あらすじ
歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい眼が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など、歴史における主要な問題について明快に論じる。
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1962年に第1刷が発行された本です。
私が手にしたのは2022年6月発行の第93刷でした。
過去の事実を集めただけでは歴史にならないこと。
「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、過去と現在の間の尽きることを知らぬ対話であります。」という第1章の最後の言葉が一番よくこの本を表していると思いました。
また、歴史の研究方法は、実験ができないという違いはありますが、私が思っていたよりもずっと自然科学の研究方法に近いことを知りました。
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現代史の扱いは難しい。何故なら出来事に利害や未練を有する人たちがまだいるからである。
歴史を決定論として捉える説、偶然の連鎖として捉える説がある。いずれにせよ歴史家康とは因果経過を選択し価値観に基づき体系化する。
過去に対する建設的意見を持たぬ者は、神秘主義かニヒリズムに陥いる。
進歩史観は幻想である。唯一の絶対者は変化である。優れた歴史家は狭い視野を乗り越え、未来から過去を深く洞察する。
歴史家は勝利を占めた諸力を前面に押し出し、これに敗れた諸力を背後に押し退けることによって、現存の秩序に不可避性という外観を与えるものである。
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20世紀のイギリスを代表する歴史家の1人であるE・H・カー氏が1961年の1月~3月にかけてケンブリッジ大学で行った連続講義「歴史とはなにか」が書籍になったものです。本書を読んだ私の理解は、一貫して「相対性」「相互性」が強調されていることかなと思いました。例えば過去と現在、未来の相対性。個人と社会の相互性などです。また歴史を語る歴史家自身も、少なからず自分の生活している環境に影響を受けているので、純粋に客観的な存在としての歴史家など存在していない、と断言しています。絶対的な存在としての歴史家はいない。「まず歴史家を研究せよ」というのは非常に重要なメッセージだと思います。彼はどんな時代のどんな国で育った人間なのか、その時代はどんな価値観が重視されていたのか、などの背景情報です。歴史を専門的に勉強していないと難解な箇所もありますが(特に19世紀、20世紀の歴史家の名前と思想がたくさん出てくるのでなじみがない)、全般的には普通のビジネスマンでも教養として読めるのではないかと思います。時間をあけてもう1度読むとさらに味わいが出るような本だと思います。
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歴史は、過去の経験を糧にしながら未来をよりよく照らすための学問である、とぼんやり思っていた私の考えを大きく変えてくれた。
歴史は単に事実の集積ではない。歴史における解釈はいつでも価値判断と結びついている。過去とは、現在の光に照らして初めて私たちに理解ができる。歴史は直線的ではなく、逸脱や後退、明瞭な逆転を伴い、後退の後に行われる前進も同じ点から、同じ方向で始められることは考えられない。
これらの考察は50年も前に披歴されたものであるが、現在の世相を鑑みても、全く色あせていない。
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初めて手に取ったのは、大学生時代(1990年代)での最初の概論でのテキストにて、
確か、1961年のカー氏の、ケンブリッジ大学での講演録を基調にしていて、
日本での初版が1962年ですから、訳語としての言い回しはやや古めで、
正直とっつきにくい部分もありますが、内容としてはよくまとまっているかと。
- 歴史家の機能は、(中略)現在を理解する鍵として過去を征服し理解すること
その上で、、
- 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、
現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話
との点は、私にとって非常に肚落ちのする内容で、今でも(2020年代)、
各種の物事に対しての考え方とか、立ち位置への基礎になっていると思います。
自分なりに解釈すると、歴史とは、一つの「事実」と、その「事実」に対する解析や、
議論の積み重ねの結果としての、様々な「真実」の集合体、であって、
その事実とは人の行為の積み重ねで、真実とはその行為への、
「真の動機(原因)」に直結するもので、多様性が前提となる、くらいでしょうか。
そういった意味では、とある寄稿のなかで塩野七生さんが述べられていた、、
- 歴史とは学ぶだけの対象ではない。知識を得るだけならば、歴史をあつかった書物を読めば済みます。
そうではなくて歴史には、現代社会で直面する諸問題に判断を下す指針があるのです。
なんてことも思い出しながら、、「知識」を集約しただけでは生きていく上ではさして役に立たない、
「生きた学問」として活用していくためには、今現在への「社会的有用性」の模索も必要、なんて風にも。
