【感想・ネタバレ】大衆の反逆のレビュー

あらすじ

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(一八八三─一九五五)による痛烈な時代批判の書。自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった「大衆」は、人間の生や世界をいかに変質させたのか。一九三〇年刊行の本文に加え、「フランス人のためのプロローグ」および「イギリス人のためのエピローグ」も収録。(解説=宇野重規)

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Posted by ブクログ

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大衆の反逆面白すぎる。やっぱり今の政治を知る上で歴史を学ぶ事が大事なんだなと思った。

ホセ・オルテガ・イ・ガセット
(西: José Ortega y Gasset、発音: [xoˈse oɾˈteɣa i ɣaˈset]、1883年5月9日 - 1955年10月18日)は、スペインの哲学者。主著に『ドン・キホーテをめぐる思索』(Meditaciones del Quijote、1914年)、『大衆の反逆』(La rebelión de las masas、1929年)がある。W・ジェームズに触発された実用主義的形而上学により構成され、フッサールの実在論的現象学の方法を用いた「生の哲学」を展開し、(ハイデッガーに先駆けて展開された)原始実存主義や、ディルタイ、クローチェとも比較される歴史主義などといった彼の諸思想の基礎となった。日本では名の「ホセ」が削られ、姓のみの「オルテガ・イ・ガセット」と表記されまた呼ばれることが多い。

「フランス人のためのプロローグ 1  一応これを本とみなすとすれば、本書の成り立ちはこうなっている。はじめて発表されたのは、一九二六年、マドリッドのある新聞紙上[『エル・ソル』紙]である。しかし取り扱っている事柄があまりに人間的なものなので、時間の経過とともに変化しないわけにはいかなかった。人間の現実は常に変動している。とりわけ目まぐるしい速さで展開し加速する時代がある。下降と凋落を繰り返す私たちが生きる時代は、まさにそうした時代に属する。事実の方がこの本を追いこしてしまったのは、そのためである。本書の中で予告されていることの大部分は、ほどなく現在のものとなり、そして今[一九三七年]ではすでに過去のものとなってしまった。そればかりではない。本書はここ数年の間、フランス以外の国々で大いに読まれてきたので、フランスの読者にもその見解の少なからずが、誰のものとも知られぬままにすでに伝えられており、決まり文句にまでなっている。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「人間の行なうほとんどすべてのことにも言えるが、話すということは、普通考えられているよりも遥かに幻想的な作業である。そう信じている私にとって、大きな幸運など望む気にもなれない。私たちは言語というものを、自分の思想を明らかにするのに役立つ手段と定義している。しかし定義というものは、たとえ偽りでないとしても、一筋縄にはいかぬもの、つまり暗黙の留保を含んでおり、そういうものとして解釈しないとやっかいな結果を引き起こす。定義とはそのようなものだ。たとえば言語は私たちの考えを隠すため、噓をつくためにも役立つ、などというのはそのほんの一例にすぎない。もし日々普通に「話されること」を真実だとみなさないならば、噓もあり得ないであろう。贋金は正貨に支えられて流通する。つまり欺瞞は、純真さに巣食うお粗末な寄生虫ということだ。  いやいや、それどころではない。例の定義の最も危険な点は、私たちが普段それを聞くときに抱く楽観主義的な付け足しの方なのだ。なぜなら前述の定義そのものは、言語を通じてすべての考えを充分適確に表明できるなどとは、決して請け合っていないからである。そこまで約束はしていないが、かといって厳密な意味での真理を率直に見せてくれるわけでもない。人間同士が互いに理解しあうことはどだい不可能であり、人間は根源的に孤独と定められている。だから隣人に辿り着こうと思えば、それだけで精力を使い果たしてしまうのだ。そうした努力のうちの一つが言語であり、これは私たちの内部に起こることの幾つかを、ときにはできるかぎりの近似値をもって表明できる、ただそれだけのものなのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「しかし私たちは普通、これらの留保事項を無視している。むしろ逆に、人は話そうとするとき、自分の考えていることをすべて表現できるはずだと信じているからこそ話す。もちろんこれこそ幻想なのだ。言語は、それほどのものではない。大なり小なり、私たちの考えていることの一部分を表現するだけで、残りのものの伝達に対しては乗り越えることのできない障害がもうけられている。もちろん言語は、数学の命題や証明にはかなり役立つ。だが物理学となると、すでに曖昧かつ不充分なものになり始める。しかも会話はそれより重要で、より人間的で、より「現実的」な主題に関わるにしたがって、その不正確さ、愚鈍さ、混乱が増大する。話せば分かる、という古くからの先入見にとらわれて、あまりにも素朴に話したり聞いたりするので、互いに相手のことを無言のうちに推察しようと努める以上に、互いを誤解することの方が多いのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「真にものを言うということは、単に何かを言うだけではない。何者かが何者かに向かって何かを言うことなのだ、という事実があまりにも忘れられている。すべての言説の中には、話されている言葉の意味に対して無関心ではいられない発信者と受信者がいるのだ。意味は彼らが変わるに応じて変化する。二人が同じことを言っても、意味は同じではない( Duo si idem dicunt non est idem.)。すべての語は場合によって変化する( 1)。言語活動は本質的に対話であり、それ以外のすべての発言形式は効果が劣っている。それゆえ一冊の本は、私たちにひそかな対話をもたらすかぎりにおいて良書である、と私は考える。つまり著者が具体的に読者を想定でき、そして読者の方でもまるでその行間が親しく自分に触れ、愛撫しようとする──あるいは極めて慇懃に殴打を食らわそうとする──その一本の触手のようなものが出てくるのが感じられる限りにおいて良書であると考えるのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「私がこの話をしたのは、ヴィクトル・ユゴーほどの威厳はないかも知れないが、次のことを明らかにしておきたいからである。すなわち、私はいまだかつてメソポタミアのために書いたことも話したこともないし、人類全体を相手としたこともないということである。人類全体に語りかけるというこうした習慣は、最も崇高な形式、ということはつまり民衆扇動の最も卑劣な形式ということだが、一七五〇年ごろ、正道をはずれた知識人たち[ルソー等のフランス啓蒙思想家]によって採択された。つまり彼らは、おのれ自身の限界を知らず、その務めが言説の人、ロゴス[言語、理性]の人でありながら、言葉というものが極めて繊細な運用が必要とされる秘蹟とも言うべきものであることに気づかずに、尊敬の念も慎重さもなしにそれを使用したのである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「言葉が効果的に機能する範囲は意外に狭い。この見解は、本書がヨーロッパのほとんどすべての言語圏で読者を獲得したという事実によって無効になるのではないかと思われるかも知れない。しかしむしろ私は、これがもう一つ別の、重大な事実の兆候であると考える。つまり、あらゆる状況において西洋全体が陥っている恐るべき同質性のことである。本書が現われて以来、そこに描かれている力学どおりに、その同質性は苦悩の形を露わにしながら増大してきている。私はいま苦悩という言葉を使った。その意味は、各々の国で苦境として感じられているものが、実はヨーロッパ大陸のどこでもまったく同じように起こっているという事実だ。そして苦しんでいる当の人間が気づいたときには、その絶望は無限大に増幅しているのである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「西欧の誰もが我が家のように感じていたこの共通の歴史的空間が、地理的にヨーロッパと呼ばれる物理的空間に相当していることそれ自体は、実は大したことではない。私の言う歴史的空間は、ある期間共存した有効半径によって計られる、つまり一つの社会的空間のことなのだ。ところで共存と社会は同じ価値を持つ言葉である。社会とは、共存という単純な事実によって自動的に生じる。そして共存によって、おのずからそして必然的に習慣、慣習、言語、法律、社会的権力が分泌されていく。いまなお私たちが、そのとばっちりに苦しんでいる「近代思想」の最も重大な誤謬の一つは、社会をそれとほとんど反対なものと言ってもいい結社と混同してしまったことである。  社会というものは、意志の一致によって成立するものではない。それは逆で、あらゆる意志の一致は、社会の存在、つまり共存する人びとの存在を前提としている。またこの一致は、すでに存在する社会、つまり共存のための形式をきっちり定めずして成り立つことはできない。社会を契約による法的な集まりとみなす考え方は、本末転倒で無分別な試みである。なぜなら、法は、つまり「法」という実在は、それについての哲学者、法学者あるいは民衆扇動家の見解とは違って、とっぴな表現を許してもらえるなら、社会の自然発生的な分泌物以外の何物でもないからである。まだ存在もしていない社会の中の人間関係を前もって法が律するよう望むなどというのは、どうか私の無礼を許していただきたいが、私には法とは何かについての、かなり混乱した滑稽な考えのように思われる。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著


