あらすじ
赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。
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Posted by ブクログ
えええ、なんだこれは、面白いんだけど笑・笑・笑
私にとって「自分を振り返りましょう小説」で『地下室の手記』と並んでトップツーだわ。これだけ赤裸々で、しかし小っ恥ずかしくならずに笑ってしまえる小説は作者の力量でしょうか。
漢字も今と違って興味深いです。渠で「かれ」とか。遭遇すで「でくわす」とか。
36歳の文筆家の竹中時雄は中年の憂鬱の時期に差し掛かっていた。妻はもはや自分の妻というより「3人子供の母」になって心が動かない。(←あなたの子供ですよ!)
通勤中にすれ違う美人とのあんなことやこんなことを妄想する日々。
そんな時雄のもとに熱烈なファンレターが届く。差出人は岡山県から神戸の女学院に寄宿して文学を学ぶ19歳の横山芳子で「文学一筋に生きたいので弟子にしていただきたい」という内容だった。芳子の両親はクリスチャンで地元でも名家だが、時雄を東京の身元保証人として東京に出すことを承知した。
時雄は家の二階に芳子を預かり、東京での親代わり、監督役、文学の師匠として女塾に通わせることになった。
さあ!時雄の妄想が炸裂しますよ!時雄は「誰にも言っていないけどこの女は当然俺のもんだ」と決めつけて、読者に向けて醜態を晒して行くんです。
時雄は普段は「旧態の女性はダメだ。これからは新しい時代だ」と言いながら、芳子に対しては「預かったのだから」という口実の元行動を規制します。
芳子が京都の学生、田中秀夫と恋仲になったらもう大変。「君のため」と言いながらも恋人との仲を裂こうと一生懸命。俺こそ芳子に恋しているんだ、芳子は誰がどう見たって俺のものだろう!?(←違います。でもこういう考えの人いるよね)
男性のいう「時代遅れはダメ」ってつまり「世間に対しては淑女で、自分に対しては奔放であれ」って言ってるだけだからだなあ。
そして妻のことはつまらん、作家である俺の苦しみをわからない、所帯じみて(←あなたの子供たちです)みっともない、頭が悪い…などなどけちょんけちょん。
題名の『蒲団』に絡んだ最後の場面はもはや笑える… いやあよくここまで赤裸々に。
小説として楽しく、そして「うまいなあ」と思いながら読んだのですが、これは田山花袋と女性のお弟子さん、その恋人がモデルになっているとか。
お弟子さん本人に、先生は性欲の目で君を見ていたんだよって小説読ませちゃっていいの?作家にとっては恥はむしろネタなの?
たしかに『蒲団』を読みながら「妻や、芳子はどう思ってるの?本当に時雄の気持ちに気がついていないの?」と思っていたんですが、作者が主人公であれば彼女たちの気持ちはわからないよね。
このような「自分の恥」を書く小説は色々ありますが、『蒲団』は身勝手ながらも客観的で小説としてとても楽しく読めまして。なんといってもこの力量は感心するばかり。いやあ、田山花袋いいなあ。
『重右兵衛の最後』
東京の学生の富山は、信州(長野)の山間の塩山村から出てきた山県、杉山、根本と知り合う。田舎モンだと思っていたが話してみると気が合うし漢文の趣味も合う。彼らは「東京で成功して故郷に錦を!」という夢を持って故郷を飛び出してきたのだ。富山は彼らの塩山村の話を聞くうちに、豊かな自然に囲まれた山間の素朴で静かな暮らしを想像する。
そして5年後。富山は彼らの故郷塩山村を訪ねに行くところだ。結局東京で成功した者は誰もいない。山県と根本は故郷に戻り(連れ戻され)、杉山は遊蕩に目覚めてから徴兵された。
道中の自然の大景といったらまるで絵巻物ようだ。山、木、雲、川…なにもが雄大で美しい。
塩山村に着き山県と根本との再会を喜ぶ。だが塩山村では今大変な騒動が起きているという火付けだ。下手人もわかっている。藤田重右兵衛という中老と、重右兵衛が何処かから連れてきた野生児少女だ。それでもどうしても火付けが止められない。確固たる証拠もないので警察も動けない。