そしてこれは何も「歴史学」に限った話ではなく、
科学するを前提とする学問すべてに求められていくのかな、とも思います。
そう思うと「歴史的な事実(事象)を今の価値観で裁断する」のには懐疑的で、
- 今日、カール大帝やナポレオンの罪を糾弾したら、
誰かがどんな利益を受けるというのでしょうか
との感覚も非常に納得できます、、法治でいう「法の不遡及」とも通じるかと、、
日本であれば織田信長による比叡山焼き討ちとかが、一例になりますかね。
(個人的には、信長時代の価値観でいえば、焼き討ちも妥当、と思っています)。
なんてことを、ここ最近のANTIFA(アンティファ)なる無政府主義のテロ集団が、
銅像破壊、言論統制などで過去の歴史を“無かったこと”にしようとしてるな、と見ながら、
これは「人の営みとしての歴史に対する冒とくであり、挑戦である」と、怒りを禁じえません。
たびたびに、歴史学とは私にとっての基礎学問だなと、
そんなことを思い出させてくれる一冊です。
Posted by ブクログ
ビジネス本の読書会にて
「 歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」
深い言葉だ。歴史的事実一つをとっても「現在の歴史家」というフィルタを通してみるしかなく、歴史家の数だけ事実が存在し得る。
実はこの本、昭和30年台に父が購入したもので所々に鉛筆の線が引いてあり、冒頭紹介した語句にも引いてあった。さらに言えば、この本は大学で哲学を学んでいる息子が祖父のところにいったときにもらってきたものだが、存在を知らず、今回の読書会に行こうとしていたときに息子から存在を知らされたもの。親子3代に渡って同じ本を読むことになり感慨深い。
Posted by ブクログ
「事実は神聖であり、意見は勝手である」
→これはガーディアン紙の編集長だったチャールズ・プレストウィッチ・スコットの言葉。事実を正確に把握することは難しいけど、そのたったひとつしかない事実へと辿り着くことが歴史の使命。たったひとつしかないがゆえに、事実は神聖なんだ。意見はひとそれぞれ自由に持てばいい。
「過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。」
→事件を並べれば歴史になるわけではない。過去を歴史的に解釈するためには、現在起きている事件への考察が必要となるんだ。
「原因という問題に対する歴史家の見方の第一の特徴は、一つの事件について幾つかの原因を挙げるのが普通だということであります。」
→なにかの原因を探すとき、わたしたちはひとつ原因を見つけると安心してしまうけど、世の中ってそんなに単純ではないよね。いくつもの原因が複雑に絡み合った結果としてひとつの事件が起こるのです。
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英国の歴史家E.H.カーが、1961年にケンブリッジ大学で行った講演「歴史とは何か」を全訳したもので、今や「歴史哲学」を論じた古典の一つとも言える一冊である。
本書の中で繰り返される「歴史とは現在と過去との対話である」というフレーズは、その後本邦で発表された歴史学を始めとする数々の書籍でも引用されている。
私は、本書を読んだことにより、歴史とは「史実」と「解釈」が組み合わさって成り立つものであることを認識し、それ以降は、何らかの形で(本でもTVでもネットでも)提示される「歴史」の見方が間違いなく変化したし、極めて大きな影響を受けた。
著者はまず前半で、「歴史家と事実」、「社会と個人」、「歴史と科学と道徳」、「歴史における因果関係」といった切り口で、歴史の持つ普遍的な意味を以下のように論じている。
歴史家と事実~「歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折してくるものだということです」、「事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。・・・歴史とは歴史家の事実の間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」
社会と個人~「歴史とは、ある時代が他の時代のうちで注目に値すると考えたものの記録であります」
歴史における因果関係~「歴史は、歴史的意味という点から見た選択の過程なのです。・・・歴史家は、歴史的に有意味な因果の連鎖を、多数の原因結果の多くの連鎖の中から取り出すのです。・・・別の原因結果の連鎖が偶然的なものとして斥けられねばならないのは、原因と結果との関係に違いがあるからではなく、この連鎖それ自体が無意味であるからです」
そして、後半の「進歩としての歴史」、「広がる地平線」では、20世紀半ばという時代を反映して、ヘーゲルやマルクスの目的論的歴史観・唯物史観への疑問、構造主義的な考え方を語っている。
「歴史とはどのように捉えるべきなのか」、「歴史にはどのように向き合うべきなのか」を知るために、必読の書である。
(2005年5月了)
Posted by ブクログ
大学の講義にて本書の内容が複数引用されていたため、本書に興味を持った。
歴史とは過去との絶え間ない対話の過程であり、それを行う歴史家は、現代の中を生きる個人であるため、社会、文化的影響を受けている。だから歴史を研究するときは、まず歴史家自身を研究する必要があると本書から学んだ。
歴史研究において、事実を重視し過ぎると、無味乾燥な歴史ができあがり、解釈を重視し過ぎると、懐疑主義やプラグマティズムに陥る。その間で両立が必要だと学んだ。
