Posted by ブクログ
2021年02月14日
実に多彩な方々との対談集。どなただったか「学生に『穂村弘って知ってる?』と尋ねたら、『ああエッセイストの』と返ってきた」という話をされていたが、これはよくわかる。私も穂村さんのエッセイや書評、短歌の手引き的なものはとても好きで愛読しているが、歌集は手に取ったことがない。穂村さんの短歌って、一読、むむ...続きを読むぅと困惑させられる感じで、うーん、これが今の鋭い短歌なのかと唸るばかり。短歌評なんかだといたってわかりやすくて、短歌を作りたくなってきたりするんだけどな…。
短歌って散文にはない制約があるけれど、俳句ほど切り詰めた表現ではなく、人の喜怒哀楽、人生の様々な場面に寄りそいやすい。また、五七五というリズムの心地よさが私たちにはしみついていて、多くの人が特に教えられなくても短歌的なものをひねり出せるだろう。そうした「新聞歌壇」的なものと、厳しい表現としての短歌とは、地続きではあるけれどかなり距離があるものだなとあらためて思った。
どの対談でもたくさんの短歌が引用されていて楽しい。北村薫さん、三浦しをんさん、保阪正康さんとのお話が、とりわけ興味深かった。ふんふんと読んだ点をいくつか。
・綾辻行人さんがどれだけ殺人を書いても、彼が殺人鬼だとは誰も思わない。「北の宿から」の歌詞を書いた阿久悠さんがセーターを編んだとも思わない。「そういう現象があらゆる表現において存在するのに、なぜか短歌だけが、そこに等身大性を見られてしまう」とあるが、確かにそうだ。これは古代和歌においても顕著で、歌から実人生を読み取ろうとしてしまうけど(たとえば額田王とか)、よく考えればヘンな話だ。でもなんかこう短歌には、リアルな息遣いを求めたくなるところがあるように思う。
・「ある時期までは、散文のなかにも韻文的な感受性があったと思うんです。つまり読者に”だけ”向けて書いているのではないという感覚。」「韻文は、まず神様に向けて書くということが前提になっていた。そうした芸術の在り方が、ユーザー第一という資本主義の精度が上がったことによって抹殺されつつある」
いつ頃からか、文学作品もまず商品としての側面が前面に出てきて、読者というよりユーザーとしてのレビューがあふれていると感じるようになった。資本主義が行き詰まっているかどうかはわからないが、あまねく行き渡っているのは間違いない。
・相変わらずしをんさんは面白くて鋭い。
穂村「短歌は、『二の線』を要求してくる表現だから」
三浦「確かに、普段だったら言えないようなことを、みなさん滔々と歌い上げていますものね。一方、小説の場合は、この線がキツイと『中二病』などと言われてしまう」
穂村「僕は『そんな言葉ができる前からそうだった!』といった自負を持っていますよ」
三浦「人類が永遠に罹患する病ですよね。その味わいがなくなったら、創作物はとてもつまらなくなってしまいます」
穂村「せっかく読むなら、抑制が効いているものより、恥ずかしいことを書いているものを読みたいですよね。与謝野晶子や若山牧水を見よ!ですよ。近代歌人の『我に返らなさ』加減は本当にすごいですから」
・短歌を詠むときは、無意識に自分の中の一番いいところを出そうとする気がする。
「短歌は『一瞬』の表現です。ごく短い瞬間であれば、良いことを書こうと思えば書ける」「だから僕は、意識レベルにおいては、ずっと良いイメージを浮かべながら歌を詠んでいるのです」とあってすごく納得。ナルシスティックだったり青春ドラマの主人公みたいだったり、「そういうメンタルがない人は、そもそも短歌の世界に入ってこないでしょうね」というのも本当にそうだと思う。
・詩人の文月悠光さんが、自分のエッセイに対する読者の反応にとまどったという話をしている。セクハラにあったことを書いたら「セクハラ相談室に行けば?」というような感想をもらうこともあったと。穂村さんが「本来、『表現』というものは、『私はこういう体験をしました』という個別性・現実性を、もっと大きな、本質的なものへと変換する行為なわけでしょう?それをまた元の個別性・現実性へと引き降ろしてどうこう言うのは、僕は最悪の反応だと思うんですけどね」と言っていて、背筋がヒヤッとした。思い当たることが多々あって、実に痛い指摘であります。