村人たちは「あいつさえいなければ…」という気持ちが高ぶっていて…。
重右兵衛は手のつけられない暴れ者で村中からの鼻つまみ物。それは彼が体の不具を持っていたためのもどかしさ、受けた虐め、劣等感から着ている。重右兵衛だってそれなりの扱いを受ければ穏やかな暮らしが送れたかもしれない。しかしこの旧態依然とした村で、何十年前のことも皆が覚えていて、不具を抱えているという劣等感が積もりに積もってしまっては、もはや暴れて暴れて暴れるしかない。
そこで富山が自分が美しいと感じた自然の本当の姿とはなんだろうと考える。人間は「自然」そのものには生きられない。
終盤の村人と重右兵衛のやり取りの緊迫感、ラストの火!火!火!の場面。自然とは、なんの制限も受けない残酷を含む荘厳。
そして封じられた人間が、神として祀られるってこういうことじゃないのって思えました。
あとがき解説が福田恆存なんですが、なんかかなり手厳しい(^_^;)
他の作家と比べて、田山花袋は外国文学から文学的なものを読み取り自分のものにしていないとか、小説の体現を徹底していないとかそんなかんじ。要するに田山花袋は素朴で初々しい。小説読んだだけでそこまでわかるのも凄いが。
<芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。(P225)>
福田恆存も筋の通った人だなあ。
Posted by ブクログ
おもしろかった。
「蒲団」の女弟子への恋を抱えながら、女弟子の他の男への恋をも保護することになってしまった主人公の身勝手さと寂寥がとてもよい。
「重右衛門の最後」は、村の迷惑者、アウトローたる重右衛門に向ける目が冷静ながらも優しくて、重右衛門のようにあまり社会に馴染めない自覚のある私としては、彼を「自然児」と見た視点がありがたく沁みた。こちらの方が、個人的に蒲団よりも好きだ。
重右衛門の「私なんざア、駄目でごす…」と涙をこぼしながら言う姿、どうしても共感せずにはいられなかった。唯一重右衛門を支援しようと言った貞七が「駄目なことがあるものか。私などもお前さんの様に、その時は駄目だと思った。けれどその駄目が今日のような身分になる始となったじゃがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好けない」と返したのも、重右衛門の側に自らを重ねた私には温かく響いた。
ただひとり娘っ子が、池に沈められた重右衛門の遺体を背に抱えて山を登り、たった1人で火葬して、最後は村中に火をつけて自分も火の中で亡くなっていたのは、物悲しさがあった。ラストで「墓には村人が時々花を手向けている」と描かれたのは、作中のやさしい救いであるように思われる。
「そして重右衛門とその少女との墓が今は寺に建てられて、村の者がおりおり香花を手向けるという事を自分に話した。諸君、自然は竟に自然に帰った!」
「実際、重右衛門だとて、人間だから、今のような乱暴を働いても、元はその位のやさしいところがあったかも知れない。けれどその体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造ったと共に、その性質もまたその罪悪の上に大なる影響を与えたに相違ないと、自分は友の話を聞きながら、つくづく心の中に思った。」
「『自然児は到底濁ったこの世には容られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備え、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業もなく、徒らに敗績して死んで了うであろうか
否、否、否、──
敗績して死ぬ!これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績はあたかも武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有してはおるまいか、無限の悲壮を顕してはおるまいか、この人生に無限の反省を請求してはおるまいか