現在にも通じる歴史観がここにある。
Posted by ブクログ
クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。
序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブなものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。
ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。
だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。
考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。
また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。
あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。
脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。
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「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用)
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いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。
最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。
実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。
というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。
Posted by ブクログ
はしがきで「歴史とは現在と過去との対話である」というフレーズが登場するが、繰り返し述べられるこの一文に本書の大部分が表されていると思う。
ここでいう「歴史」とは過去に起こった事象そのものではなく、「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程」と著者は定義している。
私たちが学校や書物で学んだ歴史は、歴史家の主観が多大に影響しており、「歴史的事実」と言われるものでさえ「解釈の問題に依存する」のだという。
これの意味するところを考えてみると、もし歴史における客観的事実を知りたいのであれば、過去に行われた歴史家の解釈に挑む、つまり対等な立場で対話するくらいの心構えで向き合わないと真の歴史の姿は見えてきませんよ、ということなのだと理解した。
述べられていることは全くもって正論なんだけど、日常を生きるのに忙しい庶民にとってみると、歴史に触れる際に常にこのようなスタンスで向き合わないといけないというのはなかなか難しいのではなかろうか。なので頭の片隅に入れておく、ぐらいの受け止め方がちょうどいいのかもしれない。
やはりある程度信頼できる人物が補助線を引いてあげる必要があるのだろうけど、カルトのように悪意を持って偽史をばらまく輩もいるからなかなか難しいところではある。
Posted by ブクログ
歴史=過去の事実(と思われしもの)の蓄積で、史料に裏付けられた客観的なもの・個人の解釈から独立したもの、と思っていたけど、真逆だったのか〜と納得した。
同業者に対する切れ味鋭い皮肉に笑ってしまう、、
Posted by ブクログ
歴史関連の書籍を読むことが多い自分にとって、改めて歴史とは何かを考えるべく購入。
本書は欧米で歴史を学ぶ者にとって必読書と言われているほどの名著であることからいつか読んでみたいと思っていた。
また、巷には特定の人物や歴史的トピックを扱った書籍が多いが、歴史を単なる“点”の事実で理解することよりも、その根底に流れる歴史哲学的アプローチで歴史を眺めてみることによって、視野が広がるかもしれないという期待感もあった。
筆者のE.H.カーは純粋な歴史学者ではなく、元々イギリス外務省で勤務していた実務家であるが、そうであるが故に「現代を理解するために歴史をみる」という姿勢が終始一貫している。
そんな著者が本書の中で「歴史は、現在と過去との対話である。」と繰り返し述べている。
少なくとも日本の学校教育において歴史を学ぶことは、教科書に書かれている「過去に事実であったであろう事柄」を時系列に覚えていくことであり、その事柄についての因果関係などを考えたり議論したりすることは皆無である。
自分も例外なく社会科の教師が板書する事項をひたすらノートに書き写した経験しかなく、大学受験においてさえ暗記の域を出ることはなかった。
しかも日本の歴史教育の現場では、多くの場合において縄文時代から明治期の20世紀初頭までに多くの時間を割き、現代を知る上で大事な大正期以降の現代史には時間的制約のためにほとんどが割愛されてしまうという現実があり、日本で歴史を学ぶことと現代を知ることとの間には大きな断絶があると言わざるを得ない。
これに対し、著者は実務家らしく「歴史というものは現在の目を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものである。」という見解を示す。
