Posted by ブクログ
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描くことは祈り
ピカソは生涯に3万点作った
現代アートを見にニューヨークに行きたくなった
ピカソって生涯に3万点作ったらしいけど、91歳で死んだから、0歳から、1日1作作ったとしても82年かかるんだよね。だから、大作が数日かかるなら、小さい作品なら1日2、3作ペースで作ってたんだろ...続きを読む うなと思う。凄すぎる。
西洋美術史でイコンといえば、カトリック修道院の僧侶たちが描いた聖書に基づく物語絵です。 カトリック教会(正教会)における神や天使、聖人を描いた聖画像・iconは、教会内に掲げて文字が読めないひとたちに聖書の物語や聖人の事跡の説明に用いられました。
野地 秩嘉
(のじ つねよし、1957年〈昭和32年〉2月27日 - )は、日本のノンフィクション作家、日本文藝家協会会員。東京都生まれ、早稲田大学商学部卒業。祖父の野地嘉平は大日本帝国陸軍中将1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社に勤務[1]。美術展のプロデューサーなどを経て、ノンフィクション作家に転身[1]。人物ルポルタージュをはじめ、ビジネス、食や美術、海外文化などの分野で幅広く執筆[1]。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞[2]。日本文藝家協会会員[3]。著書に『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『高倉健インタヴューズ』『トヨタ物語』『スバル ヒコーキ野郎が作ったクルマ』『日本人とインド人』『京味物語』『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』ほか著書多数[1]。現在、50代からの旅と暮らし発見マガジン『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を執筆連載[4]。
「わたしの場合の贅沢とは簡単だ。楽しみ方を教えてくれる人、快感を伝えてくれる人と過ごす時間が贅沢と言える。 例えば山を散策する時、ひとりで歩いてもおもしろくはない。汗はかくし、足は疲れる。苦しいだけだ。ところが素晴らしい同伴者がいるとたちまち黄金の時間に変わる。たとえば湯布院の旅館「玉の湯」会長の溝口薫平さんである。彼は近所の山に生えている草花や樹木の名前をすべて知っている。昆虫や鳥についても詳しい。彼の解説を聞きながら山歩きをしていると、草や木に親しみが湧き、時間が経つのも忘れてしまうし、疲れも吹き飛ぶ。 動物園で贅沢を味わうとしたら、旭川市の旭山動物園がいい。園長の小菅正夫さんは動物園の楽しみ方を教えてくれる人だ。彼はたとえば象について教えてくれる。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「美術館にはちゃんと楽しみ方があるんです。それを教えましょう。とりあえずニューヨークがいい。私が暮らしている町だし、いい美術館も多い。チェルシーには最先端の作品を置くギャラリーがある。それにニューヨークには町のなかにもアートがあるんだ。……焼肉とホットドッグもうまいしね」 画家は絵を描くだけの人ではない。描く前に数多くの美術作品に接し、作品を消化吸収している人だ。そういった人に同伴してもらえばきっと美術館も楽しい場所になる……。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「みなさん、最初に申し上げますが、美術館は決して重苦しいところでもないし、権威的なところでも、つまらない場所でもありません。そして、絵は恐れ入って見せていただくものではなく、楽しみながらおもしろがって「読んでいく」ものです。「絵を読む」ことについては、おいおい説明するとして、まずは、美術館では楽しむことを頭に置いてください。「おもしろいものを見つけてやろう」という気持ちで美術館に入っていきましょう。美術館とは勉強するところではなく、発見の場なのです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「中世の宗教画や一九世紀のアメリカ・ハドソンリバー派の絵画を見ると、小さな葉っぱの葉脈までひとつひとつ描いているような作品に出会います。なぜ、それほど細かい部分までいちいち描いたかと言えば、それは作者にとって絵を描くことは祈りであり、筆を運ぶことは神との対話だったからです。少しの手抜きもなく、細密な表現をすることは、自分の祈りとしての仕事を神に認めてもらう行為だったのです。私はゴッホの絵を見るたびにそれらの宗教画を思い出してしまう。絵のなかにゴッホの祈りが現れているように感じるのです。