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歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい眼が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など、歴史における主要な問題について明快に論じる。
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Posted by ブクログ
1962年に第1刷が発行された本です。 私が手にしたのは2022年6月発行の第93刷でした。 過去の事実を集めただけでは歴史にならないこと。 「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、過去と現在の間の尽きることを知らぬ対話であります。」という第1章の最後の言葉が一番よくこの本を表して...続きを読むいると思いました。 また、歴史の研究方法は、実験ができないという違いはありますが、私が思っていたよりもずっと自然科学の研究方法に近いことを知りました。
現代史の扱いは難しい。何故なら出来事に利害や未練を有する人たちがまだいるからである。 歴史を決定論として捉える説、偶然の連鎖として捉える説がある。いずれにせよ歴史家康とは因果経過を選択し価値観に基づき体系化する。 過去に対する建設的意見を持たぬ者は、神秘主義かニヒリズムに陥いる。 進歩史観は幻想であ...続きを読むる。唯一の絶対者は変化である。優れた歴史家は狭い視野を乗り越え、未来から過去を深く洞察する。 歴史家は勝利を占めた諸力を前面に押し出し、これに敗れた諸力を背後に押し退けることによって、現存の秩序に不可避性という外観を与えるものである。
20世紀のイギリスを代表する歴史家の1人であるE・H・カー氏が1961年の1月~3月にかけてケンブリッジ大学で行った連続講義「歴史とはなにか」が書籍になったものです。本書を読んだ私の理解は、一貫して「相対性」「相互性」が強調されていることかなと思いました。例えば過去と現在、未来の相対性。個人と社会の...続きを読む相互性などです。また歴史を語る歴史家自身も、少なからず自分の生活している環境に影響を受けているので、純粋に客観的な存在としての歴史家など存在していない、と断言しています。絶対的な存在としての歴史家はいない。「まず歴史家を研究せよ」というのは非常に重要なメッセージだと思います。彼はどんな時代のどんな国で育った人間なのか、その時代はどんな価値観が重視されていたのか、などの背景情報です。歴史を専門的に勉強していないと難解な箇所もありますが(特に19世紀、20世紀の歴史家の名前と思想がたくさん出てくるのでなじみがない)、全般的には普通のビジネスマンでも教養として読めるのではないかと思います。時間をあけてもう1度読むとさらに味わいが出るような本だと思います。
歴史は、過去の経験を糧にしながら未来をよりよく照らすための学問である、とぼんやり思っていた私の考えを大きく変えてくれた。 歴史は単に事実の集積ではない。歴史における解釈はいつでも価値判断と結びついている。過去とは、現在の光に照らして初めて私たちに理解ができる。歴史は直線的ではなく、逸脱や後退、明瞭な...続きを読む逆転を伴い、後退の後に行われる前進も同じ点から、同じ方向で始められることは考えられない。 これらの考察は50年も前に披歴されたものであるが、現在の世相を鑑みても、全く色あせていない。
初めて手に取ったのは、大学生時代(1990年代)での最初の概論でのテキストにて、 確か、1961年のカー氏の、ケンブリッジ大学での講演録を基調にしていて、 日本での初版が1962年ですから、訳語としての言い回しはやや古めで、 正直とっつきにくい部分もありますが、内容としてはよくまとまっているかと。...続きを読む - 歴史家の機能は、(中略)現在を理解する鍵として過去を征服し理解すること その上で、、 - 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、 現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話 との点は、私にとって非常に肚落ちのする内容で、今でも(2020年代)、 各種の物事に対しての考え方とか、立ち位置への基礎になっていると思います。 自分なりに解釈すると、歴史とは、一つの「事実」と、その「事実」に対する解析や、 議論の積み重ねの結果としての、様々な「真実」の集合体、であって、 その事実とは人の行為の積み重ねで、真実とはその行為への、 「真の動機(原因)」に直結するもので、多様性が前提となる、くらいでしょうか。 そういった意味では、とある寄稿のなかで塩野七生さんが述べられていた、、 - 歴史とは学ぶだけの対象ではない。知識を得るだけならば、歴史をあつかった書物を読めば済みます。 そうではなくて歴史には、現代社会で直面する諸問題に判断を下す指針があるのです。 なんてことも思い出しながら、、「知識」を集約しただけでは生きていく上ではさして役に立たない、 「生きた学問」として活用していくためには、今現在への「社会的有用性」の模索も必要、なんて風にも。 そしてこれは何も「歴史学」に限った話ではなく、 科学するを前提とする学問すべてに求められていくのかな、とも思います。 そう思うと「歴史的な事実(事象)を今の価値観で裁断する」のには懐疑的で、 - 今日、カール大帝やナポレオンの罪を糾弾したら、 誰かがどんな利益を受けるというのでしょうか との感覚も非常に納得できます、、法治でいう「法の不遡及」とも通じるかと、、 日本であれば織田信長による比叡山焼き討ちとかが、一例になりますかね。 (個人的には、信長時代の価値観でいえば、焼き討ちも妥当、と思っています)。 なんてことを、ここ最近のANTIFA(アンティファ)なる無政府主義のテロ集団が、 銅像破壊、言論統制などで過去の歴史を“無かったこと”にしようとしてるな、と見ながら、 これは「人の営みとしての歴史に対する冒とくであり、挑戦である」と、怒りを禁じえません。 たびたびに、歴史学とは私にとっての基礎学問だなと、 そんなことを思い出させてくれる一冊です。
