あらすじ
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(一八八三─一九五五)による痛烈な時代批判の書。自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった「大衆」は、人間の生や世界をいかに変質させたのか。一九三〇年刊行の本文に加え、「フランス人のためのプロローグ」および「イギリス人のためのエピローグ」も収録。(解説=宇野重規)
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思想は、真理への王手である。誰であれ思想を持とうと願う人は、真理を欲する姿勢、思想が課す競技の規則を受け入れることがまず必要である。思想や意見を調整する審判、すなわち議論を律する一連の基準が認められないような思想や意見は論外なのだ。これらの基準は文化の原理である。それが何かは重要でない。私が言いたいのは、私たちの隣人が拠るべき市民法の原理がないところに文化は存在しないということだ。討論の際に言及されるような、いくつか究極的な知的立場に対する尊敬の念がないところには文化もない。いざというときに拠りどころとなる商取引が経済関係を統括していないところにも文化はない。美学論争において芸術作品を正当化する必要性を認めないところに、文化はないのだ。以上のことすべてが欠けているところに、文化は存在しない。そこにあるのは、言葉の最も厳密な意味における野蛮(barbarie)である。
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これからの時代に大切な事は、未来への思考である。過去に立脚した教訓を持ち、そこから未来と言う共同目標を持つことで、国民が1つとなり、あらゆることを成し遂げていくことができる。19世紀の時代は大量生産社会であり、分業の時代であった。だからこそ、機械的な人間が模範となる人間であったし、そういった人間を教育するようになっていた。しかし、上の命令を聞くだけの人間は、これからの時代には全く通用せず、路頭に迷うことになる。だからこそ、教育の大転換が必要である。過去の歴史から教訓や周りへの尊敬の念を高め、そこから開かれた未来を想像できる人間を作っていかなければならない。これは、これまでの中で1番質の高い人間が要求されているということである。変化の早い時代の中で、膨大な情報の中から自らの基準を持ち、自ら想像し、未来に必要なことを選択し、決断していかなければならない。また、国家も同じで未来を想像し、1つの大きなビジョンを示さなければならない。自分たちがどこから来て、今どこにいるのかそしてこれからどこへ向かわなければならないかということを。時間は、過去からではなく未来から過去へと流れている。
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「言葉はこれまでの濫用によって、その権威を失墜してしまった。ここで言う濫用とは、他の多くの場合と同じく、配慮なしに、つまり道具としての限界について意識なしに使用することである。ほとんど二世紀も前から、話すとは「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことだと言じられてきたが、これは結局、誰に対しても話さないに等しい。私はこうした話し方を嫌悪するし、自分が誰に対して話しているか具体的に知らないときには胸の痛みさえ覚える。」
このオルテガの言説からおよそ95年が経った現在、「万人に向かって」(urbi et orbi)話すことを理想とする言説が過去になったとは言い難い。むしろ、テレビからインターネット、SNSへの移り変わりという歴史的局面は、「発信者」を多様にすることによって、万人に向かって話す人々の絶対数を増やし、万人に向かって話すことを理想から現実、前提へと変えてきた。
だが、「Twitter」における惨状とでもいうべき状況、これを見るにつけ、いよいよ先述のオルテガの言葉は真実性を帯びてくる。オルテガはこの発言の前段で、そもそも話すこと、対話による相互理解などというものは根本的に困難であると述べている。だとすれば、つまり対一の対話すら難しいのであれば、万人に対する対話(ツイート)が混乱や対立、誹謗中傷、炎上、陰謀論を招いている現状も容易に理解できるというものである。
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これは素晴らしい。
今自分が生きている生活、社会、文明を誰が創り出し、維持しているか?これを考えないと「満足し切ったお坊っちゃん」と喝破したオルテガ。
「大衆」論についても興味深い。
自己批判の書として最適。
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新しい訳であり、さすがに読みやすい。日本や中国は鼻を突き合わせて住んでいる、という言及はあったものの、やはりヨーロッパ中心、しかもスペインとフランス、イギリス中心の思想である。