ゴッホにとっての絵は神との対話でした。決して褪色してはならない絶対の神聖な価値だったのです。だからこそ最高の絵具を使う必要があったのでしょう。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「当たり前の話ですが、画家は私たちと同じ人間です。どれほど天才であっても、やはり人間なのです。その人間がどういう状態でキャンバスと向き合ったのかを思い浮かべるだけで、絵を読み解くことが容易になってくるのではないでしょうか。どうやって筆を持って、どのくらいの量の絵具をつけていたのか、作品はすべてを手つかずのまま、そのままに残してくれています。タイムカプセルみたいなもの、とも感じませんか? 当時屋外で描いた絵なら、とんできたタンポポや、時には土や藁もついているはずです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「 今から考えれば実にもったいないことだったのですが、でも、そういうしまった、もっと見ておくんだった、という段階を経て、絵や彫刻に向かい合う自分ができたのだと思っています。人から教えてもらうことなど何ひとつ残りません。すべて自分で身につけていくものだけが心に残る。それが美術の世界です。 ニューヨークの美術館で感じるのは見ている人たちが声高ではないけれど、つねに談笑していることです。話をしながら館内を歩いています。子供たちもキュレーターの説明を聞きながら、目を大きく見開いたり、わくわくした様子で楽しんでいる。そこにあるのは教養としての美術ではなく、生活のなかの楽しみです。作者とのイマジネーションをめぐるコミュニケーションです。あなたはいったい何をやろうとしたのですか、という作家との心の対話なのですね。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「私が美術館で学んだ大きなことは、「答えは作品のなかにある」ことです。絵を描いていると、つねに自分のなかに問いが生まれてきます。その答えはどこにあるかと言えば、美術の研究書のような文献には載っていません。すべては実際の作品のなかにあります。私は迷いを持って美術館にやって来ることもある。そこで作品に相対して答えが見つかったこともしばしばあります。今や画家である私にとって、美術館とはそれくらい大切な存在なのです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
パリへ出たピカソは創作に励み、「アヴィニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館蔵)を描いたのは一九〇七年のことです。アヴィニョンとはバルセロナにある娼婦がたむろする通りのことで、ピカソはこの作品でキュビズムを確立したと言われています。しかし当時は、まったく誰からも評価されなかった。仲間からも酷評でした。しかし彼には信じる自分があったのです。理由のない自信、とでも言いましょうか。実はこれがとても大切なのです。この熱意というエネルギーで美術史は動くのだと、歴史は教えてくれています。 美術館でピカソを見て驚くのは、まずは作品数の多さではないでしょうか。どこの国の美術館へ行っても、ピカソだけはひと部屋分の作品がある。そんな画家はピカソしかいません。彼は生涯に三万点の作品を残したと言われていますが、それがどれほどすごいことなのか……。毎食後一枚ずつ描いていた、とも言われています。ものすごい熱意です。このエネルギーはどこから来るのか、とあらためて考えてしまいますよね。 私が画家になってからすでに二五年経っています。 「一年で二〇〇枚の作品を描きます」 そう言うとたいていの人はびっくりしてしまう。しかし、そのペースで仕事をしても、生涯に一万点は無理なんです。それなのにピカソは三万点を超す作品を残している。大作も多い。絵だけでなく、彫刻や陶器もある。巨大なエネルギーを持った人なのです。だからこそ見る人に勇気や元気を与えることができるのだな、と思います。元来芸術とはそういうもの。そう考えると、健康こそ芸術にとってもっとも大切なもの、ということに気がつきます。健康感あっての熱意が生む美であり、感動です。
