あらすじ
一九三十年刊行の大衆社会論の嚆矢。二十世紀は「何世紀にもわたる不断の発展の末に現れたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「性の増大」と「時代の高さ」の中から《大衆》が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの《大衆》に《真の貴族》を対置する。〈生・理性〉の哲学によって導かれた予言と警世の書。
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Posted by ブクログ
とても読みづらいくて、すんなりは入ってこない
だがその分、読むほどに深みを感じる名著
約100年も前の本だが、大衆の危うさは、SNSのフィルターバブルの中にいる現代により一層、先鋭化している
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1930年刊行。某経済誌で今読むべき古典と紹介されていた。
たしかに、名言・格言だらけ。例えば、
「人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のままに漂う浮標のような人々である(p18)」
「今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある(p22)」
「大衆の反逆とは、人類の根本的な道徳的退廃に他ならない(p179)」
刊行から約100年。デジタル革命を経て「大衆の反逆」は、より深刻さを増してるようだ。平凡に居直る「浮標」にならぬよう生きていこうか。
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それ以前の人々にとって生とは重苦しい運命だった。しかし、現代の「大衆」=「平均人」は、彼を取り巻く世界に甘やかされている。経済的、肉体的、社会的安楽さをあたりまえのものと思っている。
近年のヨーロッパに蔓延する無力感は、「潜在能力の大きさ」と「政治機構の大きさ」とのアンバランスから生まれる。
「国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して作り上げてゆかねばらないもの」
国家を成り立たせる要因は、血縁でも、言語でも、過去でもなく、「われわれが一緒になって明日やろうとすること」
「国家は一つの事物ではなく、運動である」
「ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう」
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学生の頃に探すも見つけられなかった本が筑摩の文庫にあった。18世紀のルソー「社会契約論」19世紀のマルクス「資本論」、20世紀はこれと言われた社会論のバイブル。皇帝、覇王など選ばれた人のための国家と違い、近代の国民国家は、ビジョンも持たず自ら責任も取らない「慢心しきったお坊ちゃん」たる大衆が支配者になった。大衆の集まりによる自由民主主義の限界。今後どうあるべきか。90年前オルテガはファシズム、ナショナリズム、スターリン的マルクシズムの限界を見抜き、ヨーロッパの現状を憂いて書いたが、今やアメリカも日本も、世界がこの状況にある。多くの学者や思想家が影響を受け、論じてきたが誰も答えを見つけられていないまだるっこしさ。天才を待つしかないのか!大衆は待つしかできない(TT)
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文明に突如現れた野蛮人。
教育水準の向上が要因?
まるで、今日の状況を分析したような論文集である。
反〇〇に対する過去を絡めた考察は、示唆に富み、唸ってしまう。
論文集。
大衆の唯一の行動は、私刑(りんち)。
社会のアノミー化。
ヨーロッパ文明の凋落。
オルテガは、堕落した大衆の誕生を、ヨーロッパ文明の支配の低下、つまり、歴史的に見ているふしがある。
民主制度の価値の失墜。
国民国家の形成には、未来への計画が必要。
後半は、ヨーロッパという国民国家を超えた共通の基盤のせり出しに注目している。
生の原理の基盤として、ヨーロッパを置き、歴史的使命を終えた国民国家に代わり、ヨーロッパが人々を律していくことを希求した。
ナショナリズムの大きな勃興が、時代変遷して、人間が生きる場としての国民国家の矮小になって来ていることに求めている。
モラルの欠如。
今日の大衆とは、旧文明に対抗する新文明を代表するタイプでは無い。
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長く、きちんと読めないまま、来てしまいましたが、読み通しました。1930年に刊行された大衆社会論であり、ファシズム、スターリン的マルクシズムが挫折していく以前の書ですが、説かれている内容は、今こそ、真剣に取り組まなければならないように思いました。
読み返しをして咀嚼していきたいと思います。
Posted by ブクログ