けれど、この自然児!このあわれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽しているのだ!葬る人も無く、獣のように死んで了っても、それでも重右衛門の一生は徒爾ではない!』と心に叫んだ。」
Posted by ブクログ
36歳とすでに男としての魅力は失われていて生活に華がない中、先生、先生と自分をしたってくれて可愛い一回り下の女性が寄ってきたらどうするのか。そんな枯れた男が男としての自分を取り戻せないまま、それでもその子のことが気になって彼氏っぽい男ができたら執拗に嫉妬して(特に肉体関係面での嫉妬はすさまじかった)引き離さんとする物語。
Posted by ブクログ
田山花袋を初めて読みましたが、プロフィールのところに自然文学とあり、読んでいて爽やかな描写が特に「重右衛門の最後」では感じました。
漢文を習っていたこともあり、当て字といいますか、所々にルビがあり放題で、この手の本が好きな私としては大変楽しめました。
なんとなく手に取った本ですが、読み始めるとぐいぐい惹き込まれて一気読みでした。
「蒲団」というタイトルが気になりましたが、そこは読んでみてのお楽しみといったところでしょうか。
蒲団が好きな方は蒲団の中で読むのも、また醍醐味だと思います。
Posted by ブクログ
中島さんの作品の後に読むとなんとまあ、時雄の行動の幼稚なこと。全くもって私は「妻」の視点からでしか鑑賞できなくなっている。これはちょっと失敗。これから中島さんの『FUTON』を読まれる方花袋のを先に読む方がいいでしょう。いろいろ抜きにして純粋な感想。この小説「中年男が失恋後恋人の蒲団で泣く」という一文で表され、それでまかり通っているけれど、そんなことはない!なんてことはない。その通り。結果失恋して泣くんです。発表当時は女々しいとのお声もあったでしょうが、現代では無問題。時代が追いつきましたよ、花袋先生。
Posted by ブクログ
ずっと読みたくて、でも大筋で話が分かるから情けなさすぎで読むのを躊躇っていたこの本。
読んでみると、まず主人公が思っていたよりずっと若く、今の自分と大して変わらない歳であることに驚く。
そして、女性の方からも何らかの思わせぶりな誘惑があったのかと思っていたのに、他に恋人を作って全く主人公を意識もしていないという。
ほんとに、全て主人公の妄想で、ただ結婚生活に飽きた男が若い娘にときめきたかっただけの話。
現在絶賛育児中のわたしからすれば、ふざけんなと言いたくなるけど、こういうのって男性も同じなんだとわかった。
そして、合わせて収録されてる話。
『蒲団』にしか興味なかったので、読まずに返そうかとも思ったが、読んでみるとなかなか面白かった。
生まれつき通常の状態ではないということは不幸なことだと思うけど、自分で身上を持ち崩したのに反省もせず、周囲に迷惑ばかりかけている人間でも、亡くなった後はきちんと弔ってやらなければならないというのは理不尽だなと思う。
死ねば今生の罪は消えるということか。
それでは、あまりに釣り合わないと思ってしまう。
けれど、多くの人間から憎まれ恨まれることが、ある人物のエネルギーとなって迷惑行為をなすのなら、その原動力となる負の感情を持たないということが、実は一番平和への近道なのかもしれない。
すごく難しいことだけど。
Posted by ブクログ
青空文庫で蒲団のみ。
時雄の懊悩ひとつひとつが我が身を捻じるかの様で非常にのめり込んだ。
節操を汚した芳子の父親のなんと真っ当な物言い。さすが人の親。
細君がうまいこと緩衝材になって物語的にも読む側にとってもテンポを保ってくれた。
時雄がずっとあの調子で懊悩しまくってたらとてもじゃないけど息が詰まって読破不可能であった。
細君よ、ありがとう。
Posted by ブクログ
「蒲団」
昔の話なのに読みやすくて、おもしろかった。
主人公の男の自分勝手なこと!
