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Posted by ブクログ
阿弥陀とは待つ人なのかも知れないね。自然、他力、念仏。全ての人を救うと誓い、ただただ待つ人。いつでもそこにいてくれる人。
我々や他の誰かではなく、私のため。誰にとっても私のため。それに違いなどないし嫉妬したり僻んだりするのもおかしな話。でもそう思ってしまうのもほんと。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
我々は、常に既に、ひとりかも知れない。でもだからこそ、他人がいることの有難さが在る。
読んでいたら、あとがきでドストエフスキーと文学、ことばについて。
最近考えていた、仏教学、仏教教育とは何か、ということ。
救われるとかそういうことを知ることではない。
人生は苦しい、というそのことだけかも知れない。
加えて太宰治が!
「ひとへに親鸞一人がためなりけり」
ある言葉に出会って「これは自分にしか分からない」と思うこと。
個人として考えことばをつむぎことばを届ける。
Posted by ブクログ
親鸞。
学生時代に吉川英治の小説で読んで知った。
のちには五木寛之の小説で読んだ。
でも、親鸞の言葉を記した歎異抄を読むのは、初めてだ。
「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」。
他力本願。
念仏。
これらの言葉はもちろん小説を通して知っていた。
でも、意味が分かっていたか、と言われれば、怪しいものだ。
今回の高橋源一郎さんの訳を通して、改めて考えた。
この新書にも、いや、歎異抄自身にもあるが、
「意味もわからず念仏を唱えるだけで浄土に行けるなんて、おかしい!怠けてる」
そう考える。多くの人はそう考える。
努力もしないでいい思いができるわけがない、と。
親鸞は違う。
もっと深い。
今回そこを考えた。
努力したから、勉強したから、これだけやったからその引き換えに浄土に行けるだと?
阿弥陀様はそんなもんじゃない。
何を勘違いしてるんだ。
お前がやったことはそんな偉いことじゃない。
人間は無力だ。
学があるやつが浄土に行けて、字も読めない者は行けないというのか。
阿弥陀様は、浄土はそんなものではない。
無心で念仏を唱えさえすれば、浄土に行きたい、と思いさえすれば、だれでも行ける。
善行悪行も同じ。善行をしたから浄土に行けるのではない。
善行も悪行も自分の意志だけではどうにもならないもの。
阿弥陀様はそんなものは見ていない。
唱えること、浄土に行きたいと思うことがすべてなのだ。
人間は無力だからこそ他力本願で、念仏を唱える。
無心だろうが、苦痛だと思おうが(親鸞自身そういってる)構わない。
とにかく現世の苦しさ辛さから逃れたい、浄土に行きたい、と思うことが大事。
その思う手段として念仏を唱えるのだ、と。
・・・高橋さんの訳を読みながら私なりに解釈したのは上記。
そう、思えばいいんだったら念仏も唱えなくてもよさそうだけど、
人間おろかだから、何かしないと違うことを考えちゃう。
だから唱えて、祈るのだ。
・・・今の私にピンとこないのは、
そうまでして浄土に行かなくてはいけないのか、ということ。
これはわからない。
今がそれだけつらい、苦しい、ということか。
宗教なんてそういうものなのかもしれない。
でも、私は私自身で生き方を考える。
読書がその支えだ。
1(アミダのお誓い;ジゴクこそわたしにふさわしい場所;悪人だからこそゴクラクに行けるんだ;ジヒってなんだ;いくらネンブツをとなえても誰も救えない;ネンブツはアミダからの贈りものだ;ネンブツは自由だ;ネンブツは、「修行」でも「善行」でもない;ぼくは告白した)
2(もしくは、ぼく自身のための序文;アミダのお誓いの不思議な力;信じてもいいし信じなくてもかまわない;「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいった;みんなを救う、ひとりも捨てない;アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く;ほんとうの「回心(エシン)」は生涯にただいちど
ジョウドのかたすみに転生(テンショウ)したって大丈夫
寄進やお布施なんか必要ない)
その二 ジゴクこそわたしにふさわしい場所その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだその九 ぼくは告白したその十三 「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいったその十四 みんなを救う、ひとりも捨てないその十五 アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの 「苦海」を渡り、いつかジョウドの岸辺にたどり着く*宗教ってなんだ(『歎異抄』(タンニショウ)を「翻訳」しながら考えたこと)ネンブツと文学/ただひとりのために/正しそうなものには気をつけろ
宗教ってなんだ(『歎異抄(タンニショウ)』を「翻訳」しながら考えたこと)
Posted by ブクログ
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
で知られる歎異抄。この言葉の意味、わかるようでやっぱりよくわからない。
ただ、この本のおかげで少しはわかった気がするし、そもそもわからなくてもよい気がする。この本に出てくる親鸞は、穏やかに、そういうことではないんだよと言ってくれそうです。
ー「シンラン」にはわかったのだ。「ふつうの人」のこころの中にはそんなものはないのだということが。「念ずるこころ」も「菩提心」も「慈悲心」も、「ふつうの人」にとっては贅沢品なのだということが。そんなものよりもっと単純で、もっと根本的なものが、そこにはあるのだ。ただ「つらい」があるだけだ。「死んだら楽になれるのかなあ」という淡い思いがあるだけだ。
上記の解説から、浄土真宗が民衆に広まった理由がよくわかる。やさしくやさしく書かれていて、宗教って本当はとびきり人間に優しいものなのかもと思えるような内容だった。
Posted by ブクログ
文化人×仏教ものは回避がちなのだけど周囲の評判がよかったので読んでみた。
これはすごくいい。高橋氏が『歎異抄』を自分のことばで現代語訳をしている。これは高橋氏の読み方、受け取りなのだ。それを自分が読みながら、自分の読み方、受け取り方を確認していくような、ここは一緒だな、似ているな、違うなと対話していくような読書経験ができる。
「あとがきのあとがき」、「名前を呼ぶこと」がこの本の意図をしっかり語ってくれている。高橋氏ならではの文学、演劇からのことばのうけとめはとてもよかった。
これを教科書的に正しい一つとして読むと言うのではない。あくまでも『歎異抄』を読んだひとりの人間の受け取りを聞くのだ。
”できうるなら、みなさんも自ら「翻訳」することで、『歎異抄』ではなく、みなさんひとりだけの『タンニショウ』に出会えるといいと思う。あらゆる本は、いや人間が作る者はすべて、そのように「一対一」の関係の中で出会うべきものなのだから。”
『歎異抄』を知らない方が初見で良さを分かるよさはことばの魅力中心かもしれない。そして高橋氏の出会った「フジイクン」を感じるのだろう。高橋氏もあくまで自分は宗教的な見方でこれを書いているのではないとされている。
親鸞聖人の教え、真宗になじみのある方は一層感じるところが深くあるだろうと思う。おすすめ。
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