「ルノアール、いわゆる泰西名画の本家本元ですね。つまりいわゆる洋画、とか油絵、と聞いて、まっさきに多くの人が頭に浮かべるものです。ハイカラの代名詞で同名の喫茶店もあるくらいです。明るい何とも平和なイメージです。 彼は一八四一年、フランスのリモージュに生まれています。リモージュは磁器の産地として有名なところで、ルノアールは十三歳から絵付けの仕事をするようになります。皿に絵を描きながら画家になる夢をあたためていたのでしょう。その後、二一歳で国立美術学校に入学し、在学中にモネ、シスレーと出会っています。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「すごく疲れている時、重苦しい気分になって助けがほしい時、そんな時にルノアールの甘く温かい絵を眺めると、ほっとします。そうしてみるとやはりこの人はとてつもない天才、と思えてきます。すべてを超えて人々に、何か難しいことで悩んでいるのが馬鹿馬鹿しい、と感じさせてしまうのですから。 自殺したくなったら、この絵を見ましょう。それが馬鹿馬鹿しく感じますよ。そんなのやめやめ、という感じで。 とにかく、喫茶店へ行って紅茶を一杯飲んでから考えよう、と言っているルノアールの声が耳に届くようです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「想像をすることによって、一五世紀の画家の姿は生き生きとよみがえってきます。絵というものは歴史の残りものではなく、僕らと同じ人間が汗を流して描いたものだという実感をつかむことができる。腕の長さもだいたい想像できますから、実際当時の画家が絵を描いた位置にそっくり立って、腕を伸ばして筆を持った気になってみることもできます。文字通り相手の立場に立って考えてみる、ということの実践です。私は美術館における最大の喜びとはそのようにして画家を身近に感じることだと思うのです。想像力を駆使すれば、彼らはいつでも私たちのそばに降りてきます。そうしたらしめたもの。後は降りてきた画家と対話しながら絵について語り合えばいい。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「しかしひとつ提案があります。みなさん、次に美術館へ行った時、人物画の前に立った時、耳に注目してください。ほとんどの方は人物の耳を見ることなく、絵を見終わっているのではないでしょうか。耳は描くのが難しい。けれども、あまり注目されるものではないから、一番手抜きしやすいところでもある。実力も出る。ヘタな画家の描いた耳はヘンな形のものです。レンブラントやフェルメールが描いた人物画の耳を見るといい。一流の画家が描いた耳を見ると、あっさりと上手に表現していることがわかります。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「美術館には何度も通ってください。ちらっと眺めるだけではおもしろくありません。絵は何度も見るものです。そして毎回違うものを感じさせてくれるものが出会うべき名作です。絵を読み説く力をつければ、美術館で過ごす時間がいっそう楽しくなります。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「MoMA、ニューヨーク近代美術館。 創設は一九二九年。収蔵品は一〇万点を超える。 カタログにはこんな前文が載っている。「当館は学習のための実験室、つまり同時代のもっとも果敢でもっとも難解な美術をほんの少し前の過去が達成した美術と比較して評価するための場所」 カタログの文章もすでに難解だ。要は「うちはわかりにくい絵や彫刻もたくさん展示してますよ」ということになるのではないか。「果敢で難解な美術作品」がいくつもある美術館だが、ニューヨークへ行くのならば外すことはできない。「難解な作品を制覇してやろう。楽しんでやろう」という意気込みが大切だ。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「否定する意見をも認め、取り入れるという態度は、異なる他者に囲まれ、かえってその存在が際立つことで成立しているニューヨークのアート・シーンの象徴のようなもの、とも言えそうですし、またアメリカ人独特のアンチヨーロッパ的皮肉ともとれそうです。そもそもアメリカ文化はアンチヨーロッパ的な文化土壌から生まれた文化ですから。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「マルセル・デュシャンの作品「自転車の車輪」があります。現代美術のなかでも、彼の作品は先ほどのアンディ・ウォーホルやトニー・クラッグとはまた別の意味を持っています。「自転車の車輪」はマルセル・デュシャンにとって初めて作った「レディメイド」です。レディメイドとはその名の通りすでにあったものを美術品として展示すること。厳密に言えばこの作品の場合、自転車の車輪を台所の椅子の上に固定しているわけですから、「制作」という工程も入っています。 日常の道具や商品を美術のために使ったのはデュシャンだけではありません。しかし、彼は「美術作品の制作とはものを選択すること」と提議しているところが他の作家とは違います。 一九一七年、デュシャンが三〇歳の時のことです。彼は「マット」という名前で独立芸術家協会展にレディメイド作品「泉」を出品しようとします。「泉」は陶製の便器でしたが、それにサインをして横に寝かせた位置から見るように設置し、それを美術品だと主張したのです。協会は展示を拒絶。怒ったデュシャンは協会から脱退してしまいます。