内田舞
小児精神科医、ハーバード大学医学部准教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、3児の母。 2007年北海道大学医学部卒、2011年イェール大学精神科研修終了、2013年ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院小児精神科研修修了。
「このような脳の機能があるため、人間は他者からの「承認」を快楽と見なし、他者からいいリアクションがほしい、他者とつながりたいと感じるのです。ソーシャルメディア上で「いいね!」といったリアクションをもらう仕組みは、この脳の報酬に反応する機能を巧妙に衝いていると言えるでしょう。 また、放出されたドーパミンの量が下がった後には、もう一度同じ量のドーパミ...続きを読む ンがほしい、つまりは「もっと承認がほしい」と思うもので、ときとして SNSに中毒的になってしまうのはこのためです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「でも、自分の匿名性や相手の顔が見えないことにより相手を叩くことへのハードルが下がり、叩く力の強い刺激的な意見に同調的なフォロワーが増えることも少なくありません。 SNSの速いペースに乗って、「部族」のリーダーであるインフルエンサーに影響されながら、みんなが同じ方向へ大挙して向かうような荒波が作られる。その中で流れに反した意見を言うと、すぐさま大勢から叩かれることも多く、反対の意見表明ができない雰囲気が出来上がる。さらに意見が先鋭的であるほど、あるいは影響力のある人の意見ほど、その巻き込み力は強くなる。この極端な例が「炎上」と言われるものなのかもしれません。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「家族の会話で「夜 9時までに帰ってきてね」と友達と出かける子どもに伝えたら、もっと友達と時間を過ごしたいと不満に思った子どもからは「そんなに早く帰らなきゃいけないなんて、お母さんは私に友達を大切にしてほしくないと思ってるんだね!」という答えが返ってくるかもしれません。あるいは国会の予算審議で「教育関連にはこれだけの予算が必要だ」という主張に対して、反対の政党からは「そんなに教育に予算を付けるということは、あなたは国防や国際関係はどうでもいいと思っているのですね」と反論があるかもしれません。 どちらも「そんなことは言っていないのに……」と思う状況なのは、主張の本質の外に返答のポイントがあるからで、こういったものが「かかし術」の典型例です。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「私にとっては歴史的なパンデミックの終わりの始まりを象徴する嬉しい瞬間の記念写真なのですが、その写真に関して、肩を出しているという点で性的なコメントをされることも少なくなかったのです。そして、面白いもので、ひとたび私が「性的な対象」に振り分けられると、私の発言の学術的な価値が低く受け取られることも理解しました。 実際は接種後の絆創膏を貼った肩を出した私がセクシーであってもなくても、私が発信するワクチンの科学情報の正誤は変わらないのに、印象操作の効果というものは興味深いと思わされた一件です。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「また、科学においてこれはさらに顕著です。例えば、地球上では「重力が存在する」と思う人と「重力が存在しない」と信じる人の議論において、お互いの歩みよりにより、重力は存在するという視点もあれば存在しないという視点もあるという中間地点が正しい結論なわけではなく、どんな意見があったとしても「重力が存在する」という事実は変わりません。 このように実は科学においては、両論併記の意味は非常に薄く、「正確な事実」と「誤った認識」とに白黒がはっきりするケースがむしろ多いのです。科学的事実は「議論」によって決まることではなく、エビデンスの「検証」が何よりも大切です。私は臨床研究が本業の一つなので、「質のいいデータ」を集める大変さには常に頭を抱えていますし、「意味あるデータの処理や解析」がいかに努力を要するか、そしてその検証の末の結論の重みもよく知っています。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「 誰かを攻撃しても自分の幸福度は上がらないのです。