## 感想
山に登る技術がどうのではなく、行動力や意志の強さ、しぶとさなど、植村直己さんのバイタリティの凄まじさが印象に残る。
私は山が好きで、よく山へ行く。
山の空気が好きで、高い山をストイックに登りたいというよりは、その中に入り、歩き、時間を過ごしたいという思いが強い。
植村さんのようなことはできないが、山へ行くことは、ある種冒険だと思っている。
自分で考えたルートや道具を使って行動し、地図を埋めていく。
ゲームのような冒険体験を、現実で、自分の体を使って行っている。
植村さんはいつでも全力で、だからこそ、たくさんの人が協力したのだと思う。
私も植村さんを見習い、自分で自分の夢を決め、強い意志を持って行動していきたい。
## メモ
そこで考えついたのは、生活水準の高いアメリカで高い賃金をかせぎ、パンとキュウリを食べて支出を減らせば、ヨーロッパ・アルプス山行の金がたまるのではないかということだった。ヨーロッパ山行まで、何年かかるかしれないが、とにかく日本を出ることだ。英語ができない、フランス語ができないなどといっていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体をはって冒険をやるべきだ。(p14)
ある日、仕事が終わってから事務所に行き、シャンに自分の気持を打明けた。もしジャンが行くなといったら、したがうつもりだった。ジャンは、「君にとって願ってもないチャンスだ。パトロールのことは気にせんでよい。君の夢はスキーではない。山なのだから、がんばってやってこい」と、私の肩をたたいて、ヒマラヤ行きを許してくれたのだった。この恩知らずめと罵倒されても仕方がないのに、何ひとつ怒った顔も見せなかった。シャンは、なんとすばらしい男なのだろう。(p50)
このゴジュンバ・カンの登頂の成功をみんな喜んだが、私だけはこだわりがあって、どうしても心から同じように喜びにひたる気持になれなかった。私が頂上へ登ったといっても、この遠征隊が自分のものでなかったこと、それに他の隊員のようにこの遠征に出るため、骨身を削ったわけではなかったからだ。会社の仕事のあと、徹夜で計画し、準備をした人たちと私とは遠くへだたっていた。そして、私自身は他の隊員よりすべての面で劣っていると思う。自分はもっと自分をみがき上げ、自分という人間を作らねばならないことを、この遠征でさとった。私がこのあと、強く単独遠征にひかれたのはまさにそのためだった。どんな小さな登山でも、自分で計画し、準備し、ひとりで行動する。これこそ本当に満足のいく登山ではないかと思ったのだ。(p71)
食事が終わってから、みんなの食べ残したパンや肉などをポリエチレンの袋を持っていってつめこんだ。肉は腐らないよう塩をまぶして包んだ。船の切符を買うと、また無一文になった私は、マルセイユからジャン・バルネ氏のスキー場まで約四百キロをヒッチハイクしなければならない。パンをためこむのが人目につくのは恥ずかしかったが、自分の生活のためだ。恥ずかしいなどとはいっておれない。コシキも恥ずかしがっていてはできない。たっぷり一週間分はザックにつめこむことができた。他にも日本からやってきた、たくさんのザック組がいた。彼らは三食の食事も満足にとらず、フランス料理はまずいとか、何は口に合わないとかセイタクをいっていたが、彼らには、私の十分の一も旅ができまい。「金のない旅だから、どこかアルバイトがないか」と、私に聞いてきたが、「日本食しか食べられない旅人にアルバイトはないぜ」といってやりたい。(p76)
八月まで、まだ数日あったので、私はそのあと危険な山旅からのがれ、セルビニアの近辺に咲く高山植物を採って歩いた。道からはずれた手の届かない岩棚の上に、エーデルワイスの花を見つけたのはうれしかった。誰に見られることもなく風にゆれ、七、八輪の花を咲かせているのだった。そのエーデルワイスの姿は、私を感傷的にした。人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。(p83)
親切な人たちだったが、もしこの警察署の人たちの警告にしたがっていたら、私は、登山ができなかった。もちろん単独の登山は、無謀にひとしいほど危険がつきまとっている。人の意見も、とうぜん重視しなければならないが、その意見にしたがってばかりいては何もできない。人にいわれてやめるのではなく、自分で実際に直面して肌で感じとり、それでできないと思ったらやめ、できると思ったらやるべきではないか。(p112)
一九六七年の日記のはじめに、私はつぎの四つの目標を記している。
ー、グリーンランド行き。
二、フランス国立登山学校への入学。
三、アンデス(アコンカグア)の単独登山。
四、仏・英語、読書の徹底。
十一月にアフリカから帰ってきたばかりなのに、こんな目標を立てるとはかなり欲張っているのは百も承知の上だ。クリーンランドはアルプス、アフリカよりもっと遠いし、だいたい、地球の反対側にあるフランス登山学校と、南米のアンデスを一緒にするなどとは気ちがいざたかもしれない。しかし、少なくても資金の面では給料とチップを入れると、手取りは月額千二百フラン以上になっていた。食費にしか出費しない私の流儀でいけば、ジャガイモを食べていればなんとか見通しが立っていたのだ。コーヒー、アルコール、タバコはやらず、部屋は会社の駅だから家賃なし。ミミッチィやり方といわれたって、私には私のやり方がある。やらねばならないことがある。(p130)
「山登りは自分の足でやるもの。自分の装備でやるものだ」(p163)
「百里の道は九十九里をもって半分とする」
という諺を思い出す。ここでヘマをするとすべてが水の泡となってしまう。私たちの使命は、日本を背負っているのだ。私たちの登頂は自分たちのものでない。慎重を知いてはいけない。こういいきかせてアイゼンのツァッケを氷雪にたたきこむ。(p213)
カヒルトナ氷河のベースキャンプを出て七日目であった。ついに私はマッキンリーの頂に立った。モン・ブラン登頂以来五年目、やっと世界五大陸の最高峰に自分の足跡をしるすことができたのだ。五大陸最高峰の全峰をきわめたのは、私が世界ではじめてだ。また、エベレストを除いては全部単独でやりぬいた。「オレはやったのだ」そう思うと、念さえあればなんでもできると自倍を強めた。そして、マッキンリーの頂に立つと、夢はさらにふくらんできた。実現はさらに夢を呼び、私は登頂した感激よりも、南極大陸単独横断の夢が強く高鳴り、自分の本当の人生はこれからはじまるのだと、出発点にたった感じであった。南は氷河の末端に無数の湖が散り、その先に縁が続いていた。北は白一色の氷の世界だった。私はまず三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで自分の写真をとった。(p235)
こうして五大陸の最高峰を自分の足で踏み、さらにアルプスの中でも特にむずかしい冬期の北
壁の登攀に成功したいま、私の夢は夢を呼び起こし、無限に広がる。過去のできごとに満足して、それに浸ることは現在の私にはできない。困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、いままでやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い世代は二度とやってこない。(p249)