「つまり私がそう考えるようになったのは、そうした幻想への誘いに対する気後れでもなければ、私が嫌悪して生涯を通じて闘ってきた「理想主義」への傾きでもない。社会としてのヨーロッパ統一が一つの「理想」ではなく、きわめて古くからある日常的な事実であることを私に教えてくれたのは、まさに歴史から見たリアリズムなのだ。さて、ひとたびこのような事態が明らかになった以上、ヨーロッパ全体の国家の可能性は必然的に高まる。一挙に事態を終局に導く機会は、どのようなものであってもいい。たとえばウラル山脈あたりに出没する中国人の弁髪でもいいし、時おり「マグマ」のように噴き出すイスラム教徒の脅威であってもいい。  もちろんそうした超・国民的な国家の姿は、最後の数章で証明しようと思っているが、国民国家が古代人の知っていた都市国家とは大いに異なっているように、従来の国家ともかなり違っているであろう。私が本書で目指したのは、ヨーロッパの伝統が私たちに提示している国家や社会についての繊細な概念に何とか忠実であるよう、人びとの精神を船出できる状態にまで準備することであった。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「ギリシャ・ローマ的思考にとって、現実を動的なものとして捉えることは、決して容易なことではなかった。それはちょうど子供が本を手にしても挿絵くらいしか理解できないように、ギリシャ・ローマ的思考は目に見えるもの、あるいはそれに類したものから離れることができなかったのである。そうした限界を乗り越えようとした土着の哲学者たちの努力は、すべて無駄に終わった。現実を理解しようとする際に、多かれ少なかれ有形の物体が彼らの理論的枠組みとして働き、それはまさにギリシャ・ローマ人にとっては何にもまして「物」そのものであったと言える。彼らは、統一が目に見える連なりとなっているところにしか一つの社会、一つの国家を見ることができなかった。たとえば都市がそうである。  ところがヨーロッパ人の精神的志向はそれとは正反対のものである。彼らにとって目に見えるすべてのものは、まさに目に見える状態である限り、それを絶えず生み出している隠れた力、すなわち真の実在の単なる外見であり、仮面のように思われている。力つまり潜勢力が統一的に機能しているところでは、現実が一見して種々異なるものとして私たちの前に現われようとも、そこには真の統一があるのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「国家という周知の、そしてこわばった仮面を着けているところにしか、つまりヨーロッパの特定の国々にしか、社会的権力の統一を見ないというのでは、再び古くからの隘路に入っていくことになろう。ともかく私は、そうした国々において機能している決定的な社会的権力が、国内のもしくは国民の社会的権力にのみ基づいているという見方を断固として否定する。ここではっきり気づかなければならないのは、もう何世紀も前から──意識するようになってからは四世紀このかた──ヨーロッパのすべての民族が、その動的な性格から、まさに力学的な「ヨーロッパ的均衡」もしくは「勢力均衡」( balance of Power)という名称で呼ばれている社会的権力にしたがって生きているということである。  その力の均衡こそが、真正なるヨーロッパの政府と言えるものであり、古代世界の廃墟から飛び立った蜜蜂のように勤勉で好戦的な諸民族の群れを、歴史を通じて律してきたのだ。ヨーロッパの統一は幻想ではなく現実そのものである。幻想と言うなら、それはまさにフランス、ドイツ、イタリア、スペインが実体的で独立した現実であるという思い込みの方なのだ。しかしながら、ヨーロッパは「物」ではなく一つの「均衡」だから、誰もはっきりとはヨーロッパの現実を捉えていないのも頷ける。すでに十八世紀に、歴史家ロバートソン[ウィリアム・ロバートソン。スコットランドの歴史家。一七二一─九三]は、ヨーロッパの均衡を「近代政治の大いなる秘密」と呼んだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「その一つは、古典ラテン語と比べて、その文法構造が信じられないほど単純だということである。上層階級が保持していたインド・ヨーロッパ語特有の味わい深く複雑な言葉は、平民の話し言葉に、つまり極めて簡便な構造を持つと同時に、ちょうど物質のように重苦しく機械的な平民の話し言葉に取って代わられた。平民の言葉はどもりがちで持って回った文法を持ち、そして幼児語のように、慣らし運転的で回りくどいのだ。事実それは、思索のための鋭い稜線も抒情的な綾も許さない、幼児の、あるいは吃音の言葉である。それは光も温度もない言葉、明白性も魂の熱もない、手探りで進む哀れな言葉である。その単語は、地中海沿岸の居酒屋をいやというほど廻ったために、垢じみて磨滅した古い銅貨のようだ。この飾り気のない言葉の道具の背後に、おのれ自身を空洞化させ、荒廃させ、そして永遠につづく単調な日々を宣告された生命がいったいいくつ透けて見えることか。  俗ラテン語のもう一つの恐るべき性格は、まさにその同質性である。言語学者というのはおそらく飛行家の次に何事にも驚かない心の備えができているのか、カルタゴやガリア、チンギタナ[現モロッコ]やダルマチア[現クロアチア]、そしてイスパニアやルーマニアのように互いに異なる国々が同じように話すという事実を前にしても動じないらしい。ところがかなり気が弱く、風で葦が打ちひしがれるのを見ても震えてしまう私などは、そうした事実を前にして骨の髄まで身震いするのが抑えられない。私にはただただ恐ろしいことに思えるからだ。実を言えば、外から見るならただ静かな同質性として見えるそのことが、内部ではどうなっているかを想像してみたいのである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「左翼であることは右翼であることと同じく、人が愚かであるために選択できる無限の方法のうちの一つにすぎない。事実、両者とも精神的な半身不随の形式である。そのうえ、右翼とか左翼といった性状形容詞が永続していることは、それ自体が偽りである現在の「現実」をさらに偽造することに少なからず貢献している。なぜなら今日、右翼が革命を約束し、左翼が専制を提案しているという事実が示しているように、それらの言葉が意味している諸々の政治体験が混迷の度を強めてきたからである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「革命においては、抽象概念が具体的なるものに反旗を翻そうとする。革命に失敗がつきものなのはそのためである。人間の諸問題は、天文学や化学の問題のように抽象的なものではない。それは歴史的なものであるがゆえに、極めて具体的なものなのだ。その探求にあたって幾分か正しく判断する可能性を与えてくれる唯一の思考方法は「歴史的理性」である。過去一五〇年間のフランスの社会生活を一望のもとに眺めてみるとき、幾何学者や物理学者、そして医者がその政治的判断においてほとんど常に間違ってきたこと、それに反して、歴史家たちが的を射ていたのは一目瞭然である。しかしフランスにおける物理─数学的合理論はあまりにも輝かしいものであったので、世論に対して圧政を振るわずにはいられなかった。マルブランシュ[フランスの哲学者。一六三八─一七一五]は友人の机の上にツキジデスの本があったからというそれだけの理由で、友人と絶交してしまう( 21)。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「 三世紀にわたって「合理主義」を体験した私たちは、あの驚異的なデカルト的理性の栄光と限界について熟慮するよう迫られている。あの理性は単に数学的、物理学的、生物学的理性にすぎないのだ。自然に対するその途方もない勝利、夢見ていた以上の勝利は、一転して人間固有の事柄に直面しての挫折を嫌がうえにも際立たせ、それを補完すべく「歴史的理性」というさらに根源的な別の理性を招き寄せる( 22)。  以上はすべての全面革命のむなしさ、つまり八九年の撹乱主義者たちが目指していたような社会の突然の変革とか、歴史を最初からやり直すとかいった試みの虚しさを示している。革命の方法に対抗できるのは、現代のヨーロッパ人が背負っている長きにわたる経験しかない。権利を要求するのにあまりにも性急でこらえ性がなく、しかも偽善的にも寛大な革命は、人間の本質の定義そのものであるほどに基本的な権利を、すなわち生き続ける権利を常に侵害し破壊し踏みつけてきた。「人間の歴史」と「自然史」との唯一の根源的相違は、前者が決してやり直しがきかないということである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「それが良いことか悪いことかはともかく、現在のヨーロッパ社会には一つの重大な事実がある。それは、大衆が完全に社会的権力の前面に躍り出たことである。大衆はその定義から見て、自分の存在を律すべきではなく、またそもそも律することもできず、ましてや社会を統治することもできないのだ。この事実は、ヨーロッパが今や、民族、国民、文化として被り得る最大の危機に見舞われていることを意味している。これは、歴史上何度も起こったことであり、その相貌ともたらす結果についてはすでに知られている。すなわち「大衆の反逆」と呼ばれるものである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「たとえ大衆を構成する一個人が自分には特別な資質があると信じたとしても、そこにあるのは、単に個人的思い違いの一例であって、社会学上の破壊要因とはならない。むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。アメリカ合衆国で、「俗見と違うのは下品だ」と言われているのはその現われだろう。大衆は、みんなと違うもの、優れたもの、個性的なもの、資格のあるもの、選ばれたものをすべて踏みにじろうとする。みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者は、抹殺される危険に晒される。そしてもちろん、この場合の「みんな」は、本当の「みんな」ではない。かつての「みんな」は、大衆と、彼らと意見を異にする特別な少数者との複合的な統一体であった。しかし、今や「みんな」は、大衆だけを指している。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