大衆とは、閉鎖的で凡俗。凡俗であることの権利を主張し、その一方で無気力。国家へ主張することの意味を自覚しない。この存在が集合体となれば、国家はおろか国際社会をも脅かす強大な力となる。世界で保護主義が蔓延しつつあるいまだからこそ、読んでおくべき一冊。
Posted by ブクログ
「大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである」
「われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて、凡庸人そのものの決定にゆだねられるにいたったという新しい社会的事実である。あるいは、能動体でいえば、かつては指導される立場にあった凡庸人が、世界を支配する決心をしたという事実である」
「人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な欲求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。」
「今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである」
「十九世紀のような頂上の時代の安心感は、一つの視覚的幻想であり、その結果は、自己の方向を宇宙のメカニズムにまかせ、自分自身は未来に無関心になってしまう結果を招くものである。進歩主義的自由主義もマルクスの社会主義も、ともに、自分たちが視覚的未来として望んでいるものが、天文学におけると同じような必然性によって、まちがいなく実現されることを前提としている」
(この本が書かれた時代において)「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプがあらわれた。」
「・・・彼らは意見を主張しようとするが、あらゆる意見の主張のための条件とい前提を認めようとはしない」
「大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって原始人になってしまっているのである」
「・・・文化の基本的価値など彼には興味がないのである。彼にはそうした価値に共同責任を負おうともしないし、その価値に奉仕する心構えもない」
「・・・(大衆人は)国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである」
「大衆人は国家を観て、国家に感嘆する。そして国家が現にそこにあり、自分の生を保証してくれていることを知っている。しかし彼は、国家は人間の創造物であり、幾人かの人間によって発明され、昨日までは確かに人間にそなわっていたある種の徳性と前提条件によって維持されてきたものであり、明日には雲散霧消しえtしいまうかもしれない、という自覚はもっていない」
「シュルレアリストは、他のひとびとが『ジャスミンとか白鳥とか半獣半人とか』書いたところに、書く必要もない一言を書きくわえ全文学史を彫刻したと信じ込んでいる。しかし彼がやったことといえば、今までゴミ捨て場にうち捨てられていたもう一つの修辞学をひっぱりだしてきた以外のなにものでもないのは明らかである」
「人間の生は、その本質上、何かに賭けられていなければならない」
「生きるということは、一方においては、各人が自分で自分のためになすことである。しかし他方においては、そのわたしの生、わたしだけにとって重要な生が、もしわたしがそれを何かに捧げているのでなければ、緊張も『形』も失い弛緩してしまうのである。近年、献身すべき対象をもたぬために、無数の生が自らの迷宮のなかに迷い込み消えていくという恐るべき光景を目撃してきた」
「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである」
「今日、『ヨーロッパ人』にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。しかも今日そう確信することは、十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大なる大陸国民国家に発展してゆくことであろう」
Posted by ブクログ
現代に生きる人間の大衆化に警鐘を鳴らす名著です。
大衆に流される(常に多数派になる)ことによって、確証バイアスとかエコーチェンバー的な考えにとらわれて、新しい視点に気づけなくなって個を失い平均化してしまう。そういった愚かな大衆によって文明は衰退しうる。とオルテガは言ってます。いろんなこと(異なる価値観)に対して自分なりの考えを持つことが大事だと再確認できます。
けっこう読みづらくて時間がかかってしまった、、
Posted by ブクログ
この本は、1930年にスペインで生まれのオルテガによって書かれたものですが、現在の日本の「空気感」、「閉塞感」や、経済的にもピークを超えた日本の社会状況ととても似ていて、内容的にも新刊本を読んでいる感じになり、驚きました。
過去にも同じような社会状況が繰り返されており、現在読んでも、とても参考になる名著でした。
ぜひぜひ読んでみて下さい。
Posted by ブクログ
【印象に残った話】
・大衆とそうでないものの違いは以下の通り
・大衆:自分自身に特殊な価値を認めず、自分は「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すすべての人間