それどころか攻撃をしたことで怒りやもどかしさが増すことの方が多いかもしれません。そんなときは SNSをそっと閉じてみることも大事ですが、エスカレートした状況に軽率に便乗しないように、そして攻撃の矢が飛んできても深い傷を負わないために、このような捻じ曲げ論法に関する知識を持って一個一個の議論を検討することも重要だと思います。 また、論理を捻じ曲げてでも「自分を正当化して、誰かを貶めたい」という思いは、ときとして「相手を下げることによって自分を上げたい」という自信のなさの現れであることもあります。次の章で「相手を下げても、自分は上がらないよ」という私の息子の名言を紹介したいのですが、そうと分かっていながら、人間にはこのような考えが無意識に湧き上がることがあるもので、だからこそ、オンラインに限らず攻撃を生まない土壌を作るために、相手との比較ではなく、ありのままの自分自身をリスペクトする芯のある自尊心を育てることが必要だと感じます。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「 まず、私自身の研究テーマの一つである「再評価( Reappraisal)」という心理現象の脳機能を紹介させてください。「再評価」とは、ネガティブな感情を感じたときに一旦立ち止まり、その感情を客観的に再度「本当に今このようなネガティブな感情を感じる必要があるのか」と評価して、状況、または感情をポジティブな方向に持っていく心理的プロセスです。感情が「好ましくない状況である」と「評価」したときに、瞬時に行動に移す前に、一回立ち止まって再度「評価」し直すわけです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「クラス内の議論の中で「別姓だと子どもがかわいそう」「別姓だといじめられそう」という不安が多く意見としてあがった一方で、私がアメリカで過ごした幼少期の友達の多くが別姓家庭であったこと、友人の親が別姓だったのを気にしたことがなかったこと、また、自分の姓に宿るアイデンティティを結婚を機に捨てなければならない理由はない、キャリア形成においては改姓しない選択肢があることがいかにありがたいかなど、長々とスピーチをしたのを思い出しました。 その同級生は、今でこそ夫婦別姓に関する議論を日常的にも耳にする機会が増えたものの、肯定的な意見がほとんどなかった当時の日本で、クラスで一人だけ別姓を支持した私が、本当に 20年後に別姓で結婚をしていたことに感動したと笑顔で話してくれました。 この同級生との会話を機に、今すぐに賛同を得られないことであっても、あるいは今は発言することで強い風当たりを感じることがあっても、時代と共に人々の認識も変わり、長い時間を経て新しいコンセプトが理解されることもあると実感しました。そして、未来へのインベストメントのためにさまざまな議論をすることに意義があると考えることができ、この同級生との 20年を隔てた会話にとても感謝しています。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「だから「相手に敬意を払って気遣うことが大事。判断を急いではいけないし、すべてを白黒はっきりさせなければいけないわけでもない」と、性急な判断の前に立ち止まって考えることの大切さを若者に対して政治イベントで語っていました。 行き過ぎたキャンセルカルチャーによって、必要な議論から焦点がずれてしまうこともあります。例えば、差別的な発言をした人を罰することを「正義」と感じた集団のエネルギーが攻撃的になり、相手に謝罪や発言の取り消しを求めることがいつしか目的化してしまう。その中で差別的な発言の何が問題だったのか、差別のベースとなる無意識の偏見に気付くためにはどのような努力が必要なのか、同じような差別が起こらないように社会として何を進めるべきなのかといった本来必要な議論が置いてきぼりになることもあります。 あるいは、些細な発言の言葉尻を捉えられて攻撃され、本来世の中のためにと努力を尽くしている人の成果が全否定される様子を目にした人たちが、「問題発言を指摘する」こと全般に嫌気がさし、「もう疲れた」と議論自体がされなくなってしまうこともあります。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「長年にわたるこういった差別的表象に関する批判を受けて、ディズニーは映画の冒頭に「この作品には、人々や文化に対する、否定的な表現や横暴な振る舞いを描写したシーンが含まれています。