ビジネス本の読書会にて 「 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」 深い言葉だ。歴史的事実一つをとっても「現在の歴史家」というフィルタを通してみるしかなく、歴史家の数だけ事実が存在し得る。 実はこの本、昭和30年台に父...続きを読むが購入したもので所々に鉛筆の線が引いてあり、冒頭紹介した語句にも引いてあった。さらに言えば、この本は大学で哲学を学んでいる息子が祖父のところにいったときにもらってきたものだが、存在を知らず、今回の読書会に行こうとしていたときに息子から存在を知らされたもの。親子3代に渡って同じ本を読むことになり感慨深い。
「事実は神聖であり、意見は勝手である」 →これはガーディアン紙の編集長だったチャールズ・プレストウィッチ・スコットの言葉。事実を正確に把握することは難しいけど、そのたったひとつしかない事実へと辿り着くことが歴史の使命。たったひとつしかないがゆえに、事実は神聖なんだ。意見はひとそれぞれ自由に持てばいい...続きを読む。 「過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。」 →事件を並べれば歴史になるわけではない。過去を歴史的に解釈するためには、現在起きている事件への考察が必要となるんだ。 「原因という問題に対する歴史家の見方の第一の特徴は、一つの事件について幾つかの原因を挙げるのが普通だということであります。」 →なにかの原因を探すとき、わたしたちはひとつ原因を見つけると安心してしまうけど、世の中ってそんなに単純ではないよね。いくつもの原因が複雑に絡み合った結果としてひとつの事件が起こるのです。
英国の歴史家E.H.カーが、1961年にケンブリッジ大学で行った講演「歴史とは何か」を全訳したもので、今や「歴史哲学」を論じた古典の一つとも言える一冊である。 本書の中で繰り返される「歴史とは現在と過去との対話である」というフレーズは、その後本邦で発表された歴史学を始めとする数々の書籍でも引用されて...続きを読むいる。 私は、本書を読んだことにより、歴史とは「史実」と「解釈」が組み合わさって成り立つものであることを認識し、それ以降は、何らかの形で(本でもTVでもネットでも)提示される「歴史」の見方が間違いなく変化したし、極めて大きな影響を受けた。 著者はまず前半で、「歴史家と事実」、「社会と個人」、「歴史と科学と道徳」、「歴史における因果関係」といった切り口で、歴史の持つ普遍的な意味を以下のように論じている。 歴史家と事実~「歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折してくるものだということです」、「事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。・・・歴史とは歴史家の事実の間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」 社会と個人~「歴史とは、ある時代が他の時代のうちで注目に値すると考えたものの記録であります」 歴史における因果関係~「歴史は、歴史的意味という点から見た選択の過程なのです。・・・歴史家は、歴史的に有意味な因果の連鎖を、多数の原因結果の多くの連鎖の中から取り出すのです。・・・別の原因結果の連鎖が偶然的なものとして斥けられねばならないのは、原因と結果との関係に違いがあるからではなく、この連鎖それ自体が無意味であるからです」 そして、後半の「進歩としての歴史」、「広がる地平線」では、20世紀半ばという時代を反映して、ヘーゲルやマルクスの目的論的歴史観・唯物史観への疑問、構造主義的な考え方を語っている。 「歴史とはどのように捉えるべきなのか」、「歴史にはどのように向き合うべきなのか」を知るために、必読の書である。 (2005年5月了)
大学の講義にて本書の内容が複数引用されていたため、本書に興味を持った。 歴史とは過去との絶え間ない対話の過程であり、それを行う歴史家は、現代の中を生きる個人であるため、社会、文化的影響を受けている。だから歴史を研究するときは、まず歴史家自身を研究する必要があると本書から学んだ。 歴史研究において...続きを読む、事実を重視し過ぎると、無味乾燥な歴史ができあがり、解釈を重視し過ぎると、懐疑主義やプラグマティズムに陥る。その間で両立が必要だと学んだ。 現在にも通じる歴史観がここにある。
クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。 序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブな...続きを読むものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。 ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。 だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。 考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。 また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。 あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。 脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。 _______ 「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用) _______ いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。 最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。 実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。 というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。
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