これから日本で起こることを予言している哲学書がある。

オルテガ『大衆の反逆』

「文明の恩恵を当然と思い、
それを支える仕組みに無関心な大衆」
を哲学している。

いま日本で起きていること、まさにこれ。

スーパーの棚にモノがある → 当たり前
ネットで頼めばモノが届く → 当たり前
病院に行けば治療できる → 当たり前

その「当たり前」の裏側に
ホルムズ海峡という一本の細い管がある。

ナフサ → エチレン → プラスチック
→ 食品包装、医療資材、物流梱包

この連鎖が止まると何が起きるか。
「便利」が消えるんじゃない。
「生存の前提」が消えていく。

オルテガが警告したのは
「自分が享受するものの由来を問わない人間」の増殖。
いまの日本社会がまさにそれ。

ナフサ不足という事実を聞いても
「政府がなんとかするでしょ」

「一時的でしょ」と思った人が
スーパーの棚からモノが消えたとき
「なんで誰も教えてくれなかったの?」に変わる。

キャズムを超える。

フィルターバブル × 正常性バイアス × 大衆の反逆
→ 令和のオイルショック
→ 集団パニックの本質はここにある。

——これから起きること——

大衆は「当たり前」が崩れると、
原因を理解する回路を持っていないから、
怒りの矛先が「最も分かりやすい標的」に向かう。

「犯人探し」の暴走
買い占め批判、転売ヤー叩き、外国人排斥、政府批判が同時爆発。 構造問題が道徳問題にすり替わる。
SNSが増幅装置になる。 → 関東大震災型の流言。

「強い指導者」への渇望
「政府は無能だ」→「誰かちゃんとやれ」
→ ポピュリスト政治家や極端な言説への支持が急伸。
非常事態宣言・配給制の議論が出始めると、
私権制限への抵抗感が驚くほど薄い。
→ オルテガが1930年に見た光景の再現。

中間組織の不在が致命傷になる
地域の自治組織、相互扶助の仕組み。
日本では町内会も形骸化している。
パニック時に「国家と個人の間」で機能するバッファがない。

孤独な大衆は、強い指導者への渇望がさらに進む。

失業対策、配給、食糧、物流への傾斜生産方式。
これをどう手当していくか、政府は今から考えておかないと、無政府状態からポピュリストに国を乗っ取られかねない。

危機が十分に可視化されたとき、
強い指導者が出てくる。
それが善意のテクノクラートか、ポピュリストかは
そのときの「運」。

情報は出ていた。
フィルターバブルと正常性バイアスが遮断していただけ。

オルテガの最終警告:
「大衆は自分の無関心の代償を、自分で払う」

96年前の本が、いま一番怖いな。

イキリ中高生が「大衆の反逆」を読んでエリート主義、大衆蔑視、冷笑癖に走り、10代後半の貴重な青春を台無しにしてしまうのをいくつも目撃してきたし、なんなら俺がその当事者である。
この本はとてつもない悪書!青少年の健全な発達に著しい悪影響を与える!

オルテガさんの「大衆の反逆」を若い頃に読んでいたせいか、「本の内容そのまんまやんけ」と最近よく思うます。

ヒトラーの愛読書なんよね、これ

大衆は昆虫の群れみたいなもんと言う意味のことが書いてある

「専門分化の最も端的な結果は、今日、かつてないほど多くの「学者」がいるにもかかわらず、たとえば一七五〇年ごろよりもはるかに「教養人」が少ないということである」(オルテガ『大衆の反逆』)

『100分de名著 大衆の反逆』

金銭の多寡ではなく、他の人と同じであることに喜びや安堵する者がオルテガの言う大衆

そんな大衆が権力の表舞台に上がってきたことで世の中の流れが変わりました

パーク→トクヴィル→オルテガと保守かつ自由の系譜

ちくま版も捨てがたいが私は中公派

「アインシュタインの物理学は、一見して重要でないと思われたために、かつては軽視されて意識にも上らなかった極小の差異に注目することで成り立っている。つまり昨日までは世界の極限であった原子は、今日では一つの太陽系全体となり得るまでに膨張してしまったのだ。  つまり私が言いたいのは、それが文化の完成を意味し得る──私にとってこれはいま重要なことではない──ということではなく、その事実全体が前提としている主観的能力の増大のことなのである。すなわち私が主張しているのは、アインシュタインの物理学がニュートンのそれよりも正確であるということではなく、人間アインシュタインの方が人間ニュートンより正確さと精神の自由( 12)において遥かに能力があるということなのだ。それはちょうど今日のボクシングのチャンピオンが、これまで以上に力強い殴打を振るうのと同じなのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

『大衆の反逆』(amzn.to/4aFUA85)めちゃくちゃ面白い。『大衆の反逆』の中で述べられている「大衆」とは、特定の階級ではなく「精神のあり方」を指しており、文明の恩恵を当然視し、自己規律や学びを省いたまま「自分の感覚が標準」と断言し、異論や制約を邪魔扱いする人のこと。SNSでよく見かけるやつ。

これは学歴や職業に関係なく、知識人の中にも現れるという指摘をしている。そして、専門家にも言及している文章がこれ。こちらもSNSでよく見かけるやつ。

「大衆」や「専門家」に対して、SNS社会の今だからこそ刺さる内容がたくさんある。

『大衆の反逆』を読み終えたばかりだったので、鉄は熱いうちに打てということで、その解説本である『100分de名著 大衆の反逆』も一気に読み終えた。『大衆の反逆』では大衆の特性についての部分は理解しやすかったが、第二部の社会を形作る部分が難しかった。本書は、その部分を非常に分かりやすく説明しており、オルテガの思想は「お互いに分かりあえない部分があるからこそ、お互いの立場や意見を尊重する」という「リベラル」の思想が根底にあることを理解できた。

最近、理系のための〇〇みたいな本が少ないと話題だけど、『100分de名著』シリーズはおすすめのものが多い。

『100分de名著 大衆の反逆』


勉強しない奴が、勉強しないことを誇る

まさに「大衆の反逆」だよなぁ><

大衆の反逆を読む。科学者や医師、教師、といった近代に現れた専門家は専門的であるゆえに無知者になりうるという指摘、確かにそうだなと思う。そういった人々が代表的な大衆だとしてるのとても面白い。

オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』

愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。

岩波文庫『大衆の反逆』を読み終えたちゃま。
約100年前に書かれたとは思えないほど、現代のSNSや大衆社会に重なる内容でした。
1部は比較的入りやすいですが、2部は背景を調べながら読むと理解が深まります。
権利を当然視し、自ら考えることを手放しがちな現代にこそ刺さる一冊。
耳が痛いけれど、読む価値はかなりありますちゃま。

大衆の反逆(中公クラシックス)