このような固定観念は作品制作当時でも誤りであり、現代においても誤っています。ディズニーでは、当該箇所を削除するのではなく、こういった偏見が社会へ与える悪影響を認識し、そこから学び、議論を促すことで、多様性あふれる社会の実現につなげていきたいと考えています」というメッセージを表示するようになりました。 映画を鑑賞する機会をなくすのではなく、むしろ考えることを促す。この作品を見る家族が映画内の差別的表象をきっかけにアジア人とアメリカ社会との関係性を議論することを促すのは、いい取り組みなのではないかと感じます。 アジア人差別の表象に関する批判は『わんわん物語』という作品の価値を否定しているわけではないのです。動物のアニメーションやストーリーのテンポ、音楽の使い方など、多くの革新的な要素が詰まった『わんわん物語』は、これからもアニメーション映画界ではリスペクトされる作品であり続けるでしょう。批判への対応は、キャンセルか許容かの二択ではないのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「「分断を超える」ことは皆が同じ色になるわけではなく、反対側にいるように見える人と経験を共有しながら、少しずつ濃淡の度合いが変わって色が交わっていくこと。そんな変化に寄与し、多くの人の生活や健康に貢献できたことが光栄でした。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「心理学用語に他愛( Altruism)という言葉があります。 これは、抑うつやストレスを感じているときに自分が誰かの役に立っていると思えると抑うつが和らぐという考え方です。小さなことでも充分です。道端に落ちていたゴミを拾ってゴミ箱にいれた、道に迷っている方に道を教えてあげたといった小さな「人助け」が自分の心を豊かにしてくれます。逆に誰かに親切にしてもらったときには感謝の言葉をかけることで、お互いの幸せへの貢献になると思います。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「 私の高校の卒業式では、数学者の藤原正彦さんが卒業生保護者代表のスピーチをして下さり、その内容がとても印象的でした。 数学では Aならば B、 Bならば Cと論理をつなげていきますが、論証の出発点である Aに向かう矢印はありません。つまり論理の発端は常に仮定なのです。その仮定、証明の出発点が間違っていると、どんなにその後の論理が正しくても、たどり着く終着点は間違ったものになります。出発点である仮定を選ぶのは「勘」であり、その勘を磨くために必要なのは「経験」である、というお話をいまも覚えています。高校の卒業から 20年以上たったいま、勘を磨くためには多様な広く深い経験が必要だということを私自身も強く感じています。 さらに、そのスピーチのなかでもう一つ心に残っているのが、「これから挫折を味わう人もいます。しかし、今回挫折を経験しなかった人も、必ず挫折を経験します」という言葉でした。翌週に迫る大学入試の合格発表を見据えたコメントでしたが、それから数日後、私は無事に北海道大学医学部の現役合格を手にし、後に日本人として史上最年少の米国臨床医になりました。 しかし、藤原正彦さんの予言通り、挫折を経験する機会は訪れました。若くして単身で海外の現場に飛び込むのは全く簡単なことではありませんでした。イェール大学での研修時代、他の研修医と比べて年が若く、アジア人の女性で、医学教育をアメリカの大学で受けていなかった私は、その属性ゆえに差別の対象になることもあり、またアメリカ文化の中で重視される自分の意見を述べなければならないような場面ではうまく表現できないことも度々で、屈辱続きだったのです。 異なる文化の中での異なる壁に直面する中で、卒業式での「誰でも必ず挫折を経験します」「必要なのは経験」という言葉が思い出され、その壁を乗り越えるための糧になりました。人生の中で経験する成功だけでなく、時に屈辱的な挫折の経験も、これまでの自分にはなかった多面性を与えてくれるだろう、相手の立場に立って物事を判断する軸をも形成してくれるはずだ、だから挫折にも真摯に向き合おうと思えたのでした。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「その状況を変えられるのは自分しかいないという孤独感のなかで、私が心から持っていてよかったと感じたのが、日本文化で得た「コツコツと努力する」という特性でした。知識を身につけるために勉強すること。