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Posted by ブクログ
著者のエッセイや書評を読むと、本が付箋だらけになる。今回一番、ああそうだそうだよ、あの感覚は言葉にすればこういうことだったんだ!と思ったのは、次のくだり。
「『おれは鉄平』を読んでいると、座禅や瞑想をしている時よりも(したことないけど)自分の心が無になっているような気がする。純粋な面白さの中に〈私〉が溶けてしまった感覚である」
そう、夢中で本を読んでいるときって、「私」は「溶けて」しまっていて、四六時中自分にべったりと張り付いている自意識から解放されている。本を読まずにいられないのには、その快感を求めているという面が確かにある。
また、「命や神の問題は、本当は人間にとっての最大の関心事なのだ。でも、とても歯が立たない。だから大人になるにつれて、人は恋愛や仕事やスポーツや料理や旅や洋服に関心を移す」とあるが、ここまではまあ誰かが言っていそうなことではある。しかしその後の言葉「それらを鏡のように使って、命や神の姿をうっすらと映すのだ」には参った。人の営みの本質をこんな軽やかに言い表しているものって、他にもあるのだろうか。
自分はファンシーなものが苦手なのだが、言われてみれば、このように感じるからなのかもしれない。
「子供向けのイラストレーションやぬいぐるみなどの多くは、実物よりも可愛くデフォルメされる。可愛いデフォルメとは、つまり死の隠蔽ではないのか。生物は皆、次の瞬間にまったく無根拠な死に襲われる可能性がある。にも拘わらず、それがないことにされるようで落ち着かない」
著者は現実には著名な歌人で、著書もたくさんある。でもなぜか、「不器用で繊細」「孤独」の側の人のように感じさせるものがある。そこが不思議。以下はすべて抜き書き。
・実際には、お洒落でお金持ちの歌人だっているはずだが、そのような〈私〉が作中にそのまま現れることはまずない。順風満帆な人生の勝者は共感されにくいからだ。従って、短歌の本を読むことには、不器用で繊細な負け犬の呟きを楽しむ、という一面がある。
・「人魚」(染野太郎、角川書店)という歌集を読んだ。頁を開くと、孤独と焦燥と無力を感じさせる独白世界が広がっていた。でも、というか、だからこそ楽しめた。他人の孤独感を味わうと、心が安らぐのは何故だろう。
・「ふつう」との戦いは「悪」との戦いよりもずっと厳しい。「ふつう」との戦いにおいては、いつの間にか、こちらが「悪」にされてしまうからだ。
・そもそも「ふつう」からズレた世界像とは、何のために存在するのだろう。それは無数に分岐する未来の可能性に、我々が種として対応するための準備ではないか。「ふつう」でない世界像の持ち主は「宇宙人」というよりは「未来人」なのだ。一方、「ふつう」への同調圧力とは、均一化された現在への過剰適応であり、状況がいい時は効率的に作用する。しかし、状況が変化したり、限界に達したりした時、危険なことになる。現在の流れに固執して生き延びようとする「ふつう」は、まだ見ぬ未来の価値観を怖れ、生理的に強く反発する。そして、自分たちの未来の命綱を自らの手で切ろうとするのだ。
・(ヒグチユウコ「すきになったら」について)「この言葉からは、女の子がワニに食べられるイメージが浮かぶ。では、これは愛に対するアイロニーなのか。そうではないだろう。好きになる、ということの中に本質的に存在する怖さが、正確に表現されているのだ。
・(松本清張を風邪の時読んで)「性悪説で統一された世界に浸っていると心が落ち着く。登場人物たちが自らの欲望に従って動いているのを見るとほっとする。彼らの中に善悪が不安定に同居していたら、その生々しいランダム感に堪えられない。体調の悪い時に、そういうのは読みたくない。現実の感触を思い出すから。その意味では、松本清張の世界がリアルという意見には賛成できない。
・ジャンルを問わず、ひとつの枠組みを前提として受け入れた表現は、内容が優良であればあるほど既存の価値観を強化するだけで、なんというか、面白いけど退屈ということがあるんじゃないか。
Posted by ブクログ
読書日記やガイドブックや書評本を読む時、まず目次からわくわくする。
どんな本を読んでいるのかな?
私が読んだ本はどう紹介されているかな?
今回、目次を見て、あまりの既読本の少なさに驚愕した。
歌人である彼が歌集とか句集とか詩集を紹介するのは当然で、この辺は想定内。
日本の近代文学もほぼ読んでいないので、ここも想定内。
だけど、ニアミスに愕然としてしまったのだ。
「そっちか…」
例えば花輪和一だとしたら、普通は『刑務所の中』だろう。
もちろん私もこちらは読んだ。
だけど、穂村弘が紹介するのは『刑務所の前』の方なのだ。
あづまひでおの『失踪日記』(読んだ)ではなく、『失踪日記2』の方なのだ。
読み込みの浅さが悔やまれる。
既読本だとしても、油断はできない。
高野文子の『ドミトリーともきんす』を、私は科学者の目から見た現実世界の興味深さが面白くて、文系の人も面白く読める理系本のブックガイドとしても重宝しているのだけど、穂村弘のこの本の興味はそんなところにはない。
”それは普段は小説しか読まない人が詩を読む時の感覚に似ていると思う。同じ日本語で書かれているのに、文字の量、意味の密度、言葉と言葉の結びつき方、改行の意図などのルールが小説とは違っていて、磁石を持たずに別世界に迷い込んだ感じがするだろう。戸惑いと緊張を覚えずにいられないのだ。”
それ、私のことですか?というのはおいといて、高野文子の作品を読む時にそのような新鮮な感覚を覚えるというのだ。
同じ本を読んでも、感じる部分が違う。捉え方が違う。
だから面白いのだ、この手の本は。
穂村弘の読書日記をもっと面白く読むためには、私がより詩に俳句に短歌に近づけばよいということがわかった。
…ハードル高いな。
直接この本の感想ではないけれど、阿久悠の『なぜか売れなかったぼくの愛しい歌』の引用から。
”蒸気機関車を、日本を豊かにするために汗みどろで働いた男たちだと考えるとよくわかるだろう。その人たちが、はいご苦労さまで捨てられていいわけがない。
汗をかかない、走らない、力を出さない、汚れない、これだけを求める人間がすべての社会が、活力を発するわけがないのである。不細工に、不細工に、働くとは、生きるとは、そういうことなのである。”
何十年も前から職場で進められてきた、効率化という名前のリストラ。
最近では生活のすべてに、無駄を排し、コスパやタイパを重視し、余白を切り捨ててきた結果が、日本の現状なのだと思う。
あんまりキリキリ絞り切ったら、いざという時の余力がなくなるのでは?と以前から私は思っていたけど(職場でも言ってるけど)、いざという時の余力どころか、今は必要最低限の力すら残っていないのではないかというくらい青息吐息の現実。
無駄は嫌いだけど、余裕がないのも嫌だ。
ほどほどの余裕の中で締めたり緩めたりを自分の判断でできないで、何が一流国だろう。
そして、過去の経緯を大事にしない者は、未来からも受け入れられないのだと思う。
勝ち組のつもりで上へ上へ登ったその足は、今何かを踏みしめているのだろうか。
ってなことを、阿久悠の文を読んで思ったりしたのだけど、それにしても阿久悠、文章下手すぎないか?
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