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生前一枚しか絵が売れず、三七歳で自殺したフィンセント・ファン・ゴッホ。彼は本当に狂気の人だったのか? その死の真相は? アート小説の第一人者である著者が世界的謎を追う。フランス各地に残されたゴッホのあしあとを辿り、努力家でインテリ、日本に憧れ続けた「人間・ゴッホ」の魅力を再発見。旅のお供にも最適な名解説。
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Posted by ブクログ
659円 129P 林忠正、ゴッホ他殺説、 原田 マハ (はらだ まは、女性、1962年〈昭和37年〉7月14日 - )は、日本の小説家、キュレーター、カルチャー・エッセイスト。東京都小平市生まれ。小学6年生から高校卒業まで岡山県岡山市育ち。岡山市立三門小学校、岡山市立石井中学校、山陽女子高等...続きを読む学校、関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術専修卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年にフリーのキュレーターとして独立[1]。ペンネームはフランシスコ・ゴヤの「着衣のマハ」「裸のマハ」に由来する。兄は、作家、エッセイストの原田宗典。兄から読書傾向の影響を受けた[2]。 2003年にカルチャーライターとして執筆活動を開始し、2005年には共著で『ソウルジョブ』上梓。そして同年、『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞、特典として映画化される。mahaの名でケータイ小説も執筆する。キュレーターの経歴とも相まって、美術を題材とした作品が多い。 2022年7月、原田が発起人のひとりとなり、食のセレクトショップ「YOLOs(よろず)」を京都市中京区にオープン[3]。実店舗開店に先立ち、7月1日からnoteにて食に関するエッセイ『やっぱりあれ食べよう。』連載開始。 2026年4月、立命館大学客員教授に就任[4]。 2027年1月公開予定の映画『無用の人』で監督デビューする[5]。 「それにゴッホのことを書くのは、非常に危険な感じがしました。つねに枕詞のようについてまわるのが「狂気と情熱の画家」というフレーズです。そればかりが前面に出てしまい、ゴッホのもっている誠実さ、繊細さはあまりフィーチャーされていません。絵そのものよりも、「心を病んで耳を切って自殺した人だよね」という、とても短絡的なイメージが先行しています。 題材として難しい対象で、一筋縄ではいかない。とりわけ日本にはゴッホのファンが多いので、下手なことを書くわけにもいきません。 ですから自分が小説の中で描きたい画家のターゲットリストから、一〇年くらいは外れていました。ルソーについては二五年間考え続けて二〇一二年に『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を書き、ピカソも三〇年間考え続けて二〇一六年に『暗幕のゲルニカ』(新潮社)を書きましたが、ゴッホのことはそこまで意識していませんでした。一種の偏愛とは異なり、書こうとして書いたわけではない。突発的だった。それが正直なところです。 けれども、目を背けていながら実は心惹かれている。そういうふうに思う日本のファンが実はたくさんいるのではないかな、とも思っていました。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「子どもの頃、パブロ・ピカソの絵は大好きで、「私の友だち」であると身近に感じていました。それに比べてゴッホの絵が教科書や美術全集に出てくると、「怖い!」という恐怖心すら抱きました。あまりにも表現が激しくて、また感情的に見えて、絵が下手なのではないかとまで思っていました。 印象派や後期印象派の画家たちは、あえて絶妙に均衡をズラし、セザンヌ(一八三九 ~一九〇六年)はゆがんだリンゴを描いているのですが、私から見たら、「リンゴすら、ちゃんと描けない。何て下手なんだ。あたしの方がずっと上手い!」と。いま考えると、とんでもない子どもですが。 当然、ピカソの絵だって下手だと思い続けてきました。大人になってから、「いやいや、違う。上手いじゃないか」と、多様性をもった画家の才能に気づき、自分から近づいていきましたが、ゴッホにはそういう機会がありませんでした。 ですからゴッホの絵は、美術館や展覧会で並んでいても、ずっと眺めていたいと思うような類の絵ではなく、立ち止まりたくない、近寄るのも怖いと思っていました。迫力、パッションが、ガンガン迫ってくる。その存在感を、ストレートに受け止めていたのだと思います。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「そもそも、何故日本人はゴッホが好きなのか。何故そこまで印象派や後期印象派、一九世紀末から二〇世紀初頭のモダンアートの黎明期の作品に、心惹かれるのか。昔から私の中で大きな疑問でした。それが、私が小説『たゆたえども沈まず』を書こうと思った原点です。 当時の画家たちの絵は世界中の人たちから愛されているけれど、特に日本人は大好きですね。私自身も好きだから、モネ(一八四〇~一九二六年)やセザンヌについても、ピカソやルソーについても、小説に書いてきました。そこまで好きな理由を掘り下げてみたい。その源流に何があるのか。そこから小説を書いてみたいと思ったのです。 浮世絵を含む日本美術が、印象派や後期印象派の画家たちに大きな影響を与え、やがて現代アート誕生の源になったことは、よく知られています。