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72歳になった著者が他人事ではなく、鶴見俊輔『もうろく帖』の「老い」をじっくり考えぬく。家族にとっての老いは不朽の名作『恍惚の人』、谷川俊太郎の棺のそばで思ったこと、3歳下の実弟の死から身近な血縁、ひとりで死ぬことを思う。注目の思索エッセイ。
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Posted by ブクログ
恍惚の人のところでぼろぼろ泣いてしまった、家族の老いにとことん付き合う勇気がもてた。高橋源一郎も最後の最後まで書く人であるんだろうな
筆者のラジオ番組「飛ぶ教室」を愛聴している。だからか文章を読みながら高橋源一郎本人が朗読しているように感じながら読み進めた。 認知症になって世を去った父や祖母のことを思い起こすことも多かった。 人は老いる。死ぬまでその人生を生きなければならない。戸惑いながら、戸惑わせながら生きて死ぬ。偉い作家も、偉...続きを読むい思想家も最後は老いて死ぬ。 私は若い頃、老いていく祖母を見ていて人は老いるにしたがってどんどん幼児から赤ちゃん、そして生まれてすぐの新生児のようになるのだなと思ったことがある。 これを読んで、やっぱりそうなのだな、と思った。 人は生物として生きて死ぬ。老いるというよりずっと変化していく。変化が終わったら死ぬ。 生命はどこかからやってきて変化しながら80年、90年、時には100年過ごしてまたどこかに行くのだな、そんなことを思った。
ラジオを毎週聞いてるので、彼の考え方に共感して読んでみた。正直に、源一郎さんなりに細かく暗中模索しながら、進んでいるのがよく伝わった。人柄かをとても出ているし、私はそれが好きだし、考察をしながら読み進めるという感じの本。こういうのもありだと思った。ラジオを聴いているからか、すごく読みやすかったし、共...続きを読む感して涙も出た。、
ああ凄くよかったなあ。今年読んだ中では小説なども含めても一番良かったかもしれない。一冊がまるで長い詩のようだ。重いし切ないしむなしいし悲しいけれど、老いを先達の言葉から知っておくことはそれこそよりよく老いるために絶対的に必要であると。
高橋源一郎さんの「ぼくたちはどう老いるか」を読んだ。簡単な言葉で書かれているんだけど、中身は深奥までずしんと響いた。 鶴見俊輔の「もうろく帖」、ハルノ宵子の「隆明だもの」、有吉佐和子の「恍惚の人」、耕治人の晩年の私小説、谷川俊太郎の死、高橋源一郎の弟の死などを取り上げ多角的に「老いる」ことについて、...続きを読む自分自身、家族、社会にとってどうなのかが書かれている。 この中で一番衝撃的で考えさせられたのは耕治人の私小説だった。経済的に苦しい親類もいない夫婦二人の人生の終わりが描かれている。 長年売れない貧乏作家を文句も言わずに支えてきた妻が認知症で壊れていく様子。ガスの付けっ放し、夜中にご飯の支度、糞尿の垂れ流し、そして徘徊。妻の介護を献身的にしてきたが自身も癌の末期と判明し入院を余儀なくされてしまう。 老人ホームに入った妻に最期ひと目会いたくて病院へ連れてきてもらうが、「夫さんですよ」と付き添いの人に言われれても「そうかもしれない」と妻は言うだけ。その言葉に打ちのめされる。 あまりにも悲しい結末だけれども、これは特殊な例ではなく、日本中どこにでもあり得ることだと高橋源一郎さんは言う。 この本には「老いる」ことについて答えが書いているわけではない。考えても答えに近づくかどうかもわからないけれど、考え続けて行かなければならないことだと思う。
自分が歳を取ったということを超えて、初めて切実に「老い」と向き合う大変さを感じた本。経済的とか介護といったことだけでなく、何より生身の人間として、科学的にいえば脳機能ということなのだろうが、感情とかその表現とか…。自分がどう受け止められるかわからないが、受け容れる心を維持できていればと願う。
