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Posted by ブクログ
ままならない男女の仲、ふとした瞬間に生じる感情の揺れ、静かに広がる心中の波紋を、繊細に秘めやかに切り取ったような短編集です。
吉村昭さんって骨太の歴史小説・記録文学のイメージが強かったのだけど、人間の感情の機微を、日常から瞬時に精巧に切り取る繊細な短編に、最近徐々に魅せられていっています。
収録作品は全9編。表題作の「帽子」は珠玉の作品だと思います。
癌に冒された妻を看病する夫。しかし、妻の死期は刻一刻と迫り、夫は妻のために帽子を買うが……
死にゆく妻が夫と交わした二つの約束。そのいじらしさがたまらなく切なく、そしてクライマックスの運転のシーンの美しくも哀しい描写がまた素晴らしい。
感情描写はそこまで多くないのに、情景の描写だけで、夫の心情を、妻の去り行く感じを表現する。描写一つ一つの切り取り方が素晴らしく、それが積み重なって、一つの文学に収束していく。そんな印象を受けます。
「買い物籠」はかつて、自分の家に住み込みでお手伝いをしていた少女と、時を経て再会した医師の話。
女性の魔、退屈な日常の中に訪れた、少しだけ危険な匂いのする再会。こう書くと安い昼ドラみたいな話だけど、吉村さんはそこから少しだけ距離を取って、絶妙な描き方をしていると思います。
絡められた指から、戻れない道が一瞬覗いて、それから逃れられたことを幸いと思いつつ、どこか物足りなくも思う。
言葉にしがたい男の感情を、これも情景に載せて描きます。
「牛乳」はタイトルにある牛乳の使い方が抜群! 新婚旅行で岡山を訪れた夫妻。しかし妻が偶然、旅行先で仕事先の同僚という男に会ってから、夫の中では妻に対するなんとも言えない疑念が湧いてきて……
希望に溢れていた新婚生活や妻への思いと、現実の微妙なズレ。妻の朝食を楽しみにしていた夫が、短編の最後に、朝の駅の売店で牛乳を買う姿。
夫の得も言われない感情をどんな文章で修飾するよりも、その一見何気ない描写で、新婚生活や妻への期待や思いと、現実のズレを表現してしまう。その表現力に、ただただ感心してしまいます。
「牛乳」でタイトルに書いてある物の使い方が抜群と書いたのですが、それが他の短編にも当てはまります。「帽子」「買い物籠」「踏切」「朝食」「歩道橋」
これら何気ない言葉が、短編の最後にはその物語を象徴する何かに変わり、読者の内面にさざ波を起こす。そのさざ波は切なさであったり、苦さであったり、色々なのですが、特筆すべきはそんな何気ない物に、物語を通して意味を与え、心理描写を重ねる以上の深みを与えてしまうこと。
行間を読ませる作家さんは色々いらっしゃると思うのですが、自分の中で吉村さんの右に出る人は、今後そうそう現れないのではないかなあ、と思います。
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