そのためには現在の問題の因果関係を探らなくてはならないが、まさに事実であるとされていることの原因を探求し、様々な原因と思われる事柄の相関関係をも考慮することこそが歴史を理解することだと述べる。
このアプローチは斬新かつ日本国内の歴史に対する認識や歴史教育を考え直させるきっかけとなり得るのではないだろうか。
また、興味深かったのは3章において「歴史は科学である」と述べている点である。
大学の教養課程においては、歴史は人文科学分野とされてはいるが、純粋に歴史は科学であると認識している者はほとんどいないというのが実情であろう。
しかしながら、歴史を「事実・事象の因果関係に対し、様々な観点から仮説を設定して検証し一般化していく」というアプローチで考えていくならば、自然科学で行われているアプローチと何ら変わりないというのが筆者の主張するところである。
自分も含め、とかく科学というと行き着く先は何らかの「法則」を導き出すことだと考えがちであるが、筆者も述べているように、それは古典科学の世界観であり、現代科学においては法則を導き出すことはゴールではない。
そう考えると、歴史というものは動かぬ事実が過去から連なっているだけの静的なものでなく、時代や歴史家の解釈などによってダイナミックに変動する動的なものなのだと気付く。
昨今、近隣諸国との歴史認識問題がメディアを騒がせているが、事実だけに着目するから諸外国と摩擦が生じるのだと改めて感じる。
歴史的事実は唯一絶対なものではなく、各国・各時代の歴史家の解釈によって異なるということを前提とした上で相互協調的に因果関係を探っていき、そうすることで新たな歴史認識が生まれ、それが結果的に社会的進歩に繋がるのではないだろうか。
そのような歴史観を得られるだけでも、本書は一読に値すると考える。
出版が約半世紀前なためか、訳者の清水幾太郎氏の表現が少々文語的で若干現代人には読み難いのではという想いから評価点を4とさせていただいたが、大学時代に読んでおけば良かったと思えた一冊であった。
Posted by ブクログ
極端に傾かない、穏当な、中庸な結論を紡ぎ続ける。これが教養であり、健全な懐疑主義であろう。
とりわけ偉人と歴史の関係、科学なかんずく物理学と歴史学のアナロジー、善悪の判断についても歴史的という議論は興味深い。
Posted by ブクログ
単純に歴史とは何かというだけではなく、歴史学全体を問う。講演であるためか、他者への批判が多いのに驚いた。哲学的な考察も必要で、読み終わったものの、内容に十分ついて行けず、もどかしい。
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身構えて読んだけど、翻訳が優秀であるせいか、非常に読みやすかったし、ウィットに富む著者の筆使いには親しみさえ感じる。著者は、懐疑論にも独断論にも偏らないよう心掛けているように思える。また、主観-客観図式における「どちらが先か」という議論よりも、相互作用の概念を用いることの方が有用性があると認識しているように読めた。冒頭から終章まで、“An unending dialogue between the present and the past.”のテーマが底を流れ、とても一貫性があり読みやすい。多くを学ばせて頂いた。
ただし、メタ的な話だが、この本を読むにあたっても本来ならば「当時」との対話が必要であることが実感される。当時の英国の思潮や社会科学における主要な言説などの知識がないと、この本で述べている内容の一部は理解し切れない。
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古い本であっても、中身に古臭さは感じない。
歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現代と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのである。
僕たちが「歴史家を通じて」観測できる「歴史」は相対的なものであり、歴史そのものはダイナミックなものである、と理解。
Posted by ブクログ
総じて難しい本で書かれていることを理解しきれなかった。
歴史とは現在の過去との対話である。歴史的事実は事実そのものということではなく、そこには歴史家の解釈によって歴史的事実となっているということを理解しておくことが大事であると理解できた。
一つの事実自体は、ただのそれにすぎない。例えば、他の人物でも同じようなそれを成していることもある。事実それ自体は取るに足らないものであったりもする。ただそれが、過去や背景、周りからどのような影響のあるものと捉えられていたかによって、後の歴史家に歴史的事実として捉えられるものなのかなと考えた。
また歴史は、良い解釈や功績のみが継がれていることも多く、逆のこと、都合の悪いところは残されない、良いように解釈されていることもあり得るということも理解しておくべき重要なことと言える。
歴史は、その時ではなく、未来(現在)への時を経て歴史解釈されるということ、その時の歴史家の置かれている背景、当時の時代とはちがう考え方、価値観によって図られてもいるということ、なので歴史を知るには歴史家も知る必要があるということも、今後歴史を捉える上で学びとなった。自分でその歴史的事実自体を考えるようにしたい。
Posted by ブクログ