つまり日本美術の DNAを、画家たちが受け継ぎ、作品へと昇華したのです。同じものが体内に流れているのですから、なるほど好きにならずにはいられないわけです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「二〇一七年一〇月、『たゆたえども沈まず』の小説が書き上がり、私はもう一度ゴッホの巡礼の旅に出かけました。ゆかりの土地をあちこち歩き、ゴッホ兄弟と林忠正(一八五三 ~一九〇六年)の魂に、「小説ができましたよ!」と話しかけながら。 本が出版される前の見本を手に持ち歩き、行った先々で一人朗読しました。周りの人たちは「何を読んでいるんだろう?」と、きっと不思議に思ったことでしょう。私としては至って真面目で、「一人の日本人が小説を書いて、ここまで来ました」という思いで、ゴッホの魂に向かって私の書いた物語を読ませていただきました。 そうしてようやく一冊の本が、同年一〇月二五日に、この世に生を享けました。この本がゴッホの魂、林忠正の魂に届いたらいいな、と思いました。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 日本とゴッホは相思相愛です。日本に、そしてパリに憧れ続けたゴッホ。誰にも受け入れられずに失意のうちに亡くなった。孤独と戦い苦労の絶えない人生だったかもしれないけれど、結果的に、あなたはこれほどパリにも日本にも受け入れられている。片思いではないのです。「私たちは両思いなんだよ」ということを、ゴッホに伝えたい。 そして後世の画家たちに影響を与え、彼の DNAが今もって地球のあちこちで受け継がれていることが、最大の贈り物だと思います。 だから私は幸せな結末だとあえていいたい。死んでしまったのだから終わりだとは思いたくない。彼は死んだのではなく、むしろ永遠の命を与えられたのです。傑作は永遠の命を生きるもの。それがアートの力だと思います。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「一八五三年三月三〇日 オランダ ズンデルトに生まれる ↓一八六九年七月 ~一八七六年四月(一六 ~二三歳)ハーグ、ロンドン、パリ グーピル画廊で働く ↓一八七六年四月 ~一八八〇年八月(二三 ~二七歳)イギリス、オランダ、ベルギー 伝道師を志す ↓一八八〇年八月(二七歳)美術に人生を捧げる決心をする ↓一八八〇年八月 ~一八八六年二月(二七 ~三二歳)オランダ、ベルギー 画作を続ける ↓一八八六年二月 ~一八八八年二月(三二 ~三四歳)パリ ↓一八八八年二月 ~一八八九年五月(三四 ~三六歳)アルル ↓一八八九年五月 ~一八九〇年五月(三六 ~三七歳)サン =レミ =ド =プロヴァンス ↓一八九〇年五 ~七月(三七歳)パリ、オーヴェル =シュル =オワーズ一八九〇年七月二九日 オーヴェル =シュル =オワーズにて永眠」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「子どもの頃のゴッホは癇癪もちで、兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていたそうです。親に無断で遠出することも多く、一日中、花や昆虫や鳥を観察していたといいます。一八八三年に弟のテオ(テオドルス・ファン・ゴッホ。第二章の『弟・テオの存在』参照)に宛てた手紙には、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いています。 オランダやイギリス、ベルギー、一時期パリに住んだこともあるのですが、三二歳でパリに出てくるまでは職も住む場所も転々としながら、一カ所に留まらない生活が続きます。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「一六歳のゴッホは、画商の叔父の紹介で、老舗の画廊・グーピル商会に就職します。父の薄給を知り、それならば他の職業に就くべきだという気持ちがあったのかもしれません。職業柄、多くの美術作品に触れる機会があり、その頃から少しずつ絵を描いていたようですが、プロの画家になるなど想像すらしなかったと思います。 オランダのハーグ支店勤務中は、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラント(一六〇六 ~六九年)やフェルメール(一六三二 ~七五年)などのオランダ黄金時代の絵画に触れ、美術に興味をもつようになったといいます。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴッホは社会主義者、あるいは共産主義者だった、という記録は残っていません。しかし、社会全体を等しく受け止め、諸処の問題を解決したいという願望はあったようです。ですから恵まれない人々のために働き、聖書の教えを説くといった行為が、その後の進路と直結していったようにも思えます。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「いろいろな職を転々とし、社会の底辺にいる人たちと向き合い、聖職者の道に就こうと勉強もしたけれど、長続きしませんでした。思慮深い彼の精神状態は、どちらかといえばメランコリックな方向に転び、厭世観にとらわれやすい。鬱々とした天気が続くヨーロッパ北部で過ごした幼少期と青春時代が影響しているのでしょうか。その性格は、ゴッホにも、弟のテオにも同様に見られます。 この頃からゴッホは、テオに生活資金のサポートを受けるようになります。周辺のスケッチを重ねるうちに絵を描きたいという気持ちが高まり、二七歳のとき、いよいよ画家を志します。