・大衆ではないもの:自らの能力に不満を覚えていたとしても、常に多くを自らに求める者
・大衆の国家に対する態度は以下の通り
・自分のものと信じこんでいる
・何か問題が起きたとき、国家がそれに対して責任を取り、直接手を下して解決すると思っている
【考えたこと】
・新型コロナウイルスに対する政府の対応を非難し、その非難に応じて政府が対応方針を変更したとしてもさらにそれを非難する、今の日本の姿と重なる
Posted by ブクログ
全ての意見に賛成という訳では無いですが、耳障りの良い正論ばかりでは無い魂のこもった文章で、また新たな視点に気づく事が出来た作品でした♪
ところどころカチンと来るところもありますしこんな生き方は息苦しいと思ってしまいますが、過去に無敵艦隊とまで呼ばれていたスペインの凋落ぶり・無気力ぶりに喝を入れようとした教育者的使命感で書いた新聞記事として捉えると俄然価値のある作品に思えてくるから不思議。昔読んだ「E・H・カー」の「歴史とは何か」に書かれていた一節「歴史を研究する前に、歴史家を研究して下さい。そして、歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的及び社会的環境を研究して下さい。歴史家は個人であると同時に歴史及び社会の産物なのです。」を思い出しました。
この本のあとがき&訳者解説はかなり秀逸なので、「ちょっとこの本、苦手だな」と思った人は、まずあとがき&訳者解説から読む事をオススメします☆
Posted by ブクログ
1930年刊行で90年が経過。
オルテガが指摘したように、大衆が大衆であることを認識しているだけならまだしも、大衆が凡俗ではなく一門の人間であると声高に主張するような時代になりつつあり、もはや軌道修正などはかれそうもないという絶望を感じつつ、コロナ禍でシステムの中にいることが当たり前ではないということに気づけた人たちがいるのは、もしかしたら意識を大きく変えられるチャンスなんじゃないかと思った。
数学の公式を利用した物理学が天文学の分野で活かされていて、ピタゴラスが「星は動きながら音を出す。そして宇宙は音楽を奏でている」という言葉を残したように、独立しているであろう学問が実はすべて結びつきがあるという考えがすごく好きなんだけど、象牙の塔に籠らず総合知を身に着けるという考え方はもっと広まって欲しい。
岩波版の評価もよいのでそちらも読んでみたい。
Posted by ブクログ
あらゆる語彙を尽くして大衆の悪口を書いているのでおもしろい、音楽の違法アプリを使用する人びとなんかを見ると、ここに描かれる大衆の姿というのは今も変わってないなと感じる。
Posted by ブクログ
オルテガ 「大衆の反逆」。大衆社会への批判と国家観を論述した歴史哲学な本。ヒトラーの大衆操作と民族的国家観と 比較しながら読んだ。
著者が伝えたかったのは、大衆を批判することで、人間のあるべき生き方。
「歴史は 農業と同じく、谷間から養分を吸収するのであって山頂から ではない。社会の平均水準から養分を取るのであって、傑出した人からではない」
大衆=平均人=慢心しきったお坊ちゃん
大衆社会=大衆により平均化された社会
*歴史的水準は向上した
*生の水準は向上した
ヒトラーは 大衆を言葉と権威で服従させたが、オルテガは 大衆を言葉で目覚めさせようとしたのではないか。国家観については ヒトラーとオルテガは 全く逆。ヒトラーは単一民族主義、オルテガは多民族混血主義。
Posted by ブクログ
エリートの政治から大衆の政治への転換による弊害について述べられたもので、1930年に書かれている。あくまでヨーロッパに焦点が当てられていることと過激な表現が多いことが気になるが、本質を鋭く突いており、とても二次大戦前に書かれたとは思えない。現代社会も状況は大きく変わっておらず、本書の意見を踏まえ物事を考察していくことは大事であろう。
「大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない」p23
「今日の虎は六千年前の虎とまったく同じである。というのは、虎は一頭一頭、あたかも以前に虎など存在していなかったのごとく、新たに虎としての存在をはじめなければならないからである。ところが人間は、記憶力のおかげで自分自身の過去を蓄積し、それを利用する。つまり新しく生まれてきた人間は、最初から過去の堆積というある程度の高みに立っているのである。その唯一の宝の最も小さな長所は、それがわれわれに、つねに同じ誤りを繰り返すのを避けるために、失敗を記憶することがいかに重要であるかを教えてくれることである」p50
「民族は、過去のあらゆる時代を完全にわがものとし、それを積極的な働きをする財産として保持している」p53
「大衆が(エリートの)少数者に対して不服従となり、少数者に服従することも、少数者の模範にしたがうことも、また少数者を尊敬することもなく、その反対に少数者を脇に押しのけ、彼らにとって代わろうとしている」p73
「(大衆の行う)政治形態は未来のことを計算して出てきたのではなく、現在の緊急事を解決するために出てきた政治形態である。そのため、社会的権力の活動はその時々の葛藤をかわすことだけに限られている。その活動は葛藤を解決するためではなく、さし当たってそれから逃れるためである」p110