この時代では普通なのかもしれないけど。
「夫の苦悶には我関せずで、子供さえ満足に育てばいいという細君に対して、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。…家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。」
「妻と子ー家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供のために生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞たらざるを得るか」
芳子が大学生に体を許したと分かった後は、
「どうせ 、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して自分の自由にしようかと思った。」
子どもっぽすぎる!妻と子のある家庭が幸せなんじゃないか!女を下に見るのもいい加減にしろ!と説教したくなる…。
明治時代の小説。今の時代はまだまだ男女平等とは言えないけれど、マシになったものだなぁ。
そして、私小説だとは、またもやびっくり。
私が妻だったらと思うとやりきれん。
「重右衛門の最後」
主人公は重右衛門にえらく同情していたが、私は村の人間としたらこうするしかなかったのかもなぁと村の人に同情する。
ラスト、重右衛門が死んだ以降に村が栄え、重右衛門の墓に花を手向ける人がいるというところがこういうものなんだよな…とおもしろかった。
Posted by ブクログ
自然主義というが、確かに蒲団の主人公の情けなさには一片の美化もなく、今も昔も自分も含めた壮年の男性なら想っておかしくはない、取っておかしくはない行動に、共感出来る気持ちと共感したくはない気持ちがせめぎ合う作品でした。
Posted by ブクログ
田山花袋は自然主義派として有名で、その代表作品ということで「蒲団」がある。
自然主義というのは、そもそも日本と発祥の地のフランスでは異なっており、日本の場合には、「私小説」ということで良いのだろう。
ただ、現在、読む側からは、自然主義云々はあまり意味のないことで、作品自体をどう感じるか、ということに尽きる。
本著を読むモチベーションが、自然主義派を代表する作品だから、という消極的なものだったので、一抹の不安があったのだが、結果としては、とても面白い作品だった。
何が良かったか。
この作品が、近代日本における女性の立ち位置をうまく表現している、ということ。
当時は、特に若い女性は、女性の自立、自由についての希求が今よりも高く、純だったのだろう。
そして、主人公の竹中は、本音と建前のバランスを崩し、葛藤し、世の中の流れに乗り切れない。知識人でありながら。
そんな心理状態をうまく表現している。(芳子の心理状態を惹きたてる効果がある)
現在、ジェンダーのことが盛んに話題になっている中、同じような現象が起こっているわけで、その観点での普遍性についても面白いと感じたのだろう。
「重右衛問の最後」、も近代日本における地方コミュニティに関することが巧く表現されており、面白かった。批判的な側面もあるのだと思う。
Posted by ブクログ
蒲団言わずもがな…ああ、変態好き…。(笑)
重右衛門の最後が、結構ずっしりきた。
蒲団や少女病みたいな作品もあればずっしりくるものも書く…田山花袋って掴めなくてなんかいい。
Posted by ブクログ
蒲団
複雑な心境がよく描写されており、読みやすい。結末の主人公の様子は気持ち悪いと言われることが多く、実際に読んで「ああこれか(笑)」と思ったが、その人間らしさがまた作品として味わい深い。
重右衛門の最後
不遇な重右衛門に深く同情した。八つ墓村と重ねてしまうところがあったのは私だけ?
