田山花袋の作品一覧
「田山花袋」の「アカシヤの花」「朝」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「田山花袋」の「アカシヤの花」「朝」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
小説・文芸
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Posted by ブクログ
田山花袋といえば『蒲団』、と思う人が大半であろう。代表的な自然主義作家の一人として、人間の内なる醜悪さを化学の客観的精神でもって描き出した作家、教科書通りに彼を紹介するのであればこんな説明になる。しかし、彼は西洋的な自然主義的文学よりも紀行文やルポルタージュを多く執筆していた上、それらの作品の方が遥かに完成度が高いことはあまり一般に知られていない。
田山花袋における「自然」とは、人間に向けられたものではなかったと私には思えてならない。紀行文は勿論、初期の傑作『重右衛門の最後』における凛として瑞々しい自然描写のなんと美しいことか。彼の筆にかかると、山川の姿は誰も足を踏み入れていない純な雪景色のように映る。未踏の美しさ、純であどけなく、汚れを知らない世界。
尾崎紅葉などの明治の文豪達が認めた才能は、どういうわけか歪な方向に向かい、『蒲団』というあまりにも小さく見窄らしい小説へ結実してしまった。
作家の最晩年の作である本書は、『蒲団』から何年も経て、『重右衛門の最後』に回帰したかのような印象を与える。回帰というより、螺旋が巡るように原点へ戻りつつ上昇したと言うべきだろうか。焼野原となった東京各地の惨事を冷静な視線で見つめ、地獄の日々を過ごした人々の思いを淡々と記していくジャーナリストの姿勢を保ちつつも、焦土に芽吹いた希望の予感を見出す著者の心理には、往年の作品群からは見られなかった成長が窺える。
変容しつつも繁栄を維持してきた東京の過去の姿が10年周期で作者の中に思い出され、現実に投影される。幾重にも折り重なるこれまでの都市の情景、見惚れて時を忘れていた花袋の目の前で、栄華は崩れ落ち、なんとか命脈を保ってきた江戸の姿は完全に死に絶える。我に返り見渡せば、あたり一面は黒く焦げついた大地に変貌しており、醜悪な見た目で吐き気を催す臭いを放つ死体が散らばっている。そう、見るからに再起など不可能と思えるような惨状。しかし、作者は見たのだ。荒れ果てた焦土の向こうに聳え立つ、青く染められたように鮮やかに空に映える筑波の双峰の、あの美しく凛々しい姿を。
恐ろしく速い速度で都市を飲み込んでいった業火、あまりの熱さのために川に飛び込んだものの、溺れたり熱波にやられたりして死んでいった人々、震災後疑心暗鬼になり、ちょっとした事に怯え、外に出れば朝鮮人を捕らえようとあたりを徘徊する自警団に怯えながら過ごす日々、まさに地獄のような世界を生きる人々をとらえる花袋だが、惨状を他所に色彩美を発散させる不忍池の蓮の花や、富士、秩父連峰などの山々の雄々しい姿をも描き、希望を見出そうとする。そして美しさから見出した希望と、ゼロから始まる新たな東京の姿を夢想し、重ね合わせていく。小さな作品に囚われていた著者の姿はここにはない。より大きな世界を捉え、悲劇に貶める事なく夢を語る作家の大きな背中が本書から見えてくる。
田山花袋という文豪は、本書で完成したのだ。冷酷非道な世界の秩序の中に僅かな希望を見出し、無限に広げていこうとする哲人として。悲劇的な美しさに耽溺した多くの作家達を彼は超えたのだ。もし私がこの時代に生き、本書を読んでいたとしたら、最大限の賛辞を送っていたことであろう。
ちなみに、本書は力強く筆を走らせてはいるが、最後に往年の作家らしい醜悪な不安の種を残していったことも忘れてはならない。仄かに香り、じわじわと人々に浸透していき恐怖を煽る幕引き、見逃すことなくその目で確かめて頂きたい。
Posted by ブクログ
おもしろかった。
「蒲団」の女弟子への恋を抱えながら、女弟子の他の男への恋をも保護することになってしまった主人公の身勝手さと寂寥がとてもよい。
「重右衛門の最後」は、村の迷惑者、アウトローたる重右衛門に向ける目が冷静ながらも優しくて、重右衛門のようにあまり社会に馴染めない自覚のある私としては、彼を「自然児」と見た視点がありがたく沁みた。こちらの方が、個人的に蒲団よりも好きだ。