テオのすすめで、オランダの画家ウィレム・ルーロフス(一八二二 ~九七年)のもとで絵を学んだり、ブリュッセル王立美術アカデミーに入学したりもしています。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「その頃の絵を見てみましょう。一八八五年に描かれた《じゃがいもを食べる人々》は、三二歳のときの作品です。初期の代表作ですが、ずいぶん暗い絵ですね。《ひまわり》を描いたゴッホのイメージとは全然違います。登場人物も、誰一人として笑っていません。同じ年に描かれた《籠いっぱいのじゃがいも》の絵はさらに暗くて、じゃがいもを食べる人間すらいない。じゃがいもオンリーです。セザンヌだったらリンゴを描いたのでしょうけれども、リンゴと比べてもじゃがいもは相当地味。きっと自分の周辺で描きやすいモチーフを探したら、じゃがいもぐらいしかなかったのではないでしょうか。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「まずは写実主義の画家たち。「見たこともない女神や天使を描くのではなく、自分の目で見ている現実のものをモチーフとして描こう」という気運が生まれ、新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会の現実をありのまま描こうとしました。カミーユ・コロー(一七九六 ~一八七五年)、オノレ・ドーミエ(一八〇八 ~七九年)、ジャン・フランソワ・ミレー(一八一四 ~七五年)、ギュスターヴ・クールベ(一八一九 ~七七年)などの画家たちです。 特に一八三〇~七〇年頃、フランスのバルビゾンに集い、自然主義的な風景画や農民画を描いていた「バルビゾン派」の画家たちがいます。コロー、ミレー、シャルル =フランソワ・ドービニー(一八一七 ~七八年)などの名前が挙げられます。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴッホの初期の作品には、そのような力はまだ備わっていません。 ところが、この絵がガラッと変わります。その変化には、パリ、そして日本美術が影響を与えました。 ゴッホがいかにして日本を受容してきたかについて、お話ししたいと思います。 ゴッホがパリに来る以前から、日本の浮世絵は少しずつ知られていましたので、どこかで接触していた可能性は否めません。しかし、ゴッホが本格的に日本美術を受容するに至ったのは、一八八六年二月、ゴッホ三二歳。画商をしていた弟のテオを頼ってパリへ来たのがきっかけでした。 一八八六年は決定的な年です。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴッホは画塾にも一時期、籍を置き、いろいろなアーティストたちと出会い、画材屋兼画商を営んでいたタンギー爺さんの店(第五章の『 ①パリ』参照)にも出入りして、多くの刺激を受けて変わっていきました。とにかく学びたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。彼にとってパリは運命的な街でした。 一八八六年当時のパリでは、ルノワール、モネ、ピサロといったそれまでの印象派の画家とは異なり、純色の微細な点を敷き詰めて表現するスーラ(一八五九 ~九一年)、シニャック(一八六三 ~一九三五年)などの新印象派や、分割主義と呼ばれる一派が台頭していました。この年開かれた第八回印象派展は、こういった新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了したのです。 新しいものをどんどん取り入れようとする印象派、新印象派の画家たちに交じって、ゴッホ兄弟は今までに見たこともない浮世絵という日本美術に夢中になります。浮世絵は、その頃まだ買えないほどの高値ではありませんでした。テオはグーピル商会からもらった給料で、浮世絵を多少集めたそうですが、そのうちだんだん価格が高騰し、買えなくなってきたのではないかと思います。 浮世絵をコレクションした結果、ゴッホの作風に大きな変化が訪れます。日本美術に影響を受けた作品が現れ、ジャポニスム(日本趣味)の作風が前面に出てきます。 どのくらい変わったのか、お見せしたいと思います。 本当に「何があったんですか?」と聞きたくなるくらいの変貌ぶりです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 私も子どもの頃は、永谷園のお茶づけ海苔の袋の中にオマケとして入っているカードを集めていたものです。浮世絵はポスターをはじめさまざまなモチーフやアイコンにも使われ、東京の神保町には浮世絵専門店が複数あり、目にする機会の多い日本美術です。今の私たち日本人が見ても、別段に変わった絵だとも思いません。「ああ、北斎だ」「写楽だね」と思うくらいです。 しかし一八七〇年代の、西洋のアカデミズムの美術ルールに則った作品に慣れ親しんだヨーロッパの人たちにとって、浮世絵は驚きに満ちていました。全く見たことのないものを見たわけですから、さぞかし驚いたのではないかと思います。 画家たちは、新しいもの、誰も見たことがないもの、ブームになっているものを探し出し、果敢に自分たちの作風に取り入れていきます。特に日本美術の新しさに敏感に反応しました。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「例えばモネは、初期作品《ラ・ジャポネーズ》(一八七六年)の中で、着物を身にまとい、扇を持ってポーズをとるモデルの女性を描いています。この頃「ジャポニスム・ファッション」という名称で、パリの女性たちは日本風の装いを好み、デザイナーたちも和装のニュアンスを取り入れ、着物風コートなどをデザインし、大流行します。