ホセ・オルテガ・イ・ガセト/中央公論新社
近代化の行きつく先に、必ずや「大衆人」の社会が到来することを予言した、スペインの哲学者・オルテガの代表作。「大衆人」の恐るべき無道徳性を鋭く分析し、人間の生の全体的建て直しを説く。
bokenbooks.com/items/60518591

「この最初の永続的な印象を中心として、現代人一人ひとりの魂が形成されつつあるが、それは古代人の魂が中核とした印象とは正反対である。つまりその基本的な印象は、人格の最深部で何か言葉のようなものを絶えずつぶやき、同時に一つの命令である生の定義を執拗にほのめかす内部の声へと変化するのである。そして伝統的な印象が「生きるとは自分が制限されていると感じること、したがって私たちを制限するものを考慮に入れざるを得ない」と言っていたとしたら、最も新しい声はこう叫んでいるのだ。「生きるとはいかなる制限とも出会わないこと、つまり何の気兼ねもなく意のままにすることなのだ。実際のところいかなることも不可能ではなく、いかなるものも危険ではない。原理的には自分より優れたものは一人もいない」。  この基本的な経験は、かつての大衆の伝統的で恒久的な構造を完全に変えてしまう。なぜなら、かつての大衆は常に自分が物質的限界や上位の社会的権力に体質的に縛られていると感じていたからだ。それが彼らの目に映った生だった。もしそうした状況を改善できたり、あるいは社会的に地位が向上したとすれば、彼らはそれをいわば微笑みかけてくれた幸運という偶然に帰したのだ。幸運という偶然に帰さない場合は、どれだけ大変な努力を要したか、彼ら自身が骨身に沁みてよく知っていた。いずれの場合も、当時は生や世界の性格とは相容れないものであり、極めて特殊な原因に由来するものだった。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「普通考えられていることとは反対に、本質的な従属関係の中に生きているのは大衆ではなく選良の方なのだ。選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務( Noblesse oblige)である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族は秩序と法を希求する」(ゲーテ)。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「馬鹿は死ぬまで馬鹿である。抜け道はないのだ。だからアナトール・フランス[フランスの小説家。一八四四─一九二四]は、馬鹿は根性曲がりより忌まわしいものであると言ったのだ。なぜなら根性曲がりは時々休むが、馬鹿はまったく休まないからだ( 23)。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「文化の高低は、規範が正確に守られているかどうかの強弱によって計られる。文化レベルの低いところは、規範も雑にしか機能していない。文化レベルの高いところでは、あらゆる実践活動において細部にまで規範が浸透している。スペインの知的文化の貧しさ、つまり知性の規律正しい養成と実践の少ないことは、知識が多いか少ないかではなく、話したり書いたりする人たちが通常示す、真実に向き合うための用心や注意が常に欠如しているところに現われている。つまり当たっているか外れているかではなく──私たちが真実を手中にしているわけではない──正しく判断するための基本的な必要条件すら満たさない事態を引き起こす注意の欠如こそが問題なのだ。もしそうなら、私たちは、まずマニ教徒が何を考えているかを調べることに意を用いないで、マニ教徒を意気揚々と論駁する村の司祭を永遠に演じ続けることになる。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「ここ数年前からヨーロッパでは「奇妙なこと」が起こり始めたと誰もが気づいている。それら奇妙なことの具体例を挙げるとすれば、サンディカリズムやファシズムのようないくつかの政治的な動きだろう。それらが奇妙に思われるのは単に新しい運動にすぎないからだなどと言わないでいただきたい。革新への熱狂はヨーロッパ人にとって生得的なものであり、ヨーロッパ人をして知られ得る限り最も激しく落ち着きのない歴史を作り出させるに至ったほどのものだ。だからこれら新しい事実に奇妙さが見てとれるのは、単にそれが新しいからではなく、これら新事実のもつ極めて不思議な外見からである。サンディカリズムやファシズムの相の下に[スピノザの「永遠の相の下に」を下敷きにしている]、ヨーロッパに初めて、おのが行為の理由を相手に示すことも、また自己正当化も望まない人間、むしろ単純明快に断固として自分の意見を押し付けようとするタイプの人間が現われたのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「だが実験科学は、そうでなければ滅びるという程度に、大衆が必要としているものだが、それと同じ程度に実験科学も大衆を必要としている。なぜならもし地球に物理化学がないとしたら、今日存在している数の人間たちを維持することなどできないからである。  人間たちが乗り回す自動車や、奇跡のように彼らの痛みを散らしてくれる全身麻酔[モルヒネの代用品、鎮痛麻酔剤]が達成していないことを、他のどのような理論が成し遂げてくれよう。科学が大衆にもたらしてくれる恒常的で明確な恩恵と、大衆が科学に対して示す関心との間の不均衡はかなりのものなので、空しい希望で自分自身を丸め込む方法もないし、期待できるのは人間の振る舞うであろう野蛮な態度だけという体たらくである。ましてや科学に対する無関心が以上のような現われ方をしているなら、専門家たち、つまり医者、技師などからなる大衆の中にこそ、他のどんなところよりももっとはっきりした形で露出しているはずである。つまり、そうした専門家たちは、科学や文明の運命との緊密な連帯などこれっぽっちも持たずに、自動車を乗り回したりアスピリンを買うことで満足している人と本質的には同じ精神状態にあって自分の職業を実践しているのが普通なのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「新しく現われ出た野蛮の別の兆候、つまり怠慢ではなく、積極的で行動的な性格に由来するため、とりわけ目立って派手な見世物になる兆候に、それこそ恐怖を覚える人もいるであろう。私にしてみれば、それこそ平均人が科学から受け取る便益と、彼が科学に捧げる感謝(つまりは捧げられない感謝だが)との間の不均衡にかかわるものであり、この上なく恐ろしいものなのだ( 32)。もし私がアフリカ中央部では黒人たちも自動車を乗り回しているしアスピリンを服んでいることを思い出すなら、当然、科学に対するこの適切な感謝がないことが腑に落ちるのである。これは私の仮説だが、優位に立ち始めたヨーロッパ人は、彼がその中で生まれた複雑な文明に比して相対的に原始人であり、舞台の迫りに突如現われた野蛮人、「垂直的侵略者」と言えよう。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「自然は常にそこにある。そして自立自存している。自然の中、ジャングルの中では、私たちは原始人であっても咎められることはない。それだけでなく私たちは、原始人ではない他の者たちが出現するという危険がない限り、原始人であろうと心に決めることさえできる。しかし原則的には、永遠の原始民族もあり得るわけで、事実そういう民族もいるのだ。ブライジッヒ[ドイツの歴史家。一八六六─一九四〇]は彼らを「永遠の曙の民族」と名付けた。停止し凍りついた、つまり決して正午に向かわずに夜明けにとどまった民族というわけである。  以上は自然だけの世界に起こることであって、私たちの生きる文明世界に起こることではない。文明は単にそこにあるものではないし、自立自存もあり得ないのだ。それは人工のものであり、芸術家あるいは職人を必要とする。もしあなたが文明の恩恵に浴したいと望みながら、文明の維持を心がけないなら……、とんでもないことになる。あっという間にあなたは文明のない世界に取り残されるだろう。少し油断した隙に、そして周囲を見回すとすべては雲散霧消している。それはまるで純粋の自然を覆っていたつづれ織りが取り払われたかのように、原始の密林が原初の姿のままに再び現われる。密林は常に原始的である。またその逆も真なり。原始的なものはすべて密林なのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続するための第一級の技術である。それは、さまざまな生の衝突──生は常にそれまでのものとは変化していく──の新たな様相に積極的な解決策を与えてくれるからではなく、以前の時代を知らないことによって起きる間違いを回避させてくれるからだ。だが、もしあなたが年寄りになり、あなたの人生が困難なものになり始めたばかりでなく、過去の記憶をも失ってしまったなら、あなたは自分の経験が利用できず、すべてが不利になってくる。私はこれこそがヨーロッパの状況だと考えている。今日の「教養ある」人たちは、信じられないような歴史的無知を患っている。今日の指導的立場のヨーロッパ人は、十八世紀、いや十七世紀の人間よりも歴史を知らない、というのが私の意見である。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「今日、社会的権力を行使しているのは誰だろうか。おのれの精神構造を時代に押し付けているのは誰だろうか。疑いもなく中産階級だ。それではこの中産階級の中で現在の貴族のような、上位の集団は誰だろうか。疑いもなくそれは技術者、つまり技師、医者、財界人、教授等々だ。では専門家集団の中で、最も高度に、純粋にその集団を代表する者は誰だろうか。間違いなくそれは科学者だ。もしも宇宙からの訪問者がヨーロッパを訪れたとき、ヨーロッパを評価するためにはその住人の中でどのタイプの人間について評価したらいいかと聞いたとしたなら、ヨーロッパは喜々として、好意的な判定が下されると確信しながら科学者たちを指差すことは間違いない。