重右衛門の「私なんざア、駄目でごす…」と涙をこぼしながら言う姿、どうしても共感せずにはいられなかった。唯一重右衛門を支援しようと言った貞七が「駄目なことがあるものか。私などもお前さんの様に、その時は駄目だと思った。けれどその駄目が今日のような身分になる始となったじゃがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好けない」と返したのも、重右衛門の側に自らを重ねた私には温かく響いた。
ただひとり娘っ子が、池に沈められた重右衛門の遺体を背に抱えて山を登り、たった1人で火葬して、最後は村中に火をつけて自分も火の中で亡くなっていたのは、物悲しさがあった。ラストで「墓には村人が時々花を手向けている」と描かれたのは、作中のやさしい救いであるように思われる。
「そして重右衛門とその少女との墓が今は寺に建てられて、村の者がおりおり香花を手向けるという事を自分に話した。諸君、自然は竟に自然に帰った!」
「実際、重右衛門だとて、人間だから、今のような乱暴を働いても、元はその位のやさしいところがあったかも知れない。けれどその体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造ったと共に、その性質もまたその罪悪の上に大なる影響を与えたに相違ないと、自分は友の話を聞きながら、つくづく心の中に思った。」
「『自然児は到底濁ったこの世には容られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備え、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業もなく、徒らに敗績して死んで了うであろうか
否、否、否、──
敗績して死ぬ!これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績はあたかも武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有してはおるまいか、無限の悲壮を顕してはおるまいか、この人生に無限の反省を請求してはおるまいか
けれど、この自然児!このあわれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽しているのだ!葬る人も無く、獣のように死んで了っても、それでも重右衛門の一生は徒爾ではない!』と心に叫んだ。」
Posted by ブクログ
えええ、なんだこれは、面白いんだけど笑・笑・笑
私にとって「自分を振り返りましょう小説」で『地下室の手記』と並んでトップツーだわ。これだけ赤裸々で、しかし小っ恥ずかしくならずに笑ってしまえる小説は作者の力量でしょうか。
漢字も今と違って興味深いです。渠で「かれ」とか。遭遇すで「でくわす」とか。
36歳の文筆家の竹中時雄は中年の憂鬱の時期に差し掛かっていた。妻はもはや自分の妻というより「3人子供の母」になって心が動かない。(←あなたの子供ですよ!)
通勤中にすれ違う美人とのあんなことやこんなことを妄想する日々。
そんな時雄のもとに熱烈なファンレターが届く。差出人は岡山県から神戸の女学院に寄宿して文学を学ぶ19歳の横山芳子で「文学一筋に生きたいので弟子にしていただきたい」という内容だった。芳子の両親はクリスチャンで地元でも名家だが、時雄を東京の身元保証人として東京に出すことを承知した。
時雄は家の二階に芳子を預かり、東京での親代わり、監督役、文学の師匠として女塾に通わせることになった。
さあ!時雄の妄想が炸裂しますよ!時雄は「誰にも言っていないけどこの女は当然俺のもんだ」と決めつけて、読者に向けて醜態を晒して行くんです。
時雄は普段は「旧態の女性はダメだ。これからは新しい時代だ」と言いながら、芳子に対しては「預かったのだから」という口実の元行動を規制します。
芳子が京都の学生、田中秀夫と恋仲になったらもう大変。「君のため」と言いながらも恋人との仲を裂こうと一生懸命。俺こそ芳子に恋しているんだ、芳子は誰がどう見たって俺のものだろう!?(←違います。でもこういう考えの人いるよね)
男性のいう「時代遅れはダメ」ってつまり「世間に対しては淑女で、自分に対しては奔放であれ」って言ってるだけだからだなあ。
そして妻のことはつまらん、作家である俺の苦しみをわからない、所帯じみて(←あなたの子供たちです)みっともない、頭が悪い…などなどけちょんけちょん。
題名の『蒲団』に絡んだ最後の場面はもはや笑える… いやあよくここまで赤裸々に。
小説として楽しく、そして「うまいなあ」と思いながら読んだのですが、これは田山花袋と女性のお弟子さん、その恋人がモデルになっているとか。
お弟子さん本人に、先生は性欲の目で君を見ていたんだよって小説読ませちゃっていいの?作家にとっては恥はむしろネタなの?