オペラ座に行くと、ご婦人たちが和装に似たドレスを着て、扇子で優雅に扇いでいる姿が見られました。 少し時代が下がって、皆さんよくご存知のオーストリアの画家、グスタフ・クリムト(一八六二 ~一九一八年)の《接吻》(一九〇七~〇八年)。日本美術の影響を受けており、金箔の使い方、艶やかな着物は、日本の能装束からインスピレーションを得たといわれています。男女が一体化した平面的な構成も、いかにも日本的です。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 こんなにも日本美術を愛していたゴッホ。 一方で日本からゴッホにも、熱烈なラブコールが送られていました。 私たち日本人の「ゴッホ愛」が、そもそもどこからはじまったのか。その萌芽につながる話です。 ゴッホが亡くなるのが一八九〇年。それから二〇年後くらい、さほど時をおかずして、日本でゴッホの作品が紹介されます。最初に紹介したのが、一九一〇年創刊の『白樺』という同人誌です。 白樺派には、評論家の柳宗悦(一八八九 ~一九六一年)、美術史家の児島喜久雄(一八八七 ~一九五〇年)、作家の武者小路実篤(一八八五 ~一九七六年)、岸田劉生(一八九一 ~一九二九年)のような画家たち、他にも詩人やバーナード・リーチ(一八八七 ~一九七九年)のような陶芸家も参加していました。 今改めて見ても、日本の芸術界の重鎮だらけのメンバーですが、当時は何か新しいことをやってみたくてうずうずしている、前衛的な集団でした。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 新しいものをつねに探していたこの白樺派の面々の中には、裕福なメンバーも多く、実際に海外に行き、新しい芸術の動向を取材し、それを日本に持ち帰って紹介していました。今から一〇〇年ほど前に海外に行けるのは、相当なブルジョアですね。 有名な話ですが、白樺派のメンバーはオーギュスト・ロダン(一八四〇~一九一七年)に惚れ込んでいました。アメリカの雑誌でロダンの彫刻を見た志賀直哉(一八八三 ~一九七一年)は、ロダンの彫刻に魅了され、ファンレターを書きました。そのとき、フランスの前衛美術家たちが日本美術を愛好している状況を知り、浮世絵も一緒に同封したそうです。それをロダンが受け取り、「日本から何という熱烈な手紙が来たんだ!」と感動し、あまりの嬉しさにお返しとして自作の小さなマケット三点を送ったというのです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「万博は、世界各国の産業の見本市です。各国が「我が国のイチオシはこれだ!」という産業や物産を展示し、世界へアピールしました。ところが日本は鎖国をしていたので、海外にアピールすべき産業が何もありませんでした。何を見せたらよいか。そこで考えたのが美術工芸品でした。日本はこの美術工芸品を引っ提げて、一八六七年のパリ万博に初登場しました。一八七八年のパリ万博で二度目の登場をしたときも、やはり美術工芸品がメインでした。 そういうわけで、パリ万博で日本美術がはじめて西洋人に披露されることになりました。これを見た西洋人たちはあっと驚かされました。またたくまに魅了され、ついに日本ブームが到来します。これが「ジャポニスム」といわれる一連のムーブメントです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「日本ブームの最初の契機はパリ万博。それが大河の一滴でした。 そこにはきっと、日本美術を、西洋のマーケットに紹介した人物がいたのではないでしょうか。私なりに調べてみたところ、「これは」という人物を見出しました。林忠正(一八五三 ~一九〇六年)です。日本でもあまり存在は知られていません。私も長らく知りませんでした。 この林忠正という人は、一八七八年の三回目のパリ万博に通訳として渡仏し、そのままパリに定住しました。 もともと富山県の高岡市出身。一八五三年、医者の家(長崎家)の次男として生まれたのですが、大従兄の富山藩士・林家に跡継ぎの男子がおらず、そこに養子に出されます。 一八六八年に明治政府が樹立され、忠正は秀才だったことから、富山藩から送り込まれて、のちの東京大学の前身となる学校に入学し、そこでフランス語を勉強しました。ナポレオンに憧れてフランスに行きたいという夢を見ていたそうです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「一八八四年に仲間と一緒に美術商「若井・林商会」を立ち上げ、パリに初出店します。その後、一八八六年に独立して「林商店」を開きました。日本からたくさんの美術品を仕入れてヨーロッパで売り、多くの芸術家やコレクターたちと交流し、一時代を築いた人物です。孤軍奮闘して日本美術の正当な価値を西洋社会に認めさせた人物として、研究者のあいだでは「ジャポニスムの陰の立役者」とも称されています。 林忠正はパリで一定の成功をおさめたあと、一八九〇年頃から自らのコレクションをスタート。自分で印象派やモダンアートの作品を購入し、四〇代で五〇〇点もの作品を持ち帰り、日本に美術館をつくろうと考えていました。 しかし、林忠正を迎えた日本の人たちは、こういいました。「お前は国賊だ。日本の大切な美術品を、海外に流出させたひどい奴だ」 彼は五二歳で失意のうちに亡くなります。コレクションは売却されて散逸してしまいました。 私はこの林忠正の生涯を、掘り起こしてみたいと思いました。そして、西洋のマーケットに日本美術を提供してひいてはモダンアートに影響を与えた日本人が存在したことを、もっと私たちは知るべきだと感じはじめました。 それが小説『たゆたえども沈まず』の出発点でした。