患者さんや病棟スタッフと誠意を持って関わること。突然意見を求められても発言できるように情報を整理して準備すること。派手なアピールではなく、地に足をつけた地道な努力が、時が経つにつれ芽を出し、周りの医師たちの目にも留まるようになりました。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「論理のねじれに引き込まれないためには、「勘」だけでなく、「エンパシー」も重要な役目を果たすのではないでしょうか。「勘」と共に「エンパシー」を育てるためにも、多様な人との関わり、多様な経験が大切なのだと思います。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「「エンパシー」についても忘れられない体験があります。私は高校 2年生の夏休みに、アメリカ・マサチューセッツ州西部に位置するスミスカレッジという大学で、女子高校生対象の 2週間泊りがけの科学プログラムに参加しました。様々な刺激を受けたこの夏、私にとって最もインパクトがあったのは、友人のカミングアウトでした。 私と一緒にロボット工学コースに在籍し、いつも明るい雰囲気で外国から来た私がうまく溶け込めているか気にかけてくれていた同学年の女の子が、みんなの前で詩を読む機会がありました。その詩のタイトルは "I know who I am"(私は私が何者かを知っている)で、彼女は詩を読みながら自分がレズビアンであること、レズビアンの情報サイトを見ているときにお母さんに見つかりお母さんに打ち明けたこと、その際最初はお母さんの理解が得られなかったこと、そして誰かが理解してくれてもくれなくても、自分自身は自分が何者かを知っていて、自分がこんな人間であることに誇りを持っていることを語りました。 今では LGBTQ +の友人がたくさんいますが、 90年代後半に思春期を日本で送っていた私にとって、友人がカミングアウトする姿を見たのは初めてで、彼女の苦しみと誇りに感動し、彼女を抱きしめたくなりました。私だけでなくその場にいた多くの仲間たちが同じ思いで、詩の朗読を終えた彼女をハグしに行きました。その後、私は LGBTQ +の ally(アライ、本当の意味でのサポーター)になれるように努力しています。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「「内的評価」とは達成感や生き甲斐、競技に関わる喜び、成長しているという感覚、「自分はこういう人なんだ」と自信をもって言える自尊心のことです。華やかな瞬間が注目されがちなアスリートの毎日は実は地味な努力の積み重ねです。そんな一つ一つの地味な努力に価値を見出すこと、それも「内的評価」の大切な要素です。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「高校 2年生のときに出会った、カミングアウトした友人の詩のタイトルのように "I know who I am."(私は私が何者かを知っている)と、人からどんなことを言われても自分らしく生きたいと思う揺るぎない芯が育ってくれたら、それさえあれば人生はどうにでもなると私は信じています。また、その芯を育てる努力は何歳になってからでも遅くなく、そして人生を通して続ける意義があると思うのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「私が中学生のころに父が薦めてくれた本のなかに印象的な一冊がありました。『 1945年のクリスマス──日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(柏書房)という、日本国憲法に女性の権利を記載してくれたユダヤ系アメリカ人の、ベアテ・シロタ・ゴードンによる自伝でした。 この本を読むまでは、日本国憲法草案が、ベアテを含む 25名のアメリカ人によって約 1週間で作られたことも知りませんでしたし、日本に民主主義をもたらしてくれたのが日本人ではなくアメリカ人だったことも、そして日本人女性である私に権利を与えてくれたのはたった 22歳の女性だったことも全く知りませんでした。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「「しずかちゃん」に気づかされた日本の女性観 私が渡米を真剣に考えるきっかけになったのは、大学に入学してから見えてきた日本での女性の地位に絶望したことでした。日本女性を取り巻く現象として私がよく例に出すのは、理想の日本人女性像として描かれている『ドラえもん』の「しずかちゃん」です。 