同じ自然主義の関連として島崎藤村、ゾラも読みたい。
Posted by ブクログ
「蒲団」
弟子にしてくれと押しかけてきた若い娘に
スケベ心を抱きながらも、手を出す前から他の男のところに
逃げられてしまう
それは理不尽なことには違いない
俺はおまえのパパじゃねえ、ぐらいのことは言いたくもなるだろう
けれども旧来からつづく封建的・儒教的な価値観と
西洋文化に由来する、いわゆる近代的自我との板ばさみにあって
この時期の文化人は
自由をとなえながらも、みずからは自由にふるまえない
つまりエゴイストになりたくてもなれないという
そんな苦しい立場、ダブル・バインド状態にあったのかもしれない
森鴎外とエリスの関係など見るに
けして花袋ひとりの問題ではなかったはずだ
しかしそういう、ある種の煮え切らなさ・女々しさは
現実と真正面から向き合って生じるものでもあるのだから
それがそのまま
近代日本においては「男らしさ」と呼べるものでもあったのだ
男はつらいよ、ってそういうことですね
「重右衛門の最後」
さんざん甘やかされながらも
よその子供から身体的特徴(でかい金玉)を馬鹿にされ
屈折して育った重右衛門は
祖父の期待を裏切って悪人になり
最終的には、村人の集団リンチで処刑されてしまうのだけど
日本では、悪人も死ねば許される風潮があるので
なんか名誉回復もしたしよかったんじゃないの、という話
大江健三郎の「万延元年のフットボール」や
町田康の「告白」などに、今も受け継がれるテーマだ
Posted by ブクログ
表題『布団』が気になり手に取りました。
絶対に結ばれることのない、親子ほども年の離れた相手に対しての執着・自分勝手な所有欲は、他人から見ればみっともないの一言。とても人には知られたくないような男の欲を堂々と描いた作品は他になく、当時としては画期的なことだったようです。
蒲団に残るあの人の匂いが恋しーー女々しいような情けないような滑稽な描写は妙に人間臭くて、不思議と嫌いになれない。
Posted by ブクログ
もう、あのシーンはよ!はよ!という気持ちで読んでました。
それにしても主人公は嫌な男だ。停車場で綺麗なお姉さんを見て「妻の出産がうまくいかなくなって死んだらああいう綺麗な人と住めるかなー」とか考えたり、若い書生に惚れてうまくいかなくて細君に八つ当たりしたり。
頗る読みやすい文体だった。
Posted by ブクログ
自然主義文学のさきがけといわれる『蒲団』に、中編作『重右衛門の最後』を併録。明治の雰囲気が伝わってくる文体と精神背景が味わえて、なかなか楽しむことができました。
『蒲団』は、生活に倦怠感をおぼえている主人公の小説家に、田舎から美少女が小説家になりたいと弟子入りしてきたことから起きる恋のさや当ての物語です。(笑)「妻に子供を奪われ、子供に妻を奪われて」生活に倦んでいた主人公は、弟子入りしてきたハイカラで発展的な精神を持つ美少女に恋心を抱くが、師として監督する立場でもあることからその苦悩が始まる。弟子の美少女の誘惑にも自制してきたのだったが、ある時、ろくでもない男が恋人になったと知ったことから、主人公の煩悶が始まる・・・。
主人公の小説家の葛藤する様は、本来苦しい想いが伝わってきても良さそうですが、設定が設定だけに現代人にはなぜか可笑しみもあって(笑)、美少女の父親や恋人の男のふるまいにも突っ込みどころ満載なので、意外と軽いノリで楽しめました。(笑)最後の「書名」のもとになっている主人公の行動は、マニアックなフェティシズムに溢れていて、可笑しみの頂点に達するとともになかなかの名場面でした。あ~、という何とも言えない感じが良いです。(笑)確かにこれは泣けてくるし、もふもふしたくなる気持ちもわからなくはない。(笑)
『重右衛門の最後』は、信州山奥のとある村で発生した放火事件とその村としての決着について、旅行者としてきていた主人公の目を通してたんたんと描かれる。学生時代に友が語った故郷の信州の美しい自然に魅かれて、主人公は友を訪ねてその地に到来する。そこでは折しも重右衛門という人物が主犯と目される放火事件が相次いでおり、主人公が到着した夜にも火事が・・・。
信州の自然がきれいに描かれているのを対照として、夜に人為的に発生する火が彩りよく、視覚的イメージが面白い作品だったと思います。身体に劣等感を持つ重右衛門が次第に凶悪化し、村に反発していく様子は自然への反発という意味にもなるのでしょうか。これも主人公が傍観者であるが故に、重右衛門の苦悩を深化させることができず、割と軽い調子で事件の推移を見守るような感じです。
「解説」では田山花袋にむしろ辛辣気味な評価なのには驚きました。(笑)
Posted by ブクログ
田山花袋文学忌、花袋忌
…蒲団忌で良いのではと私は思う。
1907年の作品
私生活を告白して私小説的傾向に傾く
自然主義文学の一作
私小説なんかーい!