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 ゴッホも華やかなパリに出て、多くの人と知り合いになり、仲間もでき、夜な夜な酒を飲んで騒いだりして、賑やかに楽しく毎日を過ごしていた。ついにパリに出てきた、という高揚感もあったことでしょう。 ところがパリの容赦のないところは、受け入れたと見せかけて、実のところ扉を開けていない。「え? 勘違いだったの?」「実は入り込めてないんだ」という寂しさに気づくのです。 豪華なサロンに集うブルジョアがいる一方、ゴッホもパリには行ったものの、結局、底辺をさまよう生活しかできない。出入りするのは、娼婦がたむろする場末のバーやカフェ。どんなに頑張って絵を描いても売れない。展覧会もできない。誰にも受け入れられない。「いったい、この街は、何なんだ?」 そういう疑念にとらわれたと思うのです。 もしかしたら、自分は拒否されているのかもしれない。あるとき独り相撲を取っているような気持ちになったのかもしれません。絵が売れて収入を得て生活が成り立てば、パリで画家として自立したという自負も生まれます。けれども全然自立できない。誰も見てくれない。それは、私自身が小説家として共感する点です。小説も同じで、苦労して書き上げても読者がいなければ小説とは呼べない。読者に届けられなければ、独り言で終わってしまうのです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「「そうじゃない。時代が変わりつつあり、アーティストの自己表現を受け止める人たちが出てきている。その人たちに向かって、自分の声で叫べばいい。だから兄の道は正しい。この先じっと待っていれば、必ず彼の表現を受け止める人が出てくるはずだ」 そう思っていたのかもしれません。 二人は戦い、血を流し合っていました。けれども心の奥底では、お互いを分身のように思うほど深く結びついていました。ゴッホが個性を研ぎ澄ませるほど、狂気を孕んだように情熱的な絵になっていきます。その個性こそが新時代の窓になるようなものでした。 美術が自己表現へと変わっていく過渡期でした。その過渡期のジレンマに、二人は陥っていたようにも感じます。 自分の描く絵を、届けるべき相手にテオが届けてくれない。パリにいて、彼らはよく衝突しました。こんなに近くにいるのに、なかなか意思の疎通ができない。そういう難しい時期を迎えます。 ゴッホは疎外感を覚え、パリに居場所を失い、絶望しはじめます。 一緒に暮らしていたテオも、画家としての兄を支えたい、そして彼の才能を信じたいと思う反面、一文も稼がず、経済的にも精神的にもテオに寄りかかり続ける兄を、少しずつ重荷に感じていました。分かちがたい一つの魂として二人が寄り添い続けたのも事実ですが、二人のあいだに何度も諍いが生じていました。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴッホに比べると、ルソーははるかに大胆で、セーヌ川に、エッフェル塔。バカにされてもへっちゃら。直球で描いています。きっと、「おお、セーヌ、美しい! 一番美しい君を描くよ」などといいながら。「アンタなんかあっち行ってよ!」といわれても全然気にしない。それがルソーの良いところです。 ゴッホは生真面目すぎて、パリという世界の中心に受け入れられない劣等感に苛まれていたと思います。最後まで彼はパリのアウトサイダーでした。 でも本当は、正面きってセーヌを描きたかったのです。 小説の中で、ゴッホが「黄色いセーヌ」を描こうとするシーンをフィクションで書きました。ポン =ヌフの真ん中にイーゼルを立てて絵筆を持つと警官がやってくる。次の日も、その次の日も……。セーヌに拒絶された、そんな気がしたゴッホの姿です。 ゴッホが何故アルルへ旅立ったのか。自分だけのユートピア、日本を探しに行った。でも本当は、そのユートピアをパリで見つけたかったのです。けれどパリとはちゃんと向き合えない。世界の中心と自分がまっすぐ向き合えないという絶望に、とらわれていたのかもしれません。 彼はパリへの気持ちを日本に転化していたのではないか。ひょっとしたら日本に行きさえすれば、世界の中心と向き合えると思っていたのではないか、と私には思えました。 そしてゴッホは、世界の中心と向き合うために、アルルへと旅立ったのです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴーギャンは、若い頃は水夫として世界の海を巡り、株の仲買人として働き、実業家として成功し、絵画の売買までして、余暇に絵を描くような人物でした。一八八二年にパリの株式市場が大暴落し、絵を本業としてから、その後も苦労はしていますが、基本的には計算高い人物だと思います。 アウトサイダーである自分を演じていました。そもそもゴーギャンはパリ生まれで、三歳でペルーへ行き、七歳でまたパリへ戻ります。パリ生まれのパリ育ち。成功体験もあるので、お金がどう流れるか、よくわかっていました。ゴッホなんて、ひよっこすぎて、全然相手にならない。 いろいろなことが見えていて、破天荒なことをやってみせ、自分の個性をつくり上げ、役者として演じきり、最後はタヒチに行って人生を締めくくったという、タフで特殊な人だと思います。 純粋に、パリじゃないところに自分を置いてみたかった。また、ゴーギャンのみならず、都会の人たちはエキゾチシズムへの憧れが強く、特に芸術家たちは異国情緒あふれる画題を求め、体験したことのないものに対する憧れを強く抱いていました。そのパリではないどこかを、ゴーギャンはここアルルで、のびのびとやってみせました。 しかし、ゴッホとゴーギャンの共同生活はわずか二カ月で破綻します。