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無知無能な人間が外部に開かれた目的に向かって、ーー何の介入も受けずにーー 努力できることが自由の意味であったが、内なる欲望のままに活動できることが自由の意味にすり替えられた結果、能力を過信した人間が他者の影響を排除しながらやりたいことをやりたいようにやる権利を持っていると"勘違い"人間をたくさん生み出してしまった、、
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間違いを犯したという実に否定的で敗北的な状況が、その間違いを認めたというだけで、その人にとっては魔法のように新たな勝利に変化するという不思議である。
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※激高した労働者が武装蜂起、世界初の労働者政権(パリコミューン)が成立(1871)
人間は集団になると一体感をもち、無意識に同一の方向に動く。個々の人間の性質とは異なる集団の精神が生まれる。大勢の中にいると個人を抑制する責任感が消滅し、本能に負けてしまう。催眠・暗示を受けやすくなる(1-1)。群衆の中の個人はもはや彼自身ではなく、自らの意志で己を導く力を失った自動人形となる。群衆は衝動で動き、昂奮しやすく、他人の言葉を軽率に信じ込み、感情が誇張的で単純、偏狭で横暴。また、個人がなし得るよりも高度の犠牲的な無私無欲な行為も行い得る(1-2)。ギュスターヴ・ル・ボンLe Bon『群衆心理』1895 ※心理学者
◆群衆は国籍・職業・性別を問わない(1-1)。
◆群衆は放任されていても、自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態のほうへ赴く(1-2-4)。
→大衆主導の民主主義への不信。
大衆(的な性質)。個性を持たない。同調しやすい。現状に満足している。責任感がない。わがまま。下品。社会について深く考えない。特別の資質をもたない。平均的な人たち。他の人と同じであることに喜びを見出す。自分の意志をもたず、受動的に行動する。自分の権利を押し通そうとする。こうした大衆(的な性質をもつ人々)がいま最大の権力を握っている。ファシスト党もボリシェヴィキも大衆に支えられている。自分の専門に閉じこもり傲慢で他人の言葉に耳を傾けない専門人(知識人)も「大衆」的な人々▼エリート(的な性質)。良い意味で個性をもつ。行動が自律的。向上心がある。責任感がある。公共の利益を優先。高い品格。社会全体を導こうとする意識。常に自己懐疑を持ち、自分が愚劣に陥る危険性を感じている▼大衆(的な人々)とエリート(的な人々)を分けるのは階級でも財産でもない。オルテガ・イ・ガセットGasset『大衆の反逆』1930
■6世紀にヨーロッパの歴史が始まってから1800年まで、人口はずっと1億8千万以下だったが、1800年から1914年までのわずかな期間で人口は4億6千万に増加した。p.118
■文明の基礎は他人への配慮。共生への意志。他者を考慮しないのは反市民的で野蛮。p.154
革命を目指す人々の心性(集合心性)は何の背景もなく生まれるのではない。その芽生えははるか昔にさかのぼる。領主と農民の対立は、封建制とともに古いものであり、数えきれない農民一揆によって露わにされてきた(p.38)。あらかじめ人々の内に革命的な集合心性が醸成され、それが何かのきっかけに意識の前面に現れる(p.33)。革命的「群衆」の心性は動物性への回帰ではない(p.65; cf.ル=ボン)▼敵対者のイメージは抽象化される。たとえある領主が個人としては穏健で寛大な性格を持っていても、次第に考慮しないようになっていく(p.42)。「典型的領主」は利己的で悪しき意図をもっており、自らの優越性を脅かす一切の改革を妨害する、と農民たちは短絡的に決めつける。なぜなら農民たちがもし自分が領主の立場に立てば、同じように改革を妨害するだろうと疑問の余地なく感じ取っているからだ(p.43)。一方、苦しむ階級についてのイメージは楽天的であり、貧しき者はあらゆる徳を付与される(p.45)。アンリ・ルフェーヴルLefebvre『革命的群衆』1934 ※マルクス主義
※農民の領主への鬱憤はイングランドにもあったのでは? 農民一揆も。
人はみな独りぼっちだと不安を感じる。仲間からの承認がほしい。そこで他人の行動を見て、自分の行動を決めるようになる。常にレーダーを張って、他人の期待や好みに敏感に反応。社会の側が個人に世界への反応の仕方を要求している(社会的性格)▼政治に無関心か、もしくは政治について知識や情報を得ることには熱心であっても、自ら進んで政治に関わろうとしない。傍観者。デイヴィッド・リースマンRiesman『孤独な群衆』1950
自分が権力をもてる&エリートに操作されやすい「大衆社会」△。自分が権力をもてる&エリートに操作されにくい「多元的社会」◎。自分が権力もてない&エリートに操作されやすい「全体主義社会」×。自分が権力もてない&エリートに操作されにくい「共同体社会」。共同体社会では支配層と一般人が隔絶されている。ウィリアム・コーンハウザーKornhauser『大衆社会の政治』1959