日本文学初の私小説と言われており、
その赤裸々な告白に当時の文壇に衝撃を与えたとか
あらすじは
36歳作家妻子あり
地方から美しい女学生が弟子入りを希望してくる
文学をやる女は美しくないだろうと思っていたけど、美しかったのだ
最初は、健気な女子だったけど、恋人ができる
引き離そうとするが、上手くいかず
怒った作家は、父親の居る郷里に帰らせる
女弟子が去った後、彼女が使っていた夜着物と蒲団に顔を埋めて泣く
弟子とその恋人にもモデルがあり、個人情報漏れまくりではあるまいか
ギリギリ師として理性を保っていたけど、
ラストは、思いっきり残り香を堪能する
妻は三人目を妊娠していたが、何かの間違いで死んだりしないかななんて思っている
妻がいなければ結婚したのにとか思っている
信頼される常識人としての作家の妄想の世界でした
「重右衛門の最後」
生まれつき肉体的障害を持ち
祖父母に溺愛され育った重右衛門
一見平和な山村で毎晩起きる付け火
犯人は検討がついている
父母に見捨てられ、不具の為友人にも馬鹿にされ
散財で財産を食い潰した重右衛門だろう
たまりかねた村人達は、重右衛門を事故を装い最期にする
閉鎖的山村で信用を回復できず堕ちていった男
Posted by ブクログ
結末はあまりにも有名なので読む前から分かっていた。しかしながらいざ読んでみると矢張り名作の誉も宜なる哉。中年男性の悲哀と絶望、そして始末に負えない性慾と云う名のエゴイズム。それを最も巧妙に言語で表現したのが「蒲団」なのだろう。
一方で「重右衛門の最後」の方がシナリオの起伏と問題意識に富んでおり読んでいて面白かった。日本自然主義文学の嚆矢と言えば上述の「蒲団」、それに藤村の「破戒」が有名だが、本作にもゾライズムの片鱗が窺える。本書を手に取るまで寡聞にして知らなかった作品なので何となくお得感があった。
Posted by ブクログ
日本文学における私小説の走りと言われる田山花袋の代表作。
そこそこ売れた作家である主人公(竹中時雄)の元に美しくて若い女学生(横山芳子)が弟子としてやってくるところからストーリーが始まる。
時雄には妻子もあるが、やがて芳子に恋心を抱くようになる。芳子の恋仲である男子学生も後を追うように上京し、時雄は嫉妬を感じながらもやり場のない自分の恋心に悶えながら日々を送ることになる。
この主人公は田山花袋自身がモデルであり、彼が自分の若い女弟子に下心を抱いていたというのも事実に近いものであるらしい。
この作風というか設定が当時の日本の文壇に衝撃を与えた、と聞いて読んでみた。
100年以上前に書かれた小説であり、時代背景や表現が古いことを差し引いてもあまり面白いとは思えなかった。
これがなぜかを少しだけ客観的に分析してみたところ、こうした光景が現代にはありふれているからではないだろうか。100年の時を経てこのストーリーは陳腐化したのだ。
印象的なのは、周囲の人間がやたらと芳子の貞操に拘り、かつ若い人の「ハイカラな」考え方を遠いものとして捉えているところ。時雄と芳子は精々十何歳しか離れていないのに、まるで考えが違うようなことを時雄や妻は折々で述べる。
さらに、時雄は「温順と貞節とより他に何も持たぬ」自分の妻を比較して、芳子の闊達さを褒める。
「女子ももう自覚せんければいかん。父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは為方が無い。」とまで言ってのける。
これは明らかな矛盾であり、自分の思想と気持ちの折り合いがついていないように見える。それだけ当時の情勢(物理的にも精神的にも)の移り変わりが速かったということだろうか。
10年そこらで、少なくとも精神や文化面でここまで変化することは現代では見られない。そうした意味では100年前の方が余程「VUCA」の時代だったのかもしれない。
Posted by ブクログ
36歳の作家・竹中時雄が、女弟子の横山芳子に恋人ができたことに嫉妬する話。大人らしく分別ぶってみたり、親に知らせて二人の仲を裂いてしまおうかと悩んだり、イライラしてはやけ酒をあおって癇癪を起こす。