「甘やかされた大衆は知性がかなり低く、空気と同じように自分の自由になる物質的、社会的組織も、やはり空気と同じ起源のものだと信じている」p123
「飢饉が引き起こす暴動では、一般大衆はパンを求めるのが普通だが、その際に彼らが用いる手段といえば、こともあろうにパン屋を破壊することである」p124
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全部が全部ではないのだが、ところどころグッとくる記述がある。「一般人が専門家を尊敬しなくなり、専門的な知識でさえ、一般人の直感とそぐわなければバカにする」といったくだりは、今まさに、2ちゃんねるとかみてると、連日のように書き込まれている内容そのものだと思う。ほかにも、大衆というより、オタクの説明かと思うような箇所もあり、その新しさ、今でも通用する度に驚いた。なんとなく、再読するとまた新たな発見のありそうな本。ちなみに、前から気になってて、たまたまブックフェアで安く売ってたから買った。""
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きわめて強力でありながら同時に自分自身の運命に確信が持てない、自分の力に誇りを持ちながら、その力を恐れている時代。優越感と不安感の入り混じり。
大衆⇔貴族:努力の人、優れた人というに等しい。つねに自己を超克し、おのれの義務と要求を強く自覚して、既成の自己を超えてゆく態度を持つ者。
大衆が国家という匿名化された機械を使う
アメリカはヨーロッパから生み出された若返りにすぎない
アメリカが優れているのは市場が広大である事の結果にすぎない
国家(state)は一つの均衡状態を意味する。しかし平衡状態ということは、そのうちにダイナミズムが秘められているという事。
ヨーロッパ各国のアイデンティティのほとんどはヨーロッパ内で共有されている物
大衆の願望は、いかなるモラルにも束縛されずに生きることにある
現代は大衆人(生の計画を持たない存在)が支配している→大衆人の「お坊ちゃん」化。自分を取り巻く豊かな環境を当たり前に感じてそれが生み出され維持されている事に感謝を忘れ、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉塞的で野蛮な人間になっている。
現代の危機は、模範的人間の欠如と反逆的大衆の増大の両方。解決するためには、過去の歴史など、現状の背景を意識する必要がある。
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本気なのか?反語なのか?といった攻めている感じの文章がある。その先を続けてよく読めば本当に言いたいことが何かわかるが。センセーショナルな章タイトルや導入部の書き方は、新聞のキャッチ―な見出しやリード(前文)に通じるものがある。
「大衆とは、良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出している」という部分で、自分のことを言われているようだった。
「研究者の仕事がますます専門化する」「科学者が一世代ごとにますます狭くなる知的活動分野に閉じこもってゆく」「自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間」といった言葉は、思想を持つために知を得る時に陥りがちな専門バカや狭窄的な視点への警鐘に思われた。
また「真に自己を迷える者と自覚しない者は、必然的に自己を失う」「一つの真理を発見するものは、その前に習得したものを粉砕しなければならない」という言葉も心に残った。
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スペインの哲学者オルテガによる1930年に発表された著作。
二つの世界大戦の間で、ファシズムが台頭しつつあったヨーロッパという環境下で書かれ、欧州各国でベストセラーになったと言う。
本書で著者は、
◆社会は、特別の資質を備えた個人である「少数者」と、特別な資質を持っていない「大衆」に二分され、「大衆」とは「自分に特別な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであるというふうに・・・他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしているようなすべての人」である。「大衆」を生み出したのは「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」であるが、1930年代のヨーロッパでは「大衆」が社会的権力の座に登った。
◆社会はよりよく生きるための道具として国家を作ったが、国家主義の高まりにより、社会は「大衆」によって構成される国家のために生きなければならない矛盾に陥った。ファシズムとは、このような大衆人の運動から生まれたものである。
◆また、世界中で台頭する「民族主義」は、歴史を形成してきた「創造的民族」(=ヨーロッパに反抗しようとする「大衆民族」の運動である。