もちろん宇宙からの訪問者は、例外的な個人について聞いたわけはなく、標準的なもの、つまり「科学者」というヨーロッパ人種の頂点に立つ類型タイプを求めているのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「ニュートンは大して哲学を知らずして彼の物理学体系を創り出すことができた。しかしアインシュタインは彼の峻厳な総合に達するために、カントやマッハをいやというほど潜り抜けなければならなかった。カントとマッハ──この二つの名前はただアインシュタインの中に流れ込んだ膨大な量の哲学的ならびに心理学的な思想を象徴しているにすぎない──はアインシュタインの精神を解放し、革新に向かう囚われのない道を開くことに貢献した。しかし、もはやアインシュタインでも充分とは言えない。物理学はその歴史の中で最も深刻な危機に陥りつつあり、それを救うことができるのは最初のものよりもっと体系的な新しい「百科事典」だけだろう。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「大事なのは、ヨーロッパが現代まで遂行してきた世界支配に対する疑問が、未成熟さゆえにまだ先史時代を生きている民族を除いた、その他の民族を退廃させてきたことだ。しかしそれよりさらに重大なことは、この「足踏み」がヨーロッパ人自身を完膚なきまでに退廃させるようになったことである。これは、私がヨーロッパ人もしくはそれに類したものだからそう考えるのではない。またヨーロッパ人が次の時代においても引き続き支配しないからといって、世界の行く末に興味がなくなる、などということでもない。ヨーロッパに代わって権力や地球の方向付けができる他の民族集団が存在するなら、ヨーロッパの支配が終わっても私は一向に構わない。しかしこれすらも求めるつもりはない。誰も支配しなくなったとしても受け入れるつもりだ。ただし、そのことによってヨーロッパ人のすべての徳や資質が雲散霧消するようなことがあっては困るが。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「この徳や資質の喪失は絶対にあっては困ることなのだ。しかし、もしヨーロッパ人が支配しないことに慣れてしまうなら、旧大陸とそれに続く世界全体が、道徳的無気力や知的不毛状態に、そしてあらゆる形の野蛮に陥るのに、一・五世代[オルテガの世代論では一世代は十五年]もあれば充分だろう。支配することへの夢、そしてそれが鼓舞する責任感のもたらす規律だけが西欧の魂を緊張状態に保持してくれる。科学、芸術、技術、その他すべてのものは、支配の意識が創り出す意志強固な雰囲気から生まれる。もしその意識がなければ、ヨーロッパ人は堕落していくだろう。もはや人びとの心は、あらゆる分野での偉大で新しい理念の獲得に向かう、大胆で精力的で粘り強く叱咤激励してくれる信念、つまり自分自身に対する根本的な信念を持つことはないだろう。ヨーロッパ人はどうしようもなく、その日暮らしの人間になっていくだろう。創造的で余裕のある努力もできず、常に昨日という過去に、習慣に、決まりきったことの中に陥るだろう。没落期のギリシャ人やビザンチン時代を生きた人間のように、粗野な形式主義者で中身がからっぽの輩になるだろう。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「あなたを取り囲んでいる人たちを観察してもらいたい。すると彼らが生に迷いながら生きていることが分かるだろう。彼らはまるで夢遊病者のように、彼らの幸運、あるいは悪運の内部で、自分たちに起こることについてまったく何も疑わずに生きている。あなたは彼らが自分自身や自分たちの環境についてきっぱりした口調で話しているのを聞くと、まるで何についてでも何か考えを持っているかのように思えるかもしれない。しかし、それらの考えを少しでも分析してみるなら、一見して彼らがもっともらしく言及しているのは、現実を何ら反映したものではないし、さらに分析を深めれば現実に適合させようとすらしていないことに気づくだろう。事実はまったく逆なのだ。彼ら個々人は現実や彼ら自身の生についての独自の見解を見ようとしない。なぜなら生はまずもって人が迷う混沌なのだから。人間の方でもそうではないかと気づいているが、その恐ろしい現実と正面切って向き合うことが怖く、すべてが明快であるという幻想の幕で覆い隠そうとする。彼にとって自分の「思想」が真実かそうでないかは気にならないのだ。彼はそれらを、おのれを守るための塹壕として、現実を追い払うための脅しの身振りとして使っている。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「ギリシャ・ローマ人たちは時間を感じることができず、自分の生を時間的な延長として捉えられないと言われてきた(シュペングラー)。いわば点としての現在の中に存在しているということだ。私はこの診断は間違っているのではないか、いや少なくとも二つのことを混同しているのではないか、と思っている。ギリシャ・ローマ人たちは確かに未来に対して驚くほど盲目である。ちょうど色覚異常の人には赤色が見えないように、彼らには未来が見えない。しかしその代わりに、過去にしっかり根を下ろして生きている。闘牛士ラガルティホ[トカゲというニックネームを持った十九世紀の著名な闘牛士]が最後の一撃を加えるときのように、何かをする前に一歩退くのだ。  つまり現在の状況の手本を過去に探し、そこからヒントを得て、素晴らしい潜水服で不恰好に守られながら、現在の世界に飛び込む。だから彼の「生きる」とはすべて、ある意味で再生となる。これは懐古的であるが、古代人はほとんど例外なく懐古的だった。しかしだからといって時間に対して無感覚というわけではない。単にそれは、未来主義的な翼を欠き、過去の翼が肥大した不完全な時間感覚を意味しているにすぎない。反対に私たちヨーロッパ人はずっと未来に重心をかけてきた。そして未来こそが、時間の最も本質的な広がりであると感じている。つまり時間は私たちにとって、「これ以前」から始まるのではなく「これから」始まるのだ。ギリシャ・ローマ人の生が、私たちには無時間的に見えるのはそのためである。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「はっきり申し上げるが、国民を作ったのは愛国心ではない。逆に愛国心が国民を作ったと考えるのは、前にも述べたようにあまりにも無邪気だが、ルナンその人でさえあの有名な定義の中でその愚かさを犯している。一国が存在するためにはある人間集団が共通の過去を持たなければならないとしたら、今日から見ればすでに過去となった時点という現在を生きていたその集団を何と呼べばいいのだろうか。見たところ、「私たちは一つの国民である」と言うためには、そうした共通の存在が終わり、過去のものとなることが必要不可欠のようだ。この考え方には、文献学者や古文書保管員の職業的悪習ともいえる視点が、いまだ過去とならない現実の理解を妨げていることに気づかないだろうか。文献学者とは、文献学者になるために何よりも先ず過去の存在を必要とする者である。しかし国民は、共通の過去を所有する前に、この共同体を先ず創造せねばならず、その創造の前にそれを夢見、欲し、計画しなければならない。そして国民が存在するためには、それ自体の計画を立てるだけでもう充分なのだ。過去に何回となく起こったように、たとえ成功しなくとも、たとえ遂行できずとも、である。私たちはそのような場合、夭折した国民(たとえばブルゴーニュ)という呼び方をするだろう。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「しかし、これらのナショナリズムはいずれも袋小路である。それらを明日に向かって投影してみたらいい、たちまち限界が見えてくるだろう。そこからはどちらの方向にも出口がない。ナショナリズムは常に、国民形成原理( principio nacionalizador)とは逆行する方向への衝動なのだ。国民形成原理が包容的であるのに対し、ナショナリズムは排他的である。しかしながら、団結強化の時代にあれば、ナショナリズムは肯定的な価値を持ち、高邁な規範たり得る。しかしヨーロッパにおいては充分すぎるほどに関係はすべて緊密であり、ナショナリズムは一つの偏執つまり創意と大きな事業の義務を回避するために持ち出される口実にすぎない。ナショナリズムが用いている手段の単純さと、それが持ち上げる人間たちのタイプが示しているところを見れば、ナショナリズムは歴史的創造とは正反対のものだということが余すところなく明らかとなる。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「しかしこれは同時に、他民族とりわけ我がスペイン人との相互理解を困難にする。南の人間はおしゃべりの傾向がある。私たちを教育してくれたギリシャは、私たちの舌を解放してくれ、私たちを生まれながらにして不躾な人間にしてしまったのだ。典雅な表現( aticismo)[アテネ的語法]が簡潔な表現( laconismo)[スパルタ的語法]を征服してしまった。アテネ人にとって生きることは話すこと、言うこと、声にあげること、つまり最奥に秘めた内面までも風に乗せて叫ぶことであった。  それゆえ言説、ロゴスを神格化し、それに魔術的な力を付与した。かくして古代文明において修辞学は、ここ数世紀の間に、私たちにとって物理が意味するものと同じになるに至ったのである。この学問の下に、ローマの諸民族は、他に比べようのない響きと豊かな表現力を備えた、複雑な、しかし魅力的な言葉を形作った。それは、つまり集会場や広場、演壇や居酒屋、そして寄り合いでとめどなく続くおしゃべりから作られた言葉である。私たちがこれら申し分のないイギリス人に近づいて彼らの発する猫の鳴き声のような軽く、そして無愛想な話し声(彼らの言語の真骨頂ここにあり)を聞くときに、なぜどぎまぎするのか、ここにその理由がある。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

