あらすじ
赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。
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Posted by ブクログ
おもしろかった。
「蒲団」の女弟子への恋を抱えながら、女弟子の他の男への恋をも保護することになってしまった主人公の身勝手さと寂寥がとてもよい。
「重右衛門の最後」は、村の迷惑者、アウトローたる重右衛門に向ける目が冷静ながらも優しくて、重右衛門のようにあまり社会に馴染めない自覚のある私としては、彼を「自然児」と見た視点がありがたく沁みた。こちらの方が、個人的に蒲団よりも好きだ。
重右衛門の「私なんざア、駄目でごす…」と涙をこぼしながら言う姿、どうしても共感せずにはいられなかった。唯一重右衛門を支援しようと言った貞七が「駄目なことがあるものか。私などもお前さんの様に、その時は駄目だと思った。けれどその駄目が今日のような身分になる始となったじゃがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好けない」と返したのも、重右衛門の側に自らを重ねた私には温かく響いた。
ただひとり娘っ子が、池に沈められた重右衛門の遺体を背に抱えて山を登り、たった1人で火葬して、最後は村中に火をつけて自分も火の中で亡くなっていたのは、物悲しさがあった。ラストで「墓には村人が時々花を手向けている」と描かれたのは、作中のやさしい救いであるように思われる。
「そして重右衛門とその少女との墓が今は寺に建てられて、村の者がおりおり香花を手向けるという事を自分に話した。諸君、自然は竟に自然に帰った!」
「実際、重右衛門だとて、人間だから、今のような乱暴を働いても、元はその位のやさしいところがあったかも知れない。けれどその体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造ったと共に、その性質もまたその罪悪の上に大なる影響を与えたに相違ないと、自分は友の話を聞きながら、つくづく心の中に思った。」
「『自然児は到底濁ったこの世には容られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備え、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業もなく、徒らに敗績して死んで了うであろうか
否、否、否、──
敗績して死ぬ!これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績はあたかも武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有してはおるまいか、無限の悲壮を顕してはおるまいか、この人生に無限の反省を請求してはおるまいか
けれど、この自然児!このあわれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽しているのだ!葬る人も無く、獣のように死んで了っても、それでも重右衛門の一生は徒爾ではない!』と心に叫んだ。」
Posted by ブクログ
36歳とすでに男としての魅力は失われていて生活に華がない中、先生、先生と自分をしたってくれて可愛い一回り下の女性が寄ってきたらどうするのか。そんな枯れた男が男としての自分を取り戻せないまま、それでもその子のことが気になって彼氏っぽい男ができたら執拗に嫉妬して(特に肉体関係面での嫉妬はすさまじかった)引き離さんとする物語。
Posted by ブクログ
「蒲団」
昔の話なのに読みやすくて、おもしろかった。
主人公の男の自分勝手なこと!
この時代では普通なのかもしれないけど。
「夫の苦悶には我関せずで、子供さえ満足に育てばいいという細君に対して、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。…家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。」
「妻と子ー家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供のために生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞たらざるを得るか」
芳子が大学生に体を許したと分かった後は、
「どうせ 、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して自分の自由にしようかと思った。」
子どもっぽすぎる!妻と子のある家庭が幸せなんじゃないか!女を下に見るのもいい加減にしろ!と説教したくなる…。
明治時代の小説。今の時代はまだまだ男女平等とは言えないけれど、マシになったものだなぁ。
そして、私小説だとは、またもやびっくり。
私が妻だったらと思うとやりきれん。
「重右衛門の最後」
主人公は重右衛門にえらく同情していたが、私は村の人間としたらこうするしかなかったのかもなぁと村の人に同情する。
ラスト、重右衛門が死んだ以降に村が栄え、重右衛門の墓に花を手向ける人がいるというところがこういうものなんだよな…とおもしろかった。
Posted by ブクログ
蒲団言わずもがな…ああ、変態好き…。(笑)
重右衛門の最後が、結構ずっしりきた。
蒲団や少女病みたいな作品もあればずっしりくるものも書く…田山花袋って掴めなくてなんかいい。
Posted by ブクログ
36歳の作家・竹中時雄が、女弟子の横山芳子に恋人ができたことに嫉妬する話。大人らしく分別ぶってみたり、親に知らせて二人の仲を裂いてしまおうかと悩んだり、イライラしてはやけ酒をあおって癇癪を起こす。
自然主義の代表作とされているのでもっと淡々とした内容かと思っていたが、案外面白かった。
「時雄は悶えた、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨(くやみ)との念が一緒になって旋風のように頭脳(あたま)の中を回転した。師としての道義の念もこれに交って、益々炎を熾(さか)んにした。わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥しく量を加えて、泥鴨(あひる)の如く酔って寝た。」(p.27)
「かれの経験にはこういう経験が幾度もあった。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ず、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味をかれは常に味(あじわ)った。」(p.28)
「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂莫たらざるを得るか。」(p.67)
そして、小さな山村の連続放火事件を扱った「重右衛門の最後」がそれ以上に面白い。前半は旧友との思い出と再会、後半は放火犯の重右衛門の半生を描き、最後は意外な結末を迎える。紀行文的な描写も美しい。
自然の欲望のままに生き、村の掟や習慣とは相容れなかった重右衛門の死を目の当たりにし、厳しく雄大な自然を服従させようとしてきた人類の歴史、自然と人間の相克関係に思い至る。
『金閣寺は燃えているか?』でも指摘されている通り、福田恆存の解説はまったく褒めていない。
「おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。」(p.219)
「たしかに花袋はわが国における文学青年のもっとも純粋で典型的な代表者だったといってよい。 (中略) 文学青年とは一口にいえば、芸術家の才能なくして、芸術家に憧れるものです。」(p.226)
Posted by ブクログ
この私小説は、田山花袋自身の身に起こった出来事を告白した自伝の様なものだったので、花袋がどういう人物だったのかや、花袋自身の当時の感情などが非常に近く感じられるものだったと感じた。
この小説の思想性に関して、最後のクライマックス場面で(「女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。〜心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。」一一〇頁引用)とあるが、女(芳子)の油と汗、そして匂いと、においについて文字の使い方や表現の仕方が違うことに気づきその作者の思想性は何なのかを考えた。
油と汗は本質的には同じで体内から排出されるものであるが、油といえば体臭の匂いなどが想像出来るまた、汗は油よりも体から出るものになるのでその女の身体から出たものを素肌で蒲団に触れて感じ取る事によって、少しでもその女に対しての感情や想いなどが思い出されたり、そこに居るはずの無い女(芳子)がいる様に感じ取られるのでは無いのかなと考えた。また、「匂い」と「におい」にしても、良いに匂いの「におい」と、例え少し臭くても愛している人の「匂い」は愛おしく思えたりすると考えたのである。したがって、筆者は故意に「匂い」と「におい」で書き方を変えているのではないのかと考えた。さらにまた、時雄自身が女の蒲団を引き出して匂いを嗅ぐ時に女の匂いを分析する程の敏感な神経(女を愛するあまりの)が非常に備わっていたのだと感じる。このことから女に対しての花袋のもの凄く深い愛がこの作品に強くあらわれていたと感じる。