デュシャンがやったことは当時の美術界から非難されるべきことでした。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「でも、もしデュシャンが便器を展示しようとしたのがニューヨークではなく日本だったとしたら、いったいどうなったでしょうか。私は意外とすんなり出品できたように思うのです。 お茶の世界には「見立て」があります。千利休は漁師が使っていた魚籠を美しいと見立てて、一輪挿しにしました。大陸の骨壺も水差しに使ったようです。高価なものにだけ価値を認める当時の風潮に、美とはそんなものではない、とまったく新しい考え方を示していったのです。日常の何気ないところに美を感じる姿勢の素晴らしさです。恐るべき美意識です。デュシャンのレディメイドも、この見立てに通ずるところがあるのではないでしょうか。 アンディ・ウォーホルやトニー・クラッグの場合は大量生産品やがらくたに手を加えて崇高なものに高めていました。似ているようですが、デュシャンがやったこととは少々意味が違います。デュシャンは彼の作品を通して「芸術とは何か」「何をもって芸術とするのか」を問いかけたのです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「MoMAにはジャクソン・ポロックの作品がいくつかあります。そのうち初期に描いた「雌オオカミ」といわゆるアクションペインティングとして知られることになった傑作「ワン No 31, 1950」のふたつを取り上げてみましょう。「雌オオカミ」を見ると彼がネイティブ・アメリカンのアートに影響を受けていることが読みとれます。ネイティブ・アメリカンが暮らすテントを「ティビ」と言いますが、そのテントには動物や人間を描いてあるものがあります。ポロックの「雌オオカミ」はその絵に似通っているのです。また、この時にはまだ彼は絵具を垂らすいわゆるドリップと言われる手法を完成させていなかったこともわかります。ただし、抽象的にオオカミの輪郭を描いたなかに絵具が飛散しているような痕跡が見られますから、ポロックはこの絵から出発してドリップ――アクションペインティングへと向かっていったのでしょう。どの画家の例もそうですが、注意深くみれば初期の作品には後に花開く前触れがひそやかに息づいているものです。それがこの雌オオカミの絵にも読みとれるわけです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「ああ、あそこに彫刻がある。彫刻作品の読み方も少し考えてみましょう。これはジャコメッティ。「細長い彫刻を作る人」と教科書で習ったことがあるのではないでしょうか。 ジャコメッティは一九〇一年、スイスで生まれました。父親のジョバンニ・ジャコメッティはスイス印象派の画家として有名です。彼は父の影響もあり、子供の頃から絵の勉強をし、ジュネーヴの美術学校を卒業します。二二歳までは画家を目指し、本格的に彫刻と向き合うようになったのはパリに出て勉強を始めてからのことです。 二五歳の時、ジャコメッティはパリの民族学(人類)博物館でアフリカやオセアニアの彫刻と出会います。生活のために家具製作の仕事をしながら、彫刻の仕事をしていくのですが、細長い彫刻を作り始める四六歳までは作風はどんどん変わり続けました。つねに何かを求めていたというのがジャコメッティの創作態度だったようです。 細長い彫刻は発表と同時に話題になりました。特にアメリカで人気となり、名声が確立したのです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「特にジャコメッティのスレンダーな作品はこのことがわかりやすい。こんな豊かな空気の層を、こんながりがりの骨みたいな形が支配しているのですから。さすがと言う他ありませんね。これがジャコメッティの魅力。周りの空気を感じようと、見に行ってください。さあ空気を見に行こう、これが彫刻作品と接する態度です。「ああ、格調高い空気だな」と楽しんで下さい。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「日本の場合、美術館へ行くことは勉強であり、教養を身につけるのが目的となっている。息を詰めて展示品を見つめる人が多い。あまりおもしろそうではありませんし、気の毒になってくることもあります。もっと楽しめるのに、と。 ニューヨークでは映画を見るのもジャクソン・ポロックの絵を見るのも同じ楽しみです。恋人同士が絵について読み解いた視点を語り合ったりしている姿もあれば、雨の日の散歩道として美術館を利用している人もいる。教養を身につけたいのではなく、それぞれが自分なりに美術館を使いこなしているように見えます。空間に包まれやすらぎのひとときを楽しんでいる人もいれば、美術の先生に引率されたうるさいくらいに質問している子供たちもいます。