「英語版でかなりの読者を得た『大衆の反逆( 12)』の中では、ヨーロッパ的共存の最も進化した形式の到来を、その統一の法的政治的組織化への第一歩を、私は擁護し告知している。このヨーロッパ的理念は、あのわけの分からぬ国際主義の対極に位置するものである。ヨーロッパは国民の間にあるもの( inter-nación)ではないし、これからだってそうではないだろう。なぜなら国際なるものは、明確な歴史的概念からすれば、空隙、虚、虚無を意味するからだ。むしろヨーロッパは超・国民( ultra-nación)なのだ。西欧の国民群を形作ったのと同じ霊感が、ゆっくりと静かにサンゴ礁が繁殖するように地下深く活動を続けている。  要するに、例の国際主義が代表する方法上の迷走のせいで、大事なことが見えなくなっていたのだ。つまりヨーロッパが具体的で意味のある統一に到達するのは、限界まで悪化したナショナリズムの段階を過ぎて初めて可能であるという事実である。これまでの伝統的な形式が新しい生の形式に移行し定着するのは、極限の形での習練を積んで初めて可能となる。ヨーロッパの諸国民は、いまや自分たちの限界に達し、そしてそれらの間の角の突き合いを経てヨーロッパの新しい統合へと進むであろう。問題はそこである。つまり国民を貼り合わせることではなく、西欧の豊かな特性を残しつつ統合することなのだ。」

—『大衆の反逆 (岩波文庫)』オルテガ イ ガセット著

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2026年06月04日

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「大衆の反逆」を生きる―現場の葛藤から見出した個の主体性

 オルテガは『大衆の反逆』の中で、特別な努力や責任を放棄し、安易に現状を享受する「大衆」の精神を鋭く批判した。本書を読み、私は現代日本社会、そして自分が身を置く看護現場の状況を、この「大衆の論理」の延長線上に見出した。
 職場では、手術件数の増加という経営的要請に対し、スタッフから「なぜ自分が苦労しなければならないのか」という他責的な不満が漏れる。彼らにとって、組織の持続可能性は当然享受すべき空気のようなものであり、自身の負担増はただの「被害」として捉えられる。資本主義というシステムの構造的要請を無視し、目の前の平穏のみを求める姿勢は、まさにオルテガの言う大衆の姿そのものである。
 しかし、私自身もまた、そうした大衆の一部である。サラリーマンという歯車として組織に依存し、一方で他責に傾く周囲を批判する自分も、本質的には大衆の枠組みの中にいる。円安や物価高という不可避な荒波の中で、「何とかしてほしい」というポピュリズム的思考が世間を覆う時、自分もまた「何者であるか」を見失い、流される危うさを抱えている。
 では、この「大衆の時代」をどう生き抜くべきか。私は、今の厳しい状況を「大衆という波に抗うための試練」と捉え直すことにした。すべてを自分の責任と抱え込みすぎれば精神は摩耗する。だからこそ、私は情報の感度を高め、構造を理解し、自分の人生を守るための「生存戦略」を練り続ける。職場においては、感情的な説得ではなく、業務の標準化という「仕組み(システム)」を構築することで、無駄なバラつきを排除する。
 「大衆」を自覚した人間は、もはや大衆ではない。たとえ組織の歯車であったとしても、自らの意思決定を「自分事」として引き受け、家族を守るという確固たる目的を掲げて生きること。それこそが、この不透明な時代において、個が主体性を取り戻す唯一の道だと確信している。

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2026年05月31日

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およそ100年前に書かれた(1930年刊行)書物だが、現代にそのまま通じるその透徹した洞察力の凄みに震撼させられた。
オルテガはゾンバルトのデータを引用する。それによると、6世紀から1800年に至るまで、ヨーロッパの人口が一億八千万を超えたことはない。ところが1800年から1914年の1世紀の間にその人口は四億六千万に上昇した。この数字が意味するとてつもない豊かさは何を帰結するか。「生の完全な自由を生まれながらにすでに確立した状態とみなす」大衆を生み出す。そこには、権利はあるが義務はない。義務を負わされることのない生の主権者が誕生したのだ。彼らは自己超克しようと努力する生とは無縁で、自らに義務や要求を課することがない、不活性なあり方をしている。オルテガは彼らのことを端的に「満足しきったお坊ちゃん」と呼ぶ。そしてこのようなあり方をしている大衆の典型として、(労働者ではなく)現代の科学者という「専門家」を挙げるのである。彼らは断片的で狭い領域の知識しか持たないにもかかわらず、「ものを知っている人間」として振る舞う。その害毒がどれほどのものになりうるか、オルテガは100年も前に見通していたのである。
オルテガ恐るべし。
ヨーロッパ中心主義的なきらいはあるが、何度も読み返すべき知恵の詰まった名著である。
その大衆の

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2026年03月14日

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思想は、真理への王手である。誰であれ思想を持とうと願う人は、真理を欲する姿勢、思想が課す競技の規則を受け入れることがまず必要である。思想や意見を調整する審判、すなわち議論を律する一連の基準が認められないような思想や意見は論外なのだ。これらの基準は文化の原理である。それが何かは重要でない。私が言いたいのは、私たちの隣人が拠るべき市民法の原理がないところに文化は存在しないということだ。討論の際に言及されるような、いくつか究極的な知的立場に対する尊敬の念がないところには文化もない。いざというときに拠りどころとなる商取引が経済関係を統括していないところにも文化はない。美学論争において芸術作品を正当化する必要性を認めないところに、文化はないのだ。以上のことすべてが欠けているところに、文化は存在しない。そこにあるのは、言葉の最も厳密な意味における野蛮(barbarie)である。

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2026年02月21日

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これからの時代に大切な事は、未来への思考である。過去に立脚した教訓を持ち、そこから未来と言う共同目標を持つことで、国民が1つとなり、あらゆることを成し遂げていくことができる。19世紀の時代は大量生産社会であり、分業の時代であった。だからこそ、機械的な人間が模範となる人間であったし、そういった人間を教育するようになっていた。しかし、上の命令を聞くだけの人間は、これからの時代には全く通用せず、路頭に迷うことになる。だからこそ、教育の大転換が必要である。過去の歴史から教訓や周りへの尊敬の念を高め、そこから開かれた未来を想像できる人間を作っていかなければならない。これは、これまでの中で1番質の高い人間が要求されているということである。変化の早い時代の中で、膨大な情報の中から自らの基準を持ち、自ら想像し、未来に必要なことを選択し、決断していかなければならない。また、国家も同じで未来を想像し、1つの大きなビジョンを示さなければならない。自分たちがどこから来て、今どこにいるのかそしてこれからどこへ向かわなければならないかということを。時間は、過去からではなく未来から過去へと流れている。