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「パリからアルルへ、そしてサン =レミへ。都落ちのさらに都落ち。落ちていった先で、たった一人イーゼルと絵の具を抱えて門をくぐったとき、自分を迎え入れてくれたのがこのアイリスだった。アイリスと心を通わせたからこそ、この美しい作品が描けたのではないかと思いました。 私が最初にサン =レミを訪れたときは、こんな寂しいところにたった一人で来て、ゴッホはどれほど打ちひしがれたことだろうと、胸が締めつけられる思いがしました。 けれども二度目に訪れたときは、あの《アイリス》の絵は、異常な力をもっていると気づきました。明るい光を感じる絵です。後ろ向きの気持ちでは描けない。絵が描けることにどこまでも光と希望を見出していた。だからこそ、「ようこそ」と迎えてくれたアイリスの花々をあんなに美しく描けたのではないでしょうか。 サン =レミで描かれた絵は、総じてあまり深い孤独を感じません。アルルの方がはるかに孤独です。サン =レミの絵は、一皮剝けている感じがします。テオにどんどん手紙を書いているし、絵もほとんど毎日描いている。あえて裸一貫になり、そこで何ができるかを探ろうとしている。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「 ゴッホの死を巡っては諸説あります。 数年前にアメリカで『ファン・ゴッホの生涯』(翻訳本は上下巻、国書刊行会、二〇一六年)という評伝が出版され、新説の「ゴッホ他殺説」が衝撃を与えました。筆者のスティーヴン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミスのコンビはピューリッツア賞を受賞しています。アニメーション映画『ゴッホ最期の手紙』も、現代美術家、ジュリアン・シュナーベルが監督を務めた『永遠の門 ゴッホの見た未来』というゴッホの映画も、他殺説を採用しています。 他殺説というのはこうです。日頃からゴッホをいじめていた子どもたちが、カラスを脅かすための空砲を持ち出し、半分ジョークでゴッホに突きつけてきました。ゴッホも空砲だと思ったから「やれるものならやってみろ」といい返したら、弾が入っていて、思いがけず撃たれてしまった──という説です。 個人的には、他殺説はないと思っています。ゴッホ財団も他殺説を認めていません。もちろん本当のところなど誰にもわからないし、仮説を立てることで新しい解釈が広がることがあるのかもしれません。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 「ゴッホはインテリで、語学の才もあり、ラテン語にも精通していたということです。小説の中でも、耳切り事件のあと、病床で、「 Fluctuat nec mergitur(たゆたえども沈まず)」といううわごとを発しています。 読書家で、本もたくさん読んでおり、一時は聖職者となることを目指していたくらいですから、聖書も隅々まで知り尽くしていました。 私自身、ゴッホについてあまり知らない頃は、「狂気の人」だと思っていました。しかしゴッホを知れば知るほど、狂気ばかりを強調するのは間違いだと思うようになりました。 ですから小説の中で「気がふれて自殺した」という流れにはしたくなかったのです。理知的で、弟を思っているからこそ、自らの勇気を試す人物として描きたかったのです。「精神を病んだ」という表現にも気をつけたいと思いました。ゴッホはおそらく一種の心身症みたいな状態だったと思います。何をもって狂気とするか。彼は人を殺めたわけでもないし、テオには多少迷惑をかけたかもしれないけれど、基本的には自己完結しています。「狂気と情熱」、そこばかりが今までクローズアップされすぎてきたように思います。新しいゴッホ像をつくりたい。彼の周辺の人の目には、ゴッホはどう見えていたか。それを丹念に描き出したかったのです。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 ヨーロッパでは、一九世紀に劇的に鉄道網が発達し、一八八〇年代には各都市が結ばれて、人々が移動しやすくなりました。ゴッホがいろいろなところを放浪し、またパリを拠点にあちこち出かけることができたのも、この交通網ゆえのことでした。交通のインフラが整ったことは、画家たちに大きな影響を与えました。二一世紀のクリエーターたちが、インターネットやデジタル技術を使って表現が劇的に変わったことに近いくらいの革命でした。 今は誰でもスマートフォンやデジカメがあれば、気に入った風景をその場で撮れる。撮り直しもきく。一方で、ゴッホの時代には、誰もがやり直しのきかない中で、命をかけてギリギリの勝負をしていました。その本気度は、一三〇年という時間がたっても私たちの心を打ちます。キャンバスと一対一で向き合う潔さ。本気で風景と一体化しようとしている。その切実さは現代とは比較になりません。 ゴッホがいろいろな場所を転々とし、本気で自分だけの表現を見つけよう、ユートピアを探し出したいと移動していた背景には、切実さがあったと思います。彼がどれほど切実に一つ一つの場所に行き、どれほど真剣に風景を切り取っていったのか、そこに住む人々の肖像を描きとめていったのかについては、スマートフォンを簡単に操れる私たちとは、その真剣さの度合いが全然違うように思います。ですからそれを思うたびに彼がやってきたことの一つ一つがまぶしく、愛おしいような気持ちになります。 そんな気持ちで、ゴッホのあしあとを巡る旅へ出かけてみましょう。 「○《夜のカフェテラス》のモデルとなったカフェ《夜のカフェテラス》(一八八八年)のモデルとなったカフェがフォルム広場にあります。現在はその名も「カフェ・ファン・ゴッホ」。