自然主義の代表作とされているのでもっと淡々とした内容かと思っていたが、案外面白かった。
「時雄は悶えた、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨(くやみ)との念が一緒になって旋風のように頭脳(あたま)の中を回転した。師としての道義の念もこれに交って、益々炎を熾(さか)んにした。わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥しく量を加えて、泥鴨(あひる)の如く酔って寝た。」(p.27)
「かれの経験にはこういう経験が幾度もあった。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ず、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味をかれは常に味(あじわ)った。」(p.28)
「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂莫たらざるを得るか。」(p.67)
そして、小さな山村の連続放火事件を扱った「重右衛門の最後」がそれ以上に面白い。前半は旧友との思い出と再会、後半は放火犯の重右衛門の半生を描き、最後は意外な結末を迎える。紀行文的な描写も美しい。
自然の欲望のままに生き、村の掟や習慣とは相容れなかった重右衛門の死を目の当たりにし、厳しく雄大な自然を服従させようとしてきた人類の歴史、自然と人間の相克関係に思い至る。
『金閣寺は燃えているか?』でも指摘されている通り、福田恆存の解説はまったく褒めていない。
「おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。」(p.219)
「たしかに花袋はわが国における文学青年のもっとも純粋で典型的な代表者だったといってよい。 (中略) 文学青年とは一口にいえば、芸術家の才能なくして、芸術家に憧れるものです。」(p.226)
Posted by ブクログ
この私小説は、田山花袋自身の身に起こった出来事を告白した自伝の様なものだったので、花袋がどういう人物だったのかや、花袋自身の当時の感情などが非常に近く感じられるものだったと感じた。
この小説の思想性に関して、最後のクライマックス場面で(「女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。〜心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。」一一〇頁引用)とあるが、女(芳子)の油と汗、そして匂いと、においについて文字の使い方や表現の仕方が違うことに気づきその作者の思想性は何なのかを考えた。
油と汗は本質的には同じで体内から排出されるものであるが、油といえば体臭の匂いなどが想像出来るまた、汗は油よりも体から出るものになるのでその女の身体から出たものを素肌で蒲団に触れて感じ取る事によって、少しでもその女に対しての感情や想いなどが思い出されたり、そこに居るはずの無い女(芳子)がいる様に感じ取られるのでは無いのかなと考えた。また、「匂い」と「におい」にしても、良いに匂いの「におい」と、例え少し臭くても愛している人の「匂い」は愛おしく思えたりすると考えたのである。したがって、筆者は故意に「匂い」と「におい」で書き方を変えているのではないのかと考えた。さらにまた、時雄自身が女の蒲団を引き出して匂いを嗅ぐ時に女の匂いを分析する程の敏感な神経(女を愛するあまりの)が非常に備わっていたのだと感じる。このことから女に対しての花袋のもの凄く深い愛がこの作品に強くあらわれていたと感じる。
Posted by ブクログ
女弟子に密かな劣情を抱く時雄。文明開化のうねりのなかで若き学生との恋に惑溺する女弟子。善良で不埒な時雄の懊悩を赤裸々につづった「蒲団」。
