権力に抑圧される少数の人々が生きることのできる場所を残すことで、その命題を解決しようと試みてきた。しかし、大衆は自らの利益や快楽のために権利を主張し、他者との共存を排除する野蛮な方向へと向かう。このように、今や全世界を蔓延る大衆の反逆は、多様な人々が共生する社会の実現を不可能へと近づけている。
感想
2年前に読んで途中で挫折してしまったので、再チャレンジをした。
まず感じたのは、これは大衆への全力の悪口本であると言っても過言ではないだろう。オルテガのストレートな批判は、かなり賛否が分かれそうである。今で言うと、ホリエモンにやや近い語り口と思想だと思う。「みんなバカすぎて呆れる」のスタンスである。
オルテガの主張には色々ツッコミどころが多い。そもそも大衆が大衆たる所以を、個人の自堕落へと責任を収斂させていく姿勢はいかなるものか。また、若干ヨーロッパ諸国による他国の支配を正当化する(時代が時代なので仕方がない)論理も鼻につく。
しかし、ここで描かれている大衆の出現の分析は、現代の衆愚政治の問題を考える上で多分に役に立つ。また、本書の要約では取り上げられることが少ないが、オルテガの国家や文明への考え方、そして共生の意志は、グローバル化した世界で一国家としてのスタンスを確定する上でも、一例として非常に参考になるだろう。
個人的には、オルテガの生の哲学、あるべき人間像には共感することが非常に多かった。しかし、そうではない人々を馬鹿にする態度はいただけないし、その性質の形成要因に関する分析は正直甘いと思う。そのため、この本を大衆の出現構造の完全理解を求める目的ではなく、自分なりの卓越した生と反面教師にしたい生を見つけ、自己を啓発する目的で読むのがいいんじゃないかと思う。
卓越した人間とは、自らに困難を課す人である。自らに多くを求める人間である。オルテガは以下のようにいう。
選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務(Noblesse oblige)である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族は秩序と法を希求する」(ゲーテ)。
そのため私たちが今までの体験の中で知り合った、自発的で貴重な努力ができるごく少数の人たちが、孤立した記念碑のように見えてくる。彼らこそ選ばれた人、高貴な人、単なる反応ではなく自分独自の行動ができる人であって、彼らにとって生きるとは永続的な緊張、絶え間のない習練なのである。習練とはすなわち苦行(áskesis)であり、したがって選良・貴族は苦行者なのだ(21)。
(この文だけでも、オルテガのなんだか気取った嫌な感じは伝わるんじゃないかなと思う。私は嫌いじゃないですが笑)
私は卓越した人間は苦行者であるという考え方に賛成だ。努力なしで成功できる人間は天才だけである。苦しい道も自分の卓越性を高めると思ったら、少しでも飯の足しにはなるだろう。
私はこれを読んだ時、ゲーテのファウストを思い出した。ファウストは苦しみながら,目の前の事に使命感を持って取り組んだ。その生き様は、まさに卓越していると言えるだろう。
これに対して、大衆の描き方は笑ってしまうぐらいに酷い。
むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。
ここまでスパッと切り込んで描いてくれると、反面教師にしやすいものである。凡俗....。
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Posted by ブクログ
原著1930年。
このあちこちでやたらと言及される本について、かつて読んだと思っていたが、所有はしていなかったのでこの岩波文庫の「新訳」を購入してみた。が、読んでみると、どうやら読んだことが無かったようだ。何故か読んだと思い込んでいただけらしい。
解説によると著者のオルテガは観念論的な哲学者のようで、社会学者でも歴史学者でもない。本書は本格的哲学のおもかげはなく、多分にエッセイ的な文明批評である。もともとスペインの新聞に連載された文章なので、こういう書き方になったのだろう。
ヨーロッパに台頭し街に溢れかえるようになった「大衆」について、自分だけは正しく、確実であると信じ込んでいて、遠い未来のことについては考えず、モラルも理想も欠如している、とする指摘は、なるほど、現在の日本のヤフーニュースのコメント欄や2ちゃんねるのようなところに巣くっている連中に当てはまるように思えて興味を惹かれた。
しかし、本書は社会学的な確かさを持っていないので、実際にどういう言動が見られたとかいうデータは全然なく、著者のおおざっぱな感想を延々と開陳しているだけである。ヨーロッパの歴史に関する意識も、なんだか思い込みで書いているような気がした。
読み進めていくと、だんだんこの著者が頑迷なオッサンで、巷の若者批判の持論をぐだぐだとまくしたてているように思えてきて、次第にウンザリしてしまった。
哲学者なら、もっと厳密な概念定義を行い、自らの思考をも深く考究していくべきではないのか。
そんな印象が強くなり、面白い読書体験とは感じられずに終わってしまった。 -
Posted by ブクログ
スペイン人の著者が、1930年代に、1920年代から30年代のヨーロッパ社会について論じた書。
訳者の要約がわかりやすい。
「…十九世紀は大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるためのあらゆる手段を与えたが、その結果現代の大衆人は過保護の『お坊ちゃん』と化し、自分を取り巻く高度で豊かな生の環境=文明を、あたかもそれが空気のような自然物であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している稀有の才能に対する感謝の念を忘れるとともに、自分があたかも自足自律的人間であるかのように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉塞的な人間と化してしまったのである。いうなれば、現代の大衆人は文明世界の中に突如おどり出た未開人であり、『野蛮人』なのである。」
東日本大震災から明日でちょうど1年。まさに今の日本のことを指摘されているかの錯覚に陥るほど、身に染みる逆説である。原発に対して、無知であることは許されないと言われている気がした。