この有名店「カフェ・ファン・ゴッホ」に入るのは観光客ばかりです。きっと、ゴッホがアルルに来たときは、誰だか知られていないし、見向きもされなかったことでしょう。実際足を運んでみると、夏は日が長いので夜でも明るくて、賑わっている様子が実感できます。 アルルはパリに比べるとはるかにのどかで小さな町です。モンマルトルのような歓楽街もなかっただろうし、たぶんこの《夜のカフェテラス》のカフェは、町中では一番賑やかな場所だったのではないでしょうか。そういう場所を描くことによって彼は慰められたかもしれないけれど、私はこの絵を見ると孤独を感じます。賑やかなところを描けば描くほど、孤独のにおいがします。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著 ⑤オランダ、ベルギー オランダ時代、ベルギー時代については、私は、直接ゴッホのあしあとを訪ねて行ったことはありません。 が、オランダにある美術館には、何度か訪れています。ゴッホ作品をまとめて見たいなら、アムステルダムのゴッホ美術館、そしてデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園にあるクレラー=ミュラー美術館は欠かせません。世界で一番、二番のゴッホのコレクションを所蔵しています。 ○ファン・ゴッホ美術館 二〇一七年秋、フランスでの四年にわたるゴッホのあしあとを辿り、最後にファン・ゴッホ美術館を訪れました。花畑のように彼の傑作が迎えてくれて感動に包まれました。コレクションのもとになったのは、ゴッホから送られ、テオとヨーが持っていた約二〇〇点の油絵、約五〇〇点の素描、約七〇〇点の書簡、そしてゴッホとテオが収集した約五〇〇点の浮世絵などです。それらはテオの息子フィンセント・ウィレムに相続され、彼がまとまった形で保存したいと希望し、美術館設立にこぎつけました。ゴッホの義妹のヨーと甥がいたからこそ、ゴッホの絵は後世に伝えられ、私たちのもとに届けられたのです。 ○クレラー=ミュラー美術館 アムステルダムから約二時間、鉄道とバスを乗り継いで行きます。二〇世紀初頭、まだ少数の人にしか知られていなかったゴッホ作品にいち早く注目し、一九〇八~二九年のあいだ、クレラー=ミュラー夫妻はゴッホの作品を購入しました。約九〇点の絵画、約一八〇点の素描で構成される、世界で二番目の規模のゴッホ・コレクションが所蔵され、常時、約四〇点の絵画が入れ替わりで展示されています。《夜のカフェテラス》(一八八八年)など、代表作も多数含まれます。 「流れゆくセーヌの川音を聴きながら、いま、自分が直面している孤独。私は初めて我が身をゴッホにぴたりと重ね合わせることができた。そして、彼が人生のどん底にいたときにこそ、最も清澄で、最も美しいタブローの数々を生み出した、その強さを思った。 世間に嘲笑われようと、狂人だと怖がられようと、彼は誇り高き画家だった。表現者である、そのどうしようもなさをカンヴァスにぶつけた。その穢れない孤高の魂が、彼がこの世を去って一三〇年経った今なお、私たちの魂に共鳴せよと呼びかけるのだ。 たゆたえども沈まず──と、私は自作の小説にタイトルをつけた。十代の頃、愛読していた本の中にみつけた言葉で、美しい響きゆえか、ずっと消えずに心のどこかにあった。パリを表す暗喩だったので、感覚的に「いい題名になる」と選び取った。 誰もいないパリで、たったひとり橋の上に立ち、セーヌの流れをみつめながら、私はパリ市民がどんな思いでこの言葉を紋章に掲げ、大切にしてきたか、ようやく理解した。 ──嵐のときは小舟になればいい。たゆたいこそすれ、決して沈まずに。 私は、自作の中で林忠正がゴッホに語りかけた言葉を胸中に反芻した。なぜそんなふうに書いたのか、書いたときにはわからなかった。いまなおわからない。けれど、ひょっとすると私は、未来の読者に向かって、そして未来の私自身に向かって書いたのかも知れなかった。」 —『ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫)』原田マハ著
ゴッホの人生と絵について、原田マハさんが解説している。 ゴッホの絵はずっと好きで惹かれていたが、理由が言葉にできず、よく分からなかった。晩年、精神病院に入院するなど狂気の人というイメージもあり、もやもやした気持ちもあった。 しかし、本書を読んで、ゴッホの魅力が明確になった気がする。最大の魅力はまず色...続きを読む彩。そして、絵から感じられる孤独感や寂しさ。そして、それは単なる孤独ではなく、それを味わい深い芸術に発展させていると、原田マハさんは言う。ゴッホは世間で認識されているような狂気の人ではなく、勉強熱心でインテリ。ゴーギャンとの交流から想像性に気づき、その後の作品では自らの空想を独創的な芸術に高めている。ゴッホは悲劇的な辛い最期がよく言われるが、原田さんは、孤独のなかでも芸術を高めた強い人だったと思うと言い、その言葉に救われたような気がした。
傑作は永遠の命を生きるもの。それがアートの力だと思う。今やパリにも日本にも受け入れられたゴッホ。私たちは両思いなんだよと言うことをゴッホに伝えたい。 プロローグからマハさん節に持っていかれる。 林忠正とゴッホの魂と対談しているように、そして乗り移られるように最後は書いたという「たゆたえ」の解説もあり...続きを読む、もう一度読みたくなりました、