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「教養主義に毒されて美術館へ行っても楽しくない。どうすれば自分が楽しめるかを工夫してみてください。楽しんでいるうちに美術への興味が湧いてきます。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「私はアートとは普通の人間にとって必要なもののことだと思っています。どうしても必要だから消えずに残っているのです。ピカソやマティスの作品は今では最先端の作品ではありません。しかし、彼らの作品には人間の原点の姿、愛、夢、喜びといったものが垣間見えます。そういうものを失った人、どこかに置き忘れていた人が彼らの作品に出会うと励まされ、勇気付けられる。人間として大切なことを思い出すのです。時には涙を流すくらい感動する。それに対してショックとセンセーションだけを強調した作品を見た時の感想は「ああ、おもしろかった」とか「もっとショッキングなものはないかな」になってしまうのではないでしょうか。 美術館にあるからといってすべての作品を拝む必要はありません。拒否することはないけれど、今の自分にとって必要なものかどうかを判断するのは美術館の学芸員ではなく、美術評論家でもなく、つねに自分自身の絶対の正直さ、健全さだと忘れないでください。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「私がニューヨークに住まいとアトリエを置いたのは、そこがアートの中心地だからです。そして、もうひとつ、ニューヨークには世界のあらゆる人種、あらゆる思想の人が集まっているからです。しかもここでは、それぞれが交じり合うことなく、自らの個性を主張しながら暮らしています。「人種のるつぼ」ではなく、「人種のサラダボウル」と言われるゆえんでしょう。まさしく地球という星のミニチュア版がニューヨークなのです。 私には「美はすべてを超える」という考えがあります。もし、そうであるとするならば、地球上のすべてがあるニューヨークで作品を作り、評価を受けることが私の考えを証明することだと思いました。それでニューヨークにやってきました。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「アメリカの公立学校と言うと、みなさんは貧しい人や移民が主流で荒れている学校というイメージがあるのではないでしょうか。むろん、貧しい人も移民もいます。しかし、それだけではありません。公立学校には大金持ちの子供も通ってきます。もちろん、なかには私立の学校へ子供を入れる金持ちもいます。けれども、私の周囲のエリートと呼ばれる人たちはどちらかと言えば自分の子供を同じ階級の人たちが集まるような閉鎖的な私立学校へは行かせません。白人もいればマイノリティもいる、背の高い人も低い人もいる、貧しい人もいれば豊かな人もいる、身体障害者もいるし健常者もいる。そうしたニューヨークの縮図、地球の縮図みたいな学校へ子供をやることが教育だと考えているのです。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「日本でエリート教育といえばガラスの温室を作り、そのなかへ同じような環境で育った子供を入れる、といった概念になってしまう。しかし、アメリカを指導する層は多様性を学ばせたい、と考えているようです。スクールバスの乗り降りも、ハンディのある子を皆で助ける、クリスマスにひとりプレゼントをもらえない貧しい家庭の子に心をいためる、心に病のある子を皆であたたかく見守る、そんなことがいつも食卓の話題にのぼります。弱者の立場を想像することを学び、人に対するやさしさを知ることが本当のエリートを育てる教育ではないでしょうか。こんななかから本当の指導者は生まれるのかも、と思うのです。友達のために何とかしたい、という子供たちの心をはぐくむことは何よりの勉強でしょう。それぞれの人間が同質でないニューヨークにいることは私にも家族にも、想像することの大切さを教えてくれました。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著
「千住さんが言っていたように「描くことがすなわち祈り」でなくてはとてもできない。祈ることで集中力を増し、そして、神に向かって問いかけながら作品を描いていったベリーニの精神状態はどういった感じだったのだろうか。絵を見ると、葉脈を描く筆は少しも乱れていない。すーっと一本の線を引いている。やすらぎと集中がなくては完成できない。おだやかで落ち着いていなくては細かい部分まで目が行かないだろう。ジョバンニ・ベリーニの絵を見ているうちに、わたしは自然に画家の精神状態を想像していた。千住さんが付いていなくとも、わたしは絵の前で画家の気分になっていたのだ。」
—『ニューヨーク美術案内 (光文社新書)』千住 博, 野地 秩嘉著