歴史とは、過去から続いて未来へ向かう時間の動的な動きの中で、ある目的に関連し且つ重要と思われる出来事を前後の関係性と共に並べた物であり、すべての事実が歴史になるわけではなく、また無闇に抜き出した事実が歴史になるわけでもない、というのが本書の主旨だと思うが、いやー、冗長。
この講演がなされた時は新奇な発想であり、劃期的な発見であったのかも知れないが、現代を生きる人には正直「何を今更」という感想しか湧かないと思う。
その内容を個別個別の歴史家や神学者、哲学者を挙げて甲はこういった、乙はこういった、丁はこいった、と挙げていって、批判するのかと思ったら、しない。いや、もしかしたら原文ではもっとはっきり批判しているのかも知れないが、少なくともこの訳本はすごくらわかりにくい、個人的に。そのため、読んでいて「私はトマトがすきであるが、甲は嫌いと言っていた。乙はトマトの赤がきになるようだ。丁は……」みたいなどうでもよい紹介文が延々続くようにしか思えず、大層疲れた。
興味深い話もあるにはある。個人的には第四章が面白かった。そのほかの章にもところどころおもしろい話はあったが、割合的にはそうでもない。そもそも英国人のアイロニーみたいなのも期待していたが、翻訳の時点で削がれたか、原文になかったか、自分が気付かなかったのか、みつけられなかった。
概して、名著として学校の授業でも紹介されたその理由がよくわからない。学校の先生、特に歴史の先生は読んだことあるのだろうか。
Posted by ブクログ
ここに書かれている内容が歴史を勉強するうえで大事なのはなんとなく分かりますが、自分がまだそのレベルにいきついていないこともはっきりしました。
結果的に読破するまでには至りませんでした。
これからも歴史関係の本を中心に多くの本を読み、再度この本の読破に挑戦したいですし、読破するだけでなくより多くのものをこの本から吸収したいです。
Posted by ブクログ
歴史認識を記載している内容となっております。少し翻訳的にわかりづらいところがありますが一体歴史とはどう捉えるべきなのかということを哲学的に考察することができます。歴史を考えるにあたっては勉強にはなりますが難解な書物でもあります。歴史と言うものは見る人によって捉え方、考え方が違い、歴史を考える方のフィルターを通して、歴史がどうであったかの解釈は変わってきます。その歴史とは過去のものであり現在の価値観から過去を見る見方、また過去があったからこそ現在の今があると言う見方、様々な価値観、捉え方の解釈がありますが、この本は哲学的な考察を持って歴史を考える本であり勉強にはなりますが、少し論理的迷路に陥る感じはします。一読の価値はあると思います。
Posted by ブクログ
描かれた当時に、イギリスの歴史家がこのような歴史観を持っていたことは驚異的である。現在のイギリスの状況を見ると、彼の危惧は少なからず当たっており、その慧眼に驚かされる。
一方、少し日本人(少なくとも僕)には馴染みのないイギリスの歴史的事件、歴史家が多く登場し、少しフワフワしてしまったのと、今読むとまあそうだよね、って感じのことが多いので、新しい知見を得ようというよりは、考え方、そしてその慧眼に驚く本に、いま読むとならざるを得ないかな、と思う。
Posted by ブクログ
読むのに時間がかかった。
読み手の力量不足なのかね。
内容は、まあ、漠然と思ってる様な「当たり前のこと」への裏書きって感じかな。
整理はされたけど、特に目新しい概念ってのは無かった様に思う。
あるいは、理解できなかっただけかもなw
Posted by ブクログ
・われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいているけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である
・歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とを持つことになる
Posted by ブクログ
●歴史的事実というのは、歴史家の思想によって選択されたものだと本書は喝破する。これまで「事実」というものは、誰の作為もない純粋なものというような認識でいた。けれど考えてみたら、歴史に関わらず科学的論説に、その観察者の主観が一切入らないということはあり得ない話で、この本からは鋭い洞察を得られた。
Posted by ブクログ
途中までで一旦終了。歴史とは何かという問いに様々な側面から考察。
過去と現在の相互関係によること、歴史家その人もその生きている時代の産物でそれを知る必要があること、等々なるほどという部分も多い。
難解なところも多いので、要約でも良いかもしれない。
Posted by ブクログ
初めて知る歴史の見方ばかり。歴史は事実と言うより解釈だったり、作家を知る必要があったり、偉人を社会現象として見たり、歴史を科学として見たり。驚きの連続
歴史哲学の古典だけあって、講義録でも 読み応えある。何度も戻り読みしながら読み進めた
Posted by ブクログ
訳が微妙。新訳版を作ってほしい…。
いや,原著を読めという話なんだけど。
内容は,歴史というよりは,歴史学あるいは歴史学者の話が中心。
歴史と事実の関係,自然科学者との対比等々。
「大文字の社会」という比喩がよくわからなかった。
「科学者,社会科学者,歴史家は,いずれも同じ研究の異なった部門に属しているのです。つまり,どれも人間とその環境との研究であって,あるものは環境に対する人間の作用の研究であり,他のものは人間に対する環境の作用の研究なのです。」(125頁)
「すべて文明社会というものは,まだ生まれぬ世代のためを思って,現存の世代に犠牲を押しつけるものです。」(177頁)