【2026年読書記録No.2】 まさに原田マハさんと共にゴッホのあしあとを辿らせてくれた一冊。この副読本を読むことでより「たゆたえども沈まず」という小説の魅力を感じることができる。そして原田マハさんの優しい囁きと共にフィンセントがどのような生涯を生きたのかを感じることができるよう。 改めて原田マハ...続きを読むさんという作家が描く、事実では解明されていない部分をいかに魅力的にフィクションとして描くかという真髄に少しばかりふれることができた気がする。ほんの数ヶ月で私にとってゴッホ兄弟と林忠正はとても惹かれる人物になった。いつかたゆたえども沈まないパリの街、そしてフィンセントにとっての日本があったアルルの街を巡りながら彼の生涯をこの足で辿ってみたいと思った。
先日、ゴッホ展に行ってきた。 もっとゴッホのことが知りたくて読んだのが、 私が大好きなマハさんのこの本。 充分に堪能できた。 学生時代に買った画集を思い出し、さがしたら ゴッホがあったので見ることができ、とても満足。
現代の多様性という言葉はどこか言い訳地味だ使い方が多い気がしていて 使うにしても使われるにしてもマイナスなイメージを持ってしまう 色々な事を認める事を多様性というんじゃなくて 色々な事も候補に視野に入れて選りすぐる事 だだから多様を主張する者は命懸けで選りすぐられなきゃいけないと思う 近頃は浅はかな...続きを読む多様性って言葉で浅はかに文化を否定してる気がして嫌だったけど 命懸けで新しい文化を作るって事だったのかもしれない だからゴッホは絵が売れないままに死んで死んでから文化を作ったんだ。 命懸けで未来に感動を残したんだ。
「たゆたえども沈まず」の解説と著者によるゴッホの人生や作品の解釈、ゴッホゆかりの地の現在の様子の紹介で構成されている。様々な画家の作品を解説してくれているが、無知な私はその都度画像検索して学んだ。ゴッホは浮世絵の影響を強く受け、日本人画家もまたゴッホの影響を強く受けたこと、日本美術と印象派の面々はお...続きを読む互い刺激し合って新しいアートを発生させるに至ったという事実が何だか嬉しい。ゴッホは「情緒不安定な人」という認識だっただけに、自分を追い込んで寂しさや孤独感を画に昇華させたゴッホの強さを知ることができて良かった。また、ゴッホ兄弟が亡くなったあと、女手一つで息子を育て、ゴッホ兄弟とゴッホの作品を世に出したヨーの精神力。ゴッホのお墓の横に夫テオのお墓を移したエピソードから、ヨーがゴッホ兄弟を深く愛し大切に思っていたことを知り胸が締め付けられた。 あの時代に通訳として1人渡仏した林忠正。日本人がほとんどいないパリで美術商を営み、孤軍奮闘て日本美術の正当な価値を認めさせた。功績はもっと評価されて良いよなぁ。散逸してしまったコレクション、残念だなぁ。
ゴッホと言えば、印象派で「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの作品があり、精神的に病んでしまった画家というイメージがあった。 ただ、私の中で、色彩の表現力、カンヴァスの物の配置に引き寄せられるものがあり、とても好きな絵の一つだった。 この度、ゴッホ展に行く機会があり、ゴッホの初期の絵画から晩年の絵...続きを読む画まで観ることができた。その時に生い立ちや一生について、すこし知ることができ、もっと色々知りたいと思い、この本を手に取った。 ゴッホの絵の中に浮世絵の絵があることもあり、日本を好きでいてくれたようで、嬉しく思った。 ただ、本を読んで思ったのは大変苦労したということ。コミュニケーションがうまくとれないので、どの職にもつけず、絵を描くことで食べて行こうとするも、絵は売れず。弟テオの支援なしでは生活できないほどだった。 ゴッホが亡くなってから、ゴッホの絵が世に出されて価値が評価され、ということは才能も評価されて、もし今1日でもゴッホが蘇るなら、こんなにも評価されていることを伝えてあげたいと思った。 私も、ファンのうちの1人ですと。
たゆたえども沈まずを読んで今更ながらゴッホにはまり、大阪市立美術館で開催されていたゴッホ展最終日に行くことが出来ました。 その後この作品を見つけ、ゴッホのことがもっと知りたいなと思い購入しました。 ただ絵を見て素敵だなあ、綺麗だなあという感想しか持たなかった私に、原田マハさんは、画家の生き様や生活を...続きを読む知りながら絵画を楽しむという楽しみ方を教えてくれました。 今年は大ゴッホ展も始まり、楽しみが増えました。
ゴッホの歴史について、解説と原田さんの考察が書かれている。 ゴッホが語られる際、狂気の人とか、可哀想な人、みたいに表現されることが多い印象がある。 でも、それはやはり人の歴史というか、それだけの言葉では到底言い切れない色々があった。 本作でも言われているように、少なくとも狂気だけではないし、可哀想な...続きを読むだけでもない、と思った。 27歳で画家を目指したというのは驚いた。画家って小さい頃から夢見ているものかと思っていたけど、意外と大人になってから目指し始めた人多いのかな。 パリという芸術都市で挫折を味わい、そこから離れる選択をした時の心情を思うと切なくなる。 耳を切った話も、出来事だけ聞くとヤバいメンヘラって感じるけれど、ピカソ達がしていたように、同じ道を志す同士と支え合う関係に憧れてたんだろうな。 私だって職場に気心知れた同僚とか欲しい。 きっと誰だって、頑張りたい時に孤独は辛いと思う。 誰かと愚痴を言い合ったり、互いの作品について語り合ったりしたいはず。 人付き合いの難しいところだよな。そういうところにピカソとかの"陽"の画家とゴッホの違いを感じる。 没後に有名になった話も、「あとちょっと生きていれば……」と思ってしまうけれど、先の見えない状況で、明日になればきっと、と思い続けることは難しいよね。 きっと、ゴッホ以外にも同じように苦労している人はたくさんいる。今も昔も。 ゴッホはその中でも、後世に残る素晴らしい作品を生み出した。 どん底にいて、それでも動ける胆力はやっぱり並じゃないな、と思った。
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