老い、死、人とは、切なく、哀しく、寂しさを感じ、考えさせられる。そんなことを考える年になったのが苦しい
高橋源一郎は、72歳になった自分自身を起点に、「老いるとは何か」を真正面から見つめる。本書に通底するのは、老いを美化も克服もしない、しかし絶望とも同一視しない、独特の距離感である。老いとは「もうろく」だと彼は言う。つまり、一生懸命に考えることができなくなっていく過程そのものだ、と。 第1部で語られ...続きを読むる哲学者・鶴見俊輔の「もうろく帖」は、その象徴だ。69歳から77歳にかけて書かれた記録は、「役に立たなくなる自分」を引き受ける試みでもあった。うつ病を「もうろくの稽古」と呼び、癌で入院し、自分がよぼよぼの老人であることを認めるには「日々の努力」が必要だと言う。その姿は、老いとは衰退ではなく、自分という拠点から少しずつ撤退していく作業であることを教えてくれる。受信はできるが、発信ができない状態で3年9か月生きた鶴見の晩年は、なおも人間が好奇心を持ち続けられる存在であることを示している。 老いは個人の問題にとどまらない。第2部で描かれる吉本隆明の晩年は、偉大な思想家であっても、老いの前では例外ではないという事実を突きつける。書斎の机の前に座りながら、自分がどこにいるのかわからなくなる瞬間。精神は活発であるが、身体と外界との回路が閉ざされていく苦しさ。妄想や子ども時代への郷愁は、老いが人を「内側の世界」へと押し戻していく過程でもある。 有吉佐和子の『恍惚の人』が描いたのは、老いる本人ではなく、老いを引き受ける家族の物語だった。異物となっていく夫、疲弊する妻と娘。老いは個人の病ではなく、家族全体を静かに侵食していく文明病であるという指摘は、いまの超高齢社会の日本において、より切実な意味を持つ。 私小説作家・耕治人の章は、とりわけ胸に迫る。認知症で変わっていく妻と、癌を抱える自分。「あたしもう洗濯ができないわ」という言葉、排泄物の世話、この世で会う最後の日――。老いは尊厳を奪うが、それでも作家は「老いを観測する義務」を手放さない。妻の記憶から自分が消えていくことを、冷静に、しかし深く悲しみながら見つめる視線が、老いの現実を最も誠実に語っている。 特別編「二人の俊」では、詩人・谷川俊太郎や金子光晴の若々しい老いが示される一方で、高橋自身の実弟である「トシちゃん」の死が静かに語られる。身近な死は、思想や文学よりも直接的に、「老いと死」が他人事ではないことを突きつける。老いるとは、他者の死を見送り続けることでもあり、そしていつか自分もまた見送られる側になるという事実を引き受けることなのだ。 本書を読み終えて強く残るのは、老いとは「自分を失うこと」でありながら、同時に世界との関係を組み替え直すプロセスでもある、という感覚である。国家や社会から町内へ、友は少なくなり、発信力は衰える。しかし、ゆっくり読むこと、花の美しさに目を留めること、壊れていく自分を観察することは、なお可能だ。 『僕たちはどう老いるか』は、老いの処方箋を示す本ではない。むしろ、「まっすぐ老いや死に向かっていく」覚悟を持ちながら、それでも最後まで考え続けようとする人間の姿を描いた記録である。老いから逃げないこと。そのこと自体が、老いた人間に残された、最後の知性なのかもしれない。
高橋源一郎が「老い」をテーマにした雑誌収録のエッセイ集。題材として取り上げる作家とともにタカハシさん自身も1951年生まれなので今この時点で74歳で老境の域に入っていると言ってよいだろう。この本に書かれたこともタカハシさんの老いを色濃く反映している。今の時点で能力が劣化したというよりも、これから劣化...続きを読むすることの覚悟、そして何より死してしまうことへの強制された覚悟が見てとれる。語るもの自身が、老いの「当事者」となっているのだ。もちろん、それを読む自分にとってもそれは当てはまる。 