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私が在籍する研究室に残された先輩の研究ノートに本書の一節が書かれていたため、手に取ってみた。
彼の言っていることをただ当時の人間に投げかけている言葉だと捉えずに、現代に生きる自分や世間の人間に照らし合わせてみれば、おそらく思い当たる節がいくつも見つかるのではないだろうか。ただ、突然やけに専門的かつ読みにくくなる章があるのでそこについては読み飛ばした。
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和訳がこなれているとはいえ、自分には難しく、読むのに約1ヶ月かかってしまった。
前半は、衆愚化に関する考察が長く、やや退屈であったが、社会や国家に関するくだりを読んで、著者が伝えたいことが、ようやく納得出来た。
国家とは共通の未来を共有するもの、というフレーズが特に印象に残った。
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どうも、この本は「大衆」の存在や生き方を批判した本ではないように感じた。
大衆をキーワードにヨーロッパの歴史の紐解きや社会の在り方を説いた書であるように感じた。
そうだ、社会や歴史に関する本なのだ。この本は。
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この岩波文庫版は、プロローグ及びエピローグが併せ訳されており、著者オルテガが、いかなる時代状況の下で本書を著したかを窺わせるものであり、著者の思想を考える上でも大変参考になる。
また、ご遺族が書かれた「訳者あとがきにかえて」は、訳者の人生を垣間見せてもらったが、母国語以外の著作に翻訳を通して触れる一般読者の胸を、強く打つものである。
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概要
人々は自由主義や産業革命の進展により、歴史的に類を見ない高い生活水準を達成した。しかし、その副作用として、大衆による支配の時代が始まった。大衆は、自らの凡俗さを認めながらも、その凡俗さに安住し、変化への努力を怠る人々である。オルテガは彼らのことを、「満足したきったお坊ちゃん」と称した。また、彼らは、文明の繁栄を享受しながらも、感謝や貢献といった義務を果たすことを考えず、自らの権利だけを主張する。大衆の増殖により、政治が愚鈍で自分勝手な人々によって支配され、イノベーションは衰退する。
このように空虚で中身のない大衆が増えたのは、産業革命や自由・平等主義を背景とした歴史的な生活水準の向上である。今日の人々は、今の時代が歴史の中でも一番優れているという確信に満ちており、過去への尊敬や謙虚さを失った。歴史的に、人間社会は知識の蓄積とその継承によって、発展を遂げた。ニーチェ曰く、超人とは「最も長い記憶を持つもの」である。しかし、過去への謙虚さや憧憬を喪失した現代人は、過去を参照することは無くなった。かくして、現代人は歴史上最も優れていると確信しつつ、根無草のように自分がどこに向かえばいいのか分からない空虚さを抱えることになった。
大衆のもたらす悪影響のうちでも、最も憂慮すべきは政治の支配である。本来、文明とは共生の意志を問うものである。そして、国家は慣習や宗教、言語、血縁では統一できない人々を積極的に組み込んでいこう(連合、植民地化)とする形態である。国家の統一基準は、慣習や法律、宗教などの内部存立要素だけに求めることはできない。理由は二つある。①そもそも画一的に統一されていないこと。②特に経済的関係から、内部存立要素から外れた人々や企業との関わりが必ず生じること。そのため、それらの所与の条件を超えて、外部存立と内部存立双方を達成できる仕組みを構築する必要がある。
このような他者への拡張と共生を究極の目標とした国家や文明の基盤となるのは自由主義デモクラシーである。自由主義デモクラシーは、自分を犠牲にしても自由な空間を残し、権力に抑圧される少数の人々が生きることのできる場所を残すことで、その命題を解決しようと試みてきた。しかし、大衆は自らの利益や快楽のために権利を主張し、他者との共存を排除する野蛮な方向へと向かう。このように、今や全世界を蔓延る大衆の反逆は、多様な人々が共生する社会の実現を不可能へと近づけている。
感想
2年前に読んで途中で挫折してしまったので、再チャレンジをした。
まず感じたのは、これは大衆への全力の悪口本であると言っても過言ではないだろう。オルテガのストレートな批判は、かなり賛否が分かれそうである。今で言うと、ホリエモンにやや近い語り口と思想だと思う。「みんなバカすぎて呆れる」のスタンスである。
オルテガの主張には色々ツッコミどころが多い。そもそも大衆が大衆たる所以を、個人の自堕落へと責任を収斂させていく姿勢はいかなるものか。また、若干ヨーロッパ諸国による他国の支配を正当化する(時代が時代なので仕方がない)論理も鼻につく。
しかし、ここで描かれている大衆の出現の分析は、現代の衆愚政治の問題を考える上で多分に役に立つ。また、本書の要約では取り上げられることが少ないが、オルテガの国家や文明への考え方、そして共生の意志は、グローバル化した世界で一国家としてのスタンスを確定する上でも、一例として非常に参考になるだろう。