◆nation stateとは、独自の原動力、即ち成員に共通した自己の計画・共通性を持つ必要があり、ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による、そのような一大nation stateを建設することのみがヨーロッパを強化し得る。
と述べている。
「大衆」に関する分析は普遍性を持っており、現代日本における政治・社会の根本的な問題を的確に表している。佐伯啓思が月刊誌『新潮45』で繰り返し取り上げる民主主義の課題がここにある(新書化され、『反・幸福論』、『日本の宿命』、『正義の偽装』で刊行されている)。
一方、「創造的民族」vs「大衆民族」という主張は唯物史観的な発想であり、違和感を覚える。
民主主義について考えるための、一つの視点を与えてくれる。
(2011年2月了)
Posted by ブクログ
原著が書かれたのが1930年。訳書の初出が1953年、神吉訳が67年。そして神吉訳がちくま学芸文庫で再版されたのが95年、いま手元にあるのはその二十二版で2014年発行。
2015年になってから読んだ本書は、あと十数年で原著の出版から一世紀が経とうとしているが、未だに色褪せないばかりか、今日の社会の様相をよく言い当てているという感じがする。
今日的に解釈しなおすべき部分があるとすれば、それは大衆の可視的な現象が都市の中だけでなく、インターネット上に現れているということである。大衆による無知の押し付け、私刑(リンチ)の執行は、見えない暴力として目に見える形で人を襲っている。技術によってインターナショナルになった世界はしかし、あくまで機械としての超国家(スーパーステート)を構成しているだけで、そこには何らの試みも、何の目標も計画も意志もない。だからテロリズム、ゲリラが容易に跋扈するのである。これらのものには目標があり、計画があり意志があるからだ。
オルテガのこの本は、論旨がやや雑駁であちこちに飛び、確固たる論理構成を持つというわけではないが、警句、箴言としては傾聴に値する。わかりやすいし。その意味で楽しく読ませてもらった。
Posted by ブクログ
1930年の本だそうな。
当時のヨーロッパにおける国家、そして大衆の在り方について書かれた本だが、現代にも当てはまる事が多くて驚く。予言、と言ってもいい。
現代「大衆」とは何なのか。国家の中でどうあるべきなのか。
しかし難しかった‥
Posted by ブクログ
有名な“大衆批判”の書。
大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。
(以下、引用)
『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である』(pp17-18)
ギャフン!
「エリート・貴族擁護」と批判されることもあったようだが、著者はむしろ「大衆を脱却して精神的貴族になろう」と読者に鼓舞しているのであり、本書の批判の矛先は(いわゆる社会階層上の)エリート・貴族にも向けられている。
ニーチェの超人思想に近いものを感じる。あくまで「個人の在り方」であった超人思想を社会論的に発展させた感じかな。異なるところは「他者・社会とのかかわり合い」を大前提としているところか。
Posted by ブクログ
翻訳が非常に読み辛かった。ヨーロッパや貴族を高潔とする固定観念が感じられたが、本書では没落しつつあるヨーロッパの国々に対する警鐘を唱えている。
『ところが今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題から得た結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである。』
Posted by ブクログ
大衆 という言葉は、大衆デモクラシーという言葉もあるように前向きなイメージで捉えていた。しかし、大衆=平均化であり、これからは大衆離れも起こると強く感じた
#flier
Posted by ブクログ
スペイン人の著者が、1930年代に、1920年代から30年代のヨーロッパ社会について論じた書。
訳者の要約がわかりやすい。
「…十九世紀は大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるためのあらゆる手段を与えたが、その結果現代の大衆人は過保護の『お坊ちゃん』と化し、自分を取り巻く高度で豊かな生の環境=文明を、あたかもそれが空気のような自然物であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している稀有の才能に対する感謝の念を忘れるとともに、自分があたかも自足自律的人間であるかのように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉塞的な人間と化してしまったのである。いうなれば、現代の大衆人は文明世界の中に突如おどり出た未開人であり、『野蛮人』なのである。」
東日本大震災から明日でちょうど1年。まさに今の日本のことを指摘されているかの錯覚に陥るほど、身に染みる逆説である。原発に対して、無知であることは許されないと言われている気がした。