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2025年12月04日

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「言葉はこれまでの濫用によって、その権威を失墜してしまった。ここで言う濫用とは、他の多くの場合と同じく、配慮なしに、つまり道具としての限界について意識なしに使用することである。ほとんど二世紀も前から、話すとは「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことだと言じられてきたが、これは結局、誰に対しても話さないに等しい。私はこうした話し方を嫌悪するし、自分が誰に対して話しているか具体的に知らないときには胸の痛みさえ覚える。」

このオルテガの言説からおよそ95年が経った現在、「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことを理想とする言説が過去になったとは言い難い。むしろ、テレビからインターネット、SNSへの移り変わりという歴史的局面は、「発信者」を多様にすることによって、万人に向かって話す人々の絶対数を増やし、万人に向かって話すことを理想から現実、前提へと変えてきた。

だが、「Twitter」における惨状とでもいうべき状況、これを見るにつけ、いよいよ先述のオルテガの言葉は真実性を帯びてくる。オルテガはこの発言の前段で、そもそも話すこと、対話による相互理解などというものは根本的に困難であると述べている。だとすれば、つまり対一の対話すら難しいのであれば、万人に対する対話(ツイート)が混乱や対立、誹謗中傷、炎上、陰謀論を招いている現状も容易に理解できるというものである。

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2025年10月30日

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これは素晴らしい。
今自分が生きている生活、社会、文明を誰が創り出し、維持しているか?これを考えないと「満足し切ったお坊っちゃん」と喝破したオルテガ。
「大衆」論についても興味深い。
自己批判の書として最適。

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2024年08月15日

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新しい訳であり、さすがに読みやすい。日本や中国は鼻を突き合わせて住んでいる、という言及はあったものの、やはりヨーロッパ中心、しかもスペインとフランス、イギリス中心の思想である。

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2021年09月07日

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ネタバレ

無知無能な人間が外部に開かれた目的に向かって、ーー何の介入も受けずにーー 努力できることが自由の意味であったが、内なる欲望のままに活動できることが自由の意味にすり替えられた結果、能力を過信した人間が他者の影響を排除しながらやりたいことをやりたいようにやる権利を持っていると"勘違い";人間をたくさん生み出してしまった、、

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2020年06月28日

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間違いを犯したという実に否定的で敗北的な状況が、その間違いを認めたというだけで、その人にとっては魔法のように新たな勝利に変化するという不思議である。

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2025年02月09日

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※激高した労働者が武装蜂起、世界初の労働者政権(パリコミューン)が成立(1871)

人間は集団になると一体感をもち、無意識に同一の方向に動く。個々の人間の性質とは異なる集団の精神が生まれる。大勢の中にいると個人を抑制する責任感が消滅し、本能に負けてしまう。催眠・暗示を受けやすくなる(1-1)。群衆の中の個人はもはや彼自身ではなく、自らの意志で己を導く力を失った”自動人形”となる。群衆は衝動で動き、昂奮しやすく、他人の言葉を軽率に信じ込み、感情が誇張的で単純、偏狭で横暴。また、個人がなし得るよりも高度の犠牲的な無私無欲な行為も行い得る(1-2)。ギュスターヴ・ル・ボンLe Bon『群衆心理』1895 (94) ※心理学者
◆群衆は国籍・職業・性別を問わない(1-1)。
◆群衆は放任されていても、自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態のほうへ赴く(1-2-4)。
→大衆主導の民主主義への不信。

大衆(的な性質)。同調しやすい。自分に高い基準を課さず、現状に満足している。責任感がない。わがまま。下品。社会について深く考えない。特別の資質をもたない。平均的な人たち。他の人と同じであることに喜びを見出す。自分の限界を自覚せず自己主張する。自分の権利を押し通そうとする。こうした大衆(的な性質をもつ人々)が社会全体の価値基準を支配する。ファシスト党もボリシェヴィキも大衆に支えられている。自分の専門に閉じこもり傲慢で他人の言葉に耳を傾けない専門人(知識人)も「大衆」的な人々▼エリート(的な性質)。良い意味で個性をもつ。行動が自律的。向上心がある。責任感がある。公共の利益を優先。高い品格。自分に高い要求を課す。常に自己懐疑を持ち、自分が愚劣に陥る危険性を感じている▼大衆(的な人々)とエリート(的な人々)を分けるのは階級でも財産でもない。オルテガ・イ・ガセットGasset『大衆の反逆』1930 (97)
■6世紀にヨーロッパの歴史が始まってから1800年まで、人口はずっと1億8千万以下だったが、1800年から1914年までのわずかな期間で人口は4億6千万に増加した。p.118
■文明の基礎は他人への配慮。共生への意志。他者を考慮しないのは反市民的で野蛮。p.154

革命を目指す人々の心性(集合心性)は何の背景もなく生まれるのではない。その芽生えははるか昔にさかのぼる。領主と農民の対立は、封建制とともに古いものであり、数えきれない農民一揆によって露わにされてきた(p.38)。あらかじめ人々の内に革命的な集合心性が醸成され、それが何かのきっかけに意識の前面に現れる(p.33)。革命的「群衆」の心性は動物性への回帰ではない(p.65; cf.ル=ボン)▼敵対者のイメージは抽象化される。たとえある領主が個人としては穏健で寛大な性格を持っていても、次第に考慮しないようになっていく(p.42)。「典型的領主」は利己的で悪しき意図をもっており、自らの優越性を脅かす一切の改革を妨害する、と農民たちは短絡的に決めつける。なぜなら農民たちがもし自分が領主の立場に立てば、同じように改革を妨害するだろうと疑問の余地なく感じ取っているからだ(p.43)。一方、苦しむ階級についてのイメージは楽天的であり、貧しき者はあらゆる徳を付与される(p.45)。アンリ・ルフェーヴルLefebvre『革命的群衆』1934 (96) ※マルクス主義
※ 農民の領主への鬱憤はイングランドにもあったのでは? 農民一揆も

人はみな独りぼっちだと不安を感じる。仲間からの承認がほしい。そこで他人の行動を見て、自分の行動を決めるようになる。常にレーダーを張って、他人の期待や好みに敏感に反応。社会の側が個人に世界への反応の仕方を要求している(社会的性格)▼政治に無関心か、もしくは政治について知識や情報を得ることには熱心であっても、自ら進んで政治に関わろうとしない。傍観者。デイヴィッド・リースマンRiesman『孤独な群衆』1950 (90)

自分が権力をもてる&エリートに操作されやすい「大衆社会」△。自分が権力をもてる&エリートに操作されにくい「多元的社会」◎。自分が権力もてない&エリートに操作されやすい「全体主義社会」×。自分が権力もてない&エリートに操作されにくい「共同体社会」。共同体社会では支配層と一般人が隔絶されている。ウィリアム・コーンハウザーKornhauser『大衆社会の政治』1959

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2025年10月16日

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私が在籍する研究室に残された先輩の研究ノートに本書の一節が書かれていたため、手に取ってみた。
 彼の言っていることをただ当時の人間に投げかけている言葉だと捉えずに、現代に生きる自分や世間の人間に照らし合わせてみれば、おそらく思い当たる節がいくつも見つかるのではないだろうか。ただ、突然やけに専門的かつ読みにくくなる章があるのでそこについては読み飛ばした。

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2023年09月05日

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和訳がこなれているとはいえ、自分には難しく、読むのに約1ヶ月かかってしまった。
前半は、衆愚化に関する考察が長く、やや退屈であったが、社会や国家に関するくだりを読んで、著者が伝えたいことが、ようやく納得出来た。
国家とは共通の未来を共有するもの、というフレーズが特に印象に残った。

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2021年08月16日

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どうも、この本は「大衆」の存在や生き方を批判した本ではないように感じた。
大衆をキーワードにヨーロッパの歴史の紐解きや社会の在り方を説いた書であるように感じた。
そうだ、社会や歴史に関する本なのだ。この本は。

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2021年06月07日

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熱狂を疑え。炎上をして、すぐに忘れるということが起こりがち。
カーニバル的熱狂は超民主主義となり、保守ではない。

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2021年02月20日

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この岩波文庫版は、プロローグ及びエピローグが併せ訳されており、著者オルテガが、いかなる時代状況の下で本書を著したかを窺わせるものであり、著者の思想を考える上でも大変参考になる。
また、ご遺族が書かれた「訳者あとがきにかえて」は、訳者の人生を垣間見せてもらったが、母国語以外の著作に翻訳を通して触れる一般読者の胸を、強く打つものである。