銀行が七十歳以上の人には融資できないというような個人的な経験を通して、タカハシさんは老いについてこういう。 「七十歳」前後を目安にして、「老人」たちは少しずつ「社会的な死」を迎えるのだ。社会から「もう「必要ない」と、そっといわれるのだ。あなたの役割はもうないのだ、と。ぼくたちには、「肉体的な死」の前に、「社会的な死」があるのだ。そのことも考えてみる価値があるだろう。ぼくはそう思った。」 この本には何人かの七十歳を超えて死を迎える人の話が出てくる (恍惚の人は実在の人ではないけれども)。鶴見俊輔、吉本隆明、有吉佐和子『恍惚の人』、耕治人、谷川俊太郎、そして実弟の「トシちゃん」。どの人の話もタカハシさんの手によって心に刺さるものになっている。特にぐっとくるのが私小説作家の耕治人の最後の小説『そうかもしれない』の話だ。 何人もの老いの記録について書いたあと、タカハシさんは次のように綴る。 「ぼくは、自分の「老い」と付き合いたい。自分の「死」に向かい合いたい。それは、あまり愉快なことではないのかもしれない。けれども、そこには、「老い」や「死」と付き合い、向かい合うことの中には、ひとにしかできないことが含まれているのだ。そのためには、その日を迎えるために、ぼくたちは、これから起こることを知らなければならないのだ。」 癌に侵されても「考える」ことを止めない鶴見俊輔さんの『もうろく帖』に触れた章で、「考える」ことについて次のように語っている。 「「癌」になる、「癌」のことを考える。それはいい。けれども、「癌」のことしか考えられなくなったら、それはよくない。それは「癌」に支配されてしまうことだからだ。 支配されてはならない。それがなにであっても。 (...)なぜなら、それは自発的に「考えている」ように見えて、実は「考えさせられている」からだ。「癌」というものがやてって来て、それに支配されて、考えさせられている。それは、自分の力で、内発的に「考える」のとはちがうのだ。」 「癌」のところに別の病気を入れてもいいだろうし、「老い」でも「死」でもいいかもしれない。タカハシさんはこれから自らの「老い」と「死」について考えて、先に取り上げた先人がしたように、自らの「老い」について「考えて」、それを書き残してくれるはずだ。そして、その後に続く「ぼくたち」もそれを読んで「考える」ことになるのだろう。そのことをずっと期待しているので、ぜひタカハシさんにはぽっくり急死するのではなく、長く老衰していってもらいたいのである。
源一郎さんは好きなんだけど、やはり難しくてよくわからない部分が多々ある。 鶴見俊輔さんの「もうろく帖」私小説の耕治人さん、最後の谷川俊太郎さんの話は途中でついて行けなくなった。まあ、私の理解力が原因だけど。 しかし吉本隆明さんについて書かれたハルノ宵子さんの「隆明だもの」は読んでみたい。有吉佐和子さ...続きを読むんの「恍惚の人」、大昔に読んだ記憶はあるが(当時私が若すぎた)、改めて先見の明に驚くばかり。 読んでいる途中、施設に居る義父に会いに行った。 とりあえず私が誰かはわかっているし、会話も成り立っているふうだが、記憶はほとんど飛んでいる。 あんなに強行で暴力的な人だったのに、今はちんまりしたじーさん。 あれだけ嫌悪しまくった嫁(ワタシ)に頼らざるを得なくなった年寄り、おそるべしと言う感じだが、もはやケンカの相手にもならないのでどうでもいい。 恍惚の人の昭子のようにはなれないけどね。 そこで我が身のことに気持ちを移すと、どうにもどんよりしてきてしまう。 日ごろから「長生きはしない」と言っているが、自分の希望通りに死ねるわけでもなく、ただただ気持ちが落ち込むばかり。 源一郎先生に人生相談しようかしら・・・
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高橋源一郎
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