えええ、なんだこれは、面白いんだけど笑・笑・笑
私にとって「自分を振り返りましょう小説」で『地下室の手記』と並んでトップツーだわ。これだけ赤裸々で、しかし小っ恥ずかしくならずに笑ってしまえる小説は作者の力量でしょうか。
漢字も今と違って興味深いです。渠で「かれ」とか。遭遇すで「でくわす」とか。
36歳の文筆家の竹中時雄は中年の憂鬱の時期に差し掛かっていた。妻はもはや自分の妻というより「3人子供の母」になって心が動かない。(←あなたの子供ですよ!)
通勤中にすれ違う美人とのあんなことやこんなことを妄想する日々。
そんな時雄のもとに熱烈なファンレターが届く。差出人は岡山県から神戸の女学院に寄宿して文学を学ぶ19歳の横山芳子で「文学一筋に生きたいので弟子にしていただきたい」という内容だった。芳子の両親はクリスチャンで地元でも名家だが、時雄を東京の身元保証人として東京に出すことを承知した。
時雄は家の二階に芳子を預かり、東京での親代わり、監督役、文学の師匠として女塾に通わせることになった。
さあ!時雄の妄想が炸裂しますよ!時雄は「誰にも言っていないけどこの女は当然俺のもんだ」と決めつけて、読者に向けて醜態を晒して行くんです。
時雄は普段は「旧態の女性はダメだ。これからは新しい時代だ」と言いながら、芳子に対しては「預かったのだから」という口実の元行動を規制します。
芳子が京都の学生、田中秀夫と恋仲になったらもう大変。「君のため」と言いながらも恋人との仲を裂こうと一生懸命。俺こそ芳子に恋しているんだ、芳子は誰がどう見たって俺のものだろう!?(←違います。でもこういう考えの人いるよね)
男性のいう「時代遅れはダメ」ってつまり「世間に対しては淑女で、自分に対しては奔放であれ」って言ってるだけだからだなあ。
そして妻のことはつまらん、作家である俺の苦しみをわからない、所帯じみて(←あなたの子供たちです)みっともない、頭が悪い…などなどけちょんけちょん。
題名の『蒲団』に絡んだ最後の場面はもはや笑える… いやあよくここまで赤裸々に。
小説として楽しく、そして「うまいなあ」と思いながら読んだのですが、これは田山花袋と女性のお弟子さん、その恋人がモデルになっているとか。
お弟子さん本人に、先生は性欲の目で君を見ていたんだよって小説読ませちゃっていいの?作家にとっては恥はむしろネタなの?
たしかに『蒲団』を読みながら「妻や、芳子はどう思ってるの?本当に時雄の気持ちに気がついていないの?」と思っていたんですが、作者が主人公であれば彼女たちの気持ちはわからないよね。
このような「自分の恥」を書く小説は色々ありますが、『蒲団』は身勝手ながらも客観的で小説としてとても楽しく読めまして。なんといってもこの力量は感心するばかり。いやあ、田山花袋いいなあ。
『重右兵衛の最後』
東京の学生の富山は、信州(長野)の山間の塩山村から出てきた山県、杉山、根本と知り合う。田舎モンだと思っていたが話してみると気が合うし漢文の趣味も合う。彼らは「東京で成功して故郷に錦を!」という夢を持って故郷を飛び出してきたのだ。富山は彼らの塩山村の話を聞くうちに、豊かな自然に囲まれた山間の素朴で静かな暮らしを想像する。
そして5年後。富山は彼らの故郷塩山村を訪ねに行くところだ。結局東京で成功した者は誰もいない。山県と根本は故郷に戻り(連れ戻され)、杉山は遊蕩に目覚めてから徴兵された。
道中の自然の大景といったらまるで絵巻物ようだ。山、木、雲、川…なにもが雄大で美しい。
塩山村に着き山県と根本との再会を喜ぶ。だが塩山村では今大変な騒動が起きているという火付けだ。下手人もわかっている。藤田重右兵衛という中老と、重右兵衛が何処かから連れてきた野生児少女だ。それでもどうしても火付けが止められない。確固たる証拠もないので警察も動けない。
村人たちは「あいつさえいなければ…」という気持ちが高ぶっていて…。
重右兵衛は手のつけられない暴れ者で村中からの鼻つまみ物。それは彼が体の不具を持っていたためのもどかしさ、受けた虐め、劣等感から着ている。重右兵衛だってそれなりの扱いを受ければ穏やかな暮らしが送れたかもしれない。しかしこの旧態依然とした村で、何十年前のことも皆が覚えていて、不具を抱えているという劣等感が積もりに積もってしまっては、もはや暴れて暴れて暴れるしかない。
そこで富山が自分が美しいと感じた自然の本当の姿とはなんだろうと考える。人間は「自然」そのものには生きられない。
終盤の村人と重右兵衛のやり取りの緊迫感、ラストの火!火!火!の場面。自然とは、なんの制限も受けない残酷を含む荘厳。
そして封じられた人間が、神として祀られるってこういうことじゃないのって思えました。
あとがき解説が福田恆存なんですが、なんかかなり手厳しい(^_^;)
他の作家と比べて、田山花袋は外国文学から文学的なものを読み取り自分のものにしていないとか、小説の体現を徹底していないとかそんなかんじ。要するに田山花袋は素朴で初々しい。小説読んだだけでそこまでわかるのも凄いが。
<芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。(P225)>
福田恆存も筋の通った人だなあ。