閉鎖的な田舎村で起こった私刑を第三者的に見つめる「重右衛門の最後」。
前者は、いまいち踏ん切りのつかない時雄にいらいらしつつ、いつ堰を切るのかとドキドキしていたけど、結局、中途半端に終わってしまった時雄が終始身悶えする姿に、なんだか善良さを脱しきれない人間にありがちな苦悩を感じ取れました。
一方、後者は、ここ最近少し話題になっているインターネットによる私刑に通じるところがありまして、しみじみと思いを馳せながら読んでいました。
それはそうと、褒めているんだか貶しているんだかよくわからない解説はなんなんですかね笑 こんな辛らつな解説には初めて出会いましたよ。
Posted by ブクログ
やたらと外国文学、特にロシアの作家、作品をとりあげるが、今となっては不自然。当時はそういうのが風潮だったのでしょうか。当時受け入れられた小説がこういうものだったと感じるところに価値を見出す作品。13.11.21
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時雄は芳子だから恋をしたわけではないと思う。惨めな自分の晩年に華を添えてくれる「女」という生き物なら、誰でもよかったのだろう。男の身勝手さを惜しげもなく晒した作品。建前などかなぐり捨てて書いてるから、真に迫っていてとても面白い。時を重ねても雄の性を捨てられない「時雄」と、匂いたつような若さと美しさを備えた「芳子」という名前設定が、最後のシーンを象徴しているようである。
Posted by ブクログ
嫉妬というと、"女の"嫉妬なんてわざわざ"女"を強調したりすることが多いが、なぜだか"男の"嫉妬、という言い方はあんまりしない。でも別に、嫉妬という感情に男女の別があるわけではない。ただ、男は嫉妬を「権力闘争」や「大人の対応」なんて言葉で都合よく包み隠しているだけだ。
文学者である竹中時雄の元へ、文学を志す女学生からの熱心な手紙が届くようになる。彼女が後に正式な弟子として受け入れることになる芳子。かつて情を燃やしたはずの妻にも飽き飽きしていた時雄は、芳子にいつしか好意を抱くようになる。芳子の恋人である田中との仲を芳子の"師"として諭し心配するフリをして、内心は嫉妬心を強くするひとりの中年男性の苦悩を描く。
話が進めば進むほど、この身勝手な中年男子が変態的にすら思えてくる。男が理想的な女を規定したがるのは現代にも通づるものがあるが、そのくせ自分は嫉妬心を燃やし、芳子を失えば彼女が使っていた蒲団の匂いを嗅いだりするのだ。
こうした男の女に対する態度だけでなく、旧式の女性(時雄の妻)vs新時代の女性(芳子)という世代間での対立構造もまた現代に通づるものがあって、明治時代とて日本人は根本的に同じなんだなぁと思ってしまう。従ってそこまで大きな違和感なく読めるが、「あぁそんなに嫉妬したんだねー大変だったんだねー」以上の感想は抱きづらい。私小説ってやっぱりこんなもの?そしてちょくちょく出てくるロシア文学が知識があることだけをひけらかしているようで逆に嘘っぽくないか?
Posted by ブクログ
【禁断の恋に落ちる男の壮絶な感情劇!】
妻と子ども3人と暮らすある文芸家の話。ある日、田舎から文芸家に憧れる女学生が家にやってくる。それまでの生活に飽きを感じていた主人公にとって、そのことが大きく生活を変える。
女学生の美しい姿、素晴らしい才能に恋心を抱くようになる。しかし、それは許されることのない恋である。しかし、そうこうしているうちに女学生には恋人が出来てしまう。
恋人と結婚したいと懇願する女学生は、結局父親に連れられて田舎に帰ることに・・・。
女学生が去った部屋で、一人彼女が使っていた蒲団に顔をうずめて泣き崩れるところで話は終わる。
男の女に対する心情が、非常にリアルに描かれており、とても読んでいて臨場感がある。30代半ばは、当ストーリー同様に、夫婦の中に低迷感が漂う時期。自分自身が、そうならぬよう、何をすべきかを考えるきっかけにもなるのではないか。