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2020年05月19日

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ネタバレ

概要
人々は自由主義や産業革命の進展により、歴史的に類を見ない高い生活水準を達成した。しかし、その副作用として、大衆による支配の時代が始まった。大衆は、自らの凡俗さを認めながらも、その凡俗さに安住し、変化への努力を怠る人々である。オルテガは彼らのことを、「満足したきったお坊ちゃん」と称した。また、彼らは、文明の繁栄を享受しながらも、感謝や貢献といった義務を果たすことを考えず、自らの権利だけを主張する。大衆の増殖により、政治が愚鈍で自分勝手な人々によって支配され、イノベーションは衰退する。
このように空虚で中身のない大衆が増えたのは、産業革命や自由・平等主義を背景とした歴史的な生活水準の向上である。今日の人々は、今の時代が歴史の中でも一番優れているという確信に満ちており、過去への尊敬や謙虚さを失った。歴史的に、人間社会は知識の蓄積とその継承によって、発展を遂げた。ニーチェ曰く、超人とは「最も長い記憶を持つもの」である。しかし、過去への謙虚さや憧憬を喪失した現代人は、過去を参照することは無くなった。かくして、現代人は歴史上最も優れていると確信しつつ、根無草のように自分がどこに向かえばいいのか分からない空虚さを抱えることになった。
大衆のもたらす悪影響のうちでも、最も憂慮すべきは政治の支配である。本来、文明とは共生の意志を問うものである。そして、国家は慣習や宗教、言語、血縁では統一できない人々を積極的に組み込んでいこう(連合、植民地化)とする形態である。国家の統一基準は、慣習や法律、宗教などの内部存立要素だけに求めることはできない。理由は二つある。①そもそも画一的に統一されていないこと。②特に経済的関係から、内部存立要素から外れた人々や企業との関わりが必ず生じること。そのため、それらの所与の条件を超えて、外部存立と内部存立双方を達成できる仕組みを構築する必要がある。
このような他者への拡張と共生を究極の目標とした国家や文明の基盤となるのは自由主義デモクラシーである。自由主義デモクラシーは、自分を犠牲にしても自由な空間を残し、権力に抑圧される少数の人々が生きることのできる場所を残すことで、その命題を解決しようと試みてきた。しかし、大衆は自らの利益や快楽のために権利を主張し、他者との共存を排除する野蛮な方向へと向かう。このように、今や全世界を蔓延る大衆の反逆は、多様な人々が共生する社会の実現を不可能へと近づけている。



感想
2年前に読んで途中で挫折してしまったので、再チャレンジをした。
まず感じたのは、これは大衆への全力の悪口本であると言っても過言ではないだろう。オルテガのストレートな批判は、かなり賛否が分かれそうである。今で言うと、ホリエモンにやや近い語り口と思想だと思う。「みんなバカすぎて呆れる」のスタンスである。

オルテガの主張には色々ツッコミどころが多い。そもそも大衆が大衆たる所以を、個人の自堕落へと責任を収斂させていく姿勢はいかなるものか。また、若干ヨーロッパ諸国による他国の支配を正当化する(時代が時代なので仕方がない)論理も鼻につく。

しかし、ここで描かれている大衆の出現の分析は、現代の衆愚政治の問題を考える上で多分に役に立つ。また、本書の要約では取り上げられることが少ないが、オルテガの国家や文明への考え方、そして共生の意志は、グローバル化した世界で一国家としてのスタンスを確定する上でも、一例として非常に参考になるだろう。

個人的には、オルテガの生の哲学、あるべき人間像には共感することが非常に多かった。しかし、そうではない人々を馬鹿にする態度はいただけないし、その性質の形成要因に関する分析は正直甘いと思う。そのため、この本を大衆の出現構造の完全理解を求める目的ではなく、自分なりの卓越した生と反面教師にしたい生を見つけ、自己を啓発する目的で読むのがいいんじゃないかと思う。

卓越した人間とは、自らに困難を課す人である。自らに多くを求める人間である。オルテガは以下のようにいう。

選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務(Noblesse oblige)である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族は秩序と法を希求する」(ゲーテ)。

そのため私たちが今までの体験の中で知り合った、自発的で貴重な努力ができるごく少数の人たちが、孤立した記念碑のように見えてくる。彼らこそ選ばれた人、高貴な人、単なる反応ではなく自分独自の行動ができる人であって、彼らにとって生きるとは永続的な緊張、絶え間のない習練なのである。習練とはすなわち苦行(áskesis)であり、したがって選良・貴族は苦行者なのだ(21)。

(この文だけでも、オルテガのなんだか気取った嫌な感じは伝わるんじゃないかなと思う。私は嫌いじゃないですが笑)

私は卓越した人間は苦行者であるという考え方に賛成だ。努力なしで成功できる人間は天才だけである。苦しい道も自分の卓越性を高めると思ったら、少しでも飯の足しにはなるだろう。
私はこれを読んだ時、ゲーテのファウストを思い出した。ファウストは苦しみながら,目の前の事に使命感を持って取り組んだ。その生き様は、まさに卓越していると言えるだろう。

これに対して、大衆の描き方は笑ってしまうぐらいに酷い。

むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。

ここまでスパッと切り込んで描いてくれると、反面教師にしやすいものである。凡俗....。

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2026年02月03日

Posted by ブクログ

大衆社会論の名著。デモクラシーとテクノロジーの興隆によって誕生した大衆社会は、歴史を顧みず、自己満足した空虚な人々が前面に出てくる社会だ。

大衆とは階級のことではなく、いわば精神の持ちよう。専門家であっても、総合知へ向かわず、対話しないタコツボ知識人であれば、大衆と同じだ。大衆とはいわば甘やかされた子供、「満足しきったお坊ちゃん」である。

そんな大衆が支配する社会はかつてなく野蛮なものだ。発刊から1世紀たってもなお、その指摘は重要だ。特に現代、「1億総発信」の時代だからこそ、大衆への警戒は必要だ。

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2022年11月18日

Posted by ブクログ

1930年にスペインで出版された、当時の政治・社会に占める「大衆」に対する批判本。正直読みにくいし、あまり頭に入って来ない箇所も多いが、本書が単なる大衆批判の裏返しとしてエリートを賛美している訳ではないことが、分かった。むしろ、著者は専門家に無責任という大衆的な要素が蔓延っていることに批判的である。また、進歩史観に否定的な点もポピュリズムによる民主主義の後退が懸念される今日においては示唆的である。

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2021年12月08日

Posted by ブクログ

 原著1930年。
 このあちこちでやたらと言及される本について、かつて読んだと思っていたが、所有はしていなかったのでこの岩波文庫の「新訳」を購入してみた。が、読んでみると、どうやら読んだことが無かったようだ。何故か読んだと思い込んでいただけらしい。
 解説によると著者のオルテガは観念論的な哲学者のようで、社会学者でも歴史学者でもない。本書は本格的哲学のおもかげはなく、多分にエッセイ的な文明批評である。もともとスペインの新聞に連載された文章なので、こういう書き方になったのだろう。
 ヨーロッパに台頭し街に溢れかえるようになった「大衆」について、自分だけは正しく、確実であると信じ込んでいて、遠い未来のことについては考えず、モラルも理想も欠如している、とする指摘は、なるほど、現在の日本のヤフーニュースのコメント欄や2ちゃんねるのようなところに巣くっている連中に当てはまるように思えて興味を惹かれた。
 しかし、本書は社会学的な確かさを持っていないので、実際にどういう言動が見られたとかいうデータは全然なく、著者のおおざっぱな感想を延々と開陳しているだけである。ヨーロッパの歴史に関する意識も、なんだか思い込みで書いているような気がした。
 読み進めていくと、だんだんこの著者が頑迷なオッサンで、巷の若者批判の持論をぐだぐだとまくしたてているように思えてきて、次第にウンザリしてしまった。
 哲学者なら、もっと厳密な概念定義を行い、自らの思考をも深く考究していくべきではないのか。
 そんな印象が強くなり、面白い読書体験とは感じられずに終わってしまった。

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2021年05月06日

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