個人的には、オルテガの生の哲学、あるべき人間像には共感することが非常に多かった。しかし、そうではない人々を馬鹿にする態度はいただけないし、その性質の形成要因に関する分析は正直甘いと思う。そのため、この本を大衆の出現構造の完全理解を求める目的ではなく、自分なりの卓越した生と反面教師にしたい生を見つけ、自己を啓発する目的で読むのがいいんじゃないかと思う。
卓越した人間とは、自らに困難を課す人である。自らに多くを求める人間である。オルテガは以下のようにいう。
選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務(Noblesse oblige)である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族は秩序と法を希求する」(ゲーテ)。
そのため私たちが今までの体験の中で知り合った、自発的で貴重な努力ができるごく少数の人たちが、孤立した記念碑のように見えてくる。彼らこそ選ばれた人、高貴な人、単なる反応ではなく自分独自の行動ができる人であって、彼らにとって生きるとは永続的な緊張、絶え間のない習練なのである。習練とはすなわち苦行(áskesis)であり、したがって選良・貴族は苦行者なのだ(21)。
(この文だけでも、オルテガのなんだか気取った嫌な感じは伝わるんじゃないかなと思う。私は嫌いじゃないですが笑)
私は卓越した人間は苦行者であるという考え方に賛成だ。努力なしで成功できる人間は天才だけである。苦しい道も自分の卓越性を高めると思ったら、少しでも飯の足しにはなるだろう。
私はこれを読んだ時、ゲーテのファウストを思い出した。ファウストは苦しみながら,目の前の事に使命感を持って取り組んだ。その生き様は、まさに卓越していると言えるだろう。
これに対して、大衆の描き方は笑ってしまうぐらいに酷い。
むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。
ここまでスパッと切り込んで描いてくれると、反面教師にしやすいものである。凡俗....。
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大衆社会論の名著。デモクラシーとテクノロジーの興隆によって誕生した大衆社会は、歴史を顧みず、自己満足した空虚な人々が前面に出てくる社会だ。
大衆とは階級のことではなく、いわば精神の持ちよう。専門家であっても、総合知へ向かわず、対話しないタコツボ知識人であれば、大衆と同じだ。大衆とはいわば甘やかされた子供、「満足しきったお坊ちゃん」である。
そんな大衆が支配する社会はかつてなく野蛮なものだ。発刊から1世紀たってもなお、その指摘は重要だ。特に現代、「1億総発信」の時代だからこそ、大衆への警戒は必要だ。
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1930年にスペインで出版された、当時の政治・社会に占める「大衆」に対する批判本。正直読みにくいし、あまり頭に入って来ない箇所も多いが、本書が単なる大衆批判の裏返しとしてエリートを賛美している訳ではないことが、分かった。むしろ、著者は専門家に無責任という大衆的な要素が蔓延っていることに批判的である。また、進歩史観に否定的な点もポピュリズムによる民主主義の後退が懸念される今日においては示唆的である。
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原著1930年。
このあちこちでやたらと言及される本について、かつて読んだと思っていたが、所有はしていなかったのでこの岩波文庫の「新訳」を購入してみた。が、読んでみると、どうやら読んだことが無かったようだ。何故か読んだと思い込んでいただけらしい。
解説によると著者のオルテガは観念論的な哲学者のようで、社会学者でも歴史学者でもない。本書は本格的哲学のおもかげはなく、多分にエッセイ的な文明批評である。もともとスペインの新聞に連載された文章なので、こういう書き方になったのだろう。
ヨーロッパに台頭し街に溢れかえるようになった「大衆」について、自分だけは正しく、確実であると信じ込んでいて、遠い未来のことについては考えず、モラルも理想も欠如している、とする指摘は、なるほど、現在の日本のヤフーニュースのコメント欄や2ちゃんねるのようなところに巣くっている連中に当てはまるように思えて興味を惹かれた。
しかし、本書は社会学的な確かさを持っていないので、実際にどういう言動が見られたとかいうデータは全然なく、著者のおおざっぱな感想を延々と開陳しているだけである。ヨーロッパの歴史に関する意識も、なんだか思い込みで書いているような気がした。
読み進めていくと、だんだんこの著者が頑迷なオッサンで、巷の若者批判の持論をぐだぐだとまくしたてているように思えてきて、次第にウンザリしてしまった。
哲学者なら、もっと厳密な概念定義を行い、自らの思考をも深く考究していくべきではないのか。
そんな印象が強くなり、面白い読書体験とは感じられずに終わってしまった。