たしかに『蒲団』を読みながら「妻や、芳子はどう思ってるの?本当に時雄の気持ちに気がついていないの?」と思っていたんですが、作者が主人公であれば彼女たちの気持ちはわからないよね。
このような「自分の恥」を書く小説は色々ありますが、『蒲団』は身勝手ながらも客観的で小説としてとても楽しく読めまして。なんといってもこの力量は感心するばかり。いやあ、田山花袋いいなあ。
『重右兵衛の最後』
東京の学生の富山は、信州(長野)の山間の塩山村から出てきた山県、杉山、根本と知り合う。田舎モンだと思っていたが話してみると気が合うし漢文の趣味も合う。彼らは「東京で成功して故郷に錦を!」という夢を持って故郷を飛び出してきたのだ。富山は彼らの塩山村の話を聞くうちに、豊かな自然に囲まれた山間の素朴で静かな暮らしを想像する。
そして5年後。富山は彼らの故郷塩山村を訪ねに行くところだ。結局東京で成功した者は誰もいない。山県と根本は故郷に戻り(連れ戻され)、杉山は遊蕩に目覚めてから徴兵された。
道中の自然の大景といったらまるで絵巻物ようだ。山、木、雲、川…なにもが雄大で美しい。
塩山村に着き山県と根本との再会を喜ぶ。だが塩山村では今大変な騒動が起きているという火付けだ。下手人もわかっている。藤田重右兵衛という中老と、重右兵衛が何処かから連れてきた野生児少女だ。それでもどうしても火付けが止められない。確固たる証拠もないので警察も動けない。
村人たちは「あいつさえいなければ…」という気持ちが高ぶっていて…。
重右兵衛は手のつけられない暴れ者で村中からの鼻つまみ物。それは彼が体の不具を持っていたためのもどかしさ、受けた虐め、劣等感から着ている。重右兵衛だってそれなりの扱いを受ければ穏やかな暮らしが送れたかもしれない。しかしこの旧態依然とした村で、何十年前のことも皆が覚えていて、不具を抱えているという劣等感が積もりに積もってしまっては、もはや暴れて暴れて暴れるしかない。
そこで富山が自分が美しいと感じた自然の本当の姿とはなんだろうと考える。人間は「自然」そのものには生きられない。
終盤の村人と重右兵衛のやり取りの緊迫感、ラストの火!火!火!の場面。自然とは、なんの制限も受けない残酷を含む荘厳。
そして封じられた人間が、神として祀られるってこういうことじゃないのって思えました。
あとがき解説が福田恆存なんですが、なんかかなり手厳しい(^_^;)
他の作家と比べて、田山花袋は外国文学から文学的なものを読み取り自分のものにしていないとか、小説の体現を徹底していないとかそんなかんじ。要するに田山花袋は素朴で初々しい。小説読んだだけでそこまでわかるのも凄いが。
<芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。(P225)>
福田恆存も筋の通った人だなあ。