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「子ども、もらってくれませんか?」――彼氏の郁也に呼び出された薫は、その隣に座る見知らぬ女性からそう言われた。薫とセックスレスだった郁也は、大学時代の同級生に金を払ってセックスしていたという。唐突な提案に戸惑う薫だったが、故郷の家族を喜ばせるために子どもをもらおうかと思案して……。昔飼っていた犬を愛していたように、薫は無条件に人を愛せるのか。第43回すばる文学賞受賞作。「おいしいごはんが食べられますように」で第167回芥川賞を受賞した高瀬隼子のデビュー作!
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Posted by ブクログ
「子ども≠愛の形」ということが言語化された作品です
30代の女性が独身のまま過ごすか、それとも結婚して家庭を持って過ごすかについて、外野の立場では個人の自由だ、全くもって強制される理由はないと主張するだろうが、当事者となってはどうだろうか?
親は独身の私をどう思っているだろうか、結婚して育児をしている同級生、同僚をはじめとする職場の雰囲気を無意識に感じ取り、同調圧力とは違うが、不思議と独身でいることへの劣等感に苛まれはしないだろうか?
本作は人の嫌な内面をポツポツ、ツンツン、チクチク…いやいや縁を囲い込むようにグサグサと刺してきます、同時に読後は深い余韻に包まれて、膿を摘出したようなストンと落ちる感覚を得たことは確かです。
最後に表紙にも注目しちゃいました
白と黒基調がいいですね!
ぱっと見、犬のかたちをしたふわふわの毛か綿のようなまとまりしか見えないですよね。ちょうど折り返してある部分にうまく隠れるようにそれが描かれており、細かい工夫が施されておりますよ
Posted by ブクログ
「私のほしいものは、子供の形をしている。けど、子供ではない。子供じゃないのに、その子の中に全部入ってる。」
なにかの形をしているけど、それを通して欲しいのは、それを持っていると苦しくても、苦しさですら周りから正当化されて世界がやさしくなるもの
私にとってのそれは子供ではなくて、向上心とか社会的成功とか成長とかそういうものだけど。
生きやすくなるために効率的なコスパのいい悩みが欲しいという自覚と重なるものがあって、「ーのかたちをしているもの」という語彙をこの本を通して手に入れられてよかった
「当たり前のように傷ついた、ことを自覚してまた傷ついて、なに傷ついてんだわたし、とまた‥トイレの個室くらいの狭さのところで両手にナイフを持って振りまわしているみたいな傷つき方だった。」
感じたであろうものを自然発生的に受けとめるのがどこまでも苦手で、感情を自覚して、その自覚すらも怪しんで、のループから無限に抜け出せず、もういいや、と感じることを放り出してしまう。
「目の前に本物がいるのに、待ち受けまで子供にしておく意味あるのかな?そういう親っぽさって、どこまてが本気のものなんだろう。わかんないな全然。わかるわけない」
その感情や行動は純真なものなのか、という辿り着けるはずのない問いに気づかないこともできず、どうしても気になってしまう様子の描写に救われる。
みんな本当に心からの気持ちでそういう言動に至ってるのかな?そういう時にはそう感じるべきっていうヘブ則的学習に騙されてるだけなんじゃないの?本当はこうなんじゃないの?っていうのも過剰な逆張りで私の中の予測符号化にすぎないんじゃないか?っていう、疑念すらも疑念にかわる、輪郭のないものを追っている自分の輪郭のなさに絶望する、それがトイレでナイフを振り回す様子と重なる。
「彼らの期待値とわたしの理想値はいつだって似通っている。そうありたいと、やはり思う。愛され承認され、ぐるぐる巻かれてあったかくなるために。」
世界の感触がやさしくなりますように。
欲しいのは子どもの形をしているものと犬そのものでは?とは思った
Posted by ブクログ
「水たまりで息をする」「おいしいごはんが食べられますように」「新しい恋愛」に続いて読んだ。やっぱり高瀬さんの小説は圧倒的に面白いし、読んでいて、どうしてかはわからないけど癒されるところがある。これは不思議なことだと思う。この作品の筋書きそのものには、癒されるような要素はまったくないからだ。にもかかわらず癒される気がするのは、やはり共感があるからなのだと思う。
といっても、主人公と僕はまったく違う属性・境遇の人間だ。そしてふつうの意味での共感を生むような、心理的に納得できるハッキリとしたドラマが本作のなかにあるわけではない。だとしたら、おそらくその共感は文体や感性のレベルで存在している気がする。つまりこのはっきりしない悩み方というか、あまり物事をうまく白黒に分けられない感じというか、つらつらとしていてまとまらない思考というか、強固な論理性があんまりないところというか、そういう思うがまま素直に書き連ねられている(ように見える)思考や感覚の過程に、深く響き合う感じがあるのかもしれない。
その意味では、奥泉さんの巻末解説に対しては個人的に強い違和感を覚えた。とくに気になったのは、奥泉さんが「この小説の筋立てには相当に無理がある」という主張をしているくだりだ。奥泉さんによれば、主人公が決して偏奇な人物として造形されているわけではないのに、ミナシロさんの非常識な提案をふつうなら一蹴してしかるべきところを、いったんは吟味し、提案を受け入れる方向へ向かっていくのがおかしいのだという。
だが僕はこの筋立てをまったく無理のあるものだと思わない。仮に僕が同じような提案をされたとしても、十中八九すぐに一蹴できずに迷う。そしてたぶん、恋人と話したり、ミナシロさんの立場にある人とも話したりしながら、じっくり考えるだろう。たしかに、ふつうに考えて非常識な提案だ。でも一考の余地なく退けられるような提案ではない。判断に時間がかかることだと思う。そのことのどこに無理があるのかが、僕にはよくわからない。
したがって、奥泉さんは「常識」や「偏奇」といった表現にもちろん括弧をつけて書いてはいるけれど、そもそもそういう「常識的な」価値基準を梃子として、そこからの相対的な隔たりないし近さによってこの作品を読むという読み方自体が(そしてそこからこの作品の筋に無理があると考えること自体が)、僕にとっては逆に奇妙に思える。
それはもしかしたら僕が非常識でおかしい人間だからなのかもしれない。というかおそらくそうなのだろう。でもこの作品で書かれている迷いや、悩みや、決断の根拠の曖昧さや、突発的な感覚や感情の爆発といった諸々は、最初のミナシロさんの提案への屈託だけでなく、子供をこの世に産み落とすことについての屈託、セックスを受け容れられないことへの屈託、郁也との接し方への屈託にも通底しているわけで、それをそんなに珍奇なものだとは、僕にはどうしても思えない。そしてそれは、決して珍奇ではないはずだが社会的になかなか共有され得ない経験だからこそ、こういう小説によって書かれる意味があるのだと思う。まあそれについては奥泉さんもそう書いている気がするが、やっぱり同じ結論を真逆のところから見ている気がした。
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