しずかちゃんは優秀で、美しく、優しく、能力がある。しかし、のび太やジャイアンと同じグループにいながらリーダーシップを取ることはなかなかなく、彼女の役回りと言えばいつも「のび太さん、頑張って」とのび太を応援するばかり。入浴をのぞかれて恥じらったり、怖がってのび太の後ろに隠れたり、果てはのび太の妻になるという常に一歩下がった存在にとどまる描き方の裏側には、能力がありながら、それを発揮しないのが女性の美徳として賞賛される日本の文化があると感じ、違和感を覚えました。 しずかちゃんが色んな選択肢を吟味した結果、自分はこういう人になりたいと望んで、そのような人になるのは素晴らしいことだと思いますし、そのような女性の選択があることも全く悪いことだと思いません。しかし、日本においては画一的な理想像が押し付けられてしまっているところがあって、なかなか他の選択肢が見えてこないと感じました。フェミニズムというのは女性の選択を尊重するムーブメントですが、その女性の選択の種類と範囲が日本では少なすぎ、狭すぎると感じたのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「無意識のジェンダーバイアスは日常の至るところに潜んでいると同時に、気づかない間に内面化していることも少なくありません。そのバイアスに日常の中で出会う頻度が多いほど、「そのようでなければならない」といった社会の空気として受け入れざるをえなくなることも。 最初は抵抗を感じていたかもしれない違和感も、実際には口にすることが難しい局面も少なくなく、いつしかスルーすることが日常化していく。でも、その違和感は見ないようにしているだけで心の中から消えるわけではないので、チクチクとうずくこともあれば、職場で、あるいは学校で、折り合いのつかなさを感じるつど、心にダメージとして降り積もっていくこともあるでしょう。その結果、私のようにその場を飛び出そうと大きくジャンプすることもあれば、諦めや心が折れる思いにつながることもあるのだと思います。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「「蚊に刺される」ことに似ている 誰にでもわかる差別と違って理解が難しく感じられるかもしれませんが、私がわかりやすいと感じた譬えは、マイクロアグレッションの影響について説明する動画の中で語られた、「マイクロアグレッションは蚊に刺されることに似ている」というフレーズでした。 蚊に刺されると痒いし不快ですが、たまに刺されるだけであれば、特に気にならないかもしれません。しかし、例えば「女性」、あるいは「黒人」といった特定のグループの人が、他の性別や他の人種と比べて何百倍も蚊に刺される確率が高かった場合はどうでしょう。 黒人女性が 200回蚊に刺される間に、白人男性は 1回刺されるだけだとすると、白人男性が「不快だが気にしない」のに対して、黒人女性は耐えがたい苦しみに襲われ、「もうこんな痒みには耐えられない!」と怒りを爆発させながら強力な蚊取りスプレーを撒いているかもしれません。しかし、その光景を見た白人男性が、蚊に刺されにくい自分の特権には気付かずに、「僕も蚊に刺されることはある」「ちょっとしたことなのに気にしすぎだ」「黒人女性は怒りっぽい」などという言葉をかけたりすると、自分の苦しみが理解されないと感じた黒人女性の精神的な辛さはさらに増すかもしれません。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「そんな楽な方に流れがちな脳を味方に付けて、長期的にいい判断をするためにはどうしたらいいのか。ここで再度、「再評価」を持ち出させてください。一旦立ち止まって、経験を振り返ってみる。自分の感情、考え、行動について、正直に向き合ってみる。自分だけでなく相手の立場に立ってエンパシーを持って状況を再度評価してみること。こうして今まで抑制されていた前頭前野を活性化してみると、同じ状況でも全く別の捉え方、あるいは別の視点に気づくこともあるのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「アジア人差別を含む映画の表象に問題提起をした論文や記事などはたくさんありますが、特に白人のコンシューマー(消費者、視聴者)からは「『ティファニーで朝食を』という名作を批判してこの表現を差別と呼ぶなんて、映画に関わった人たちや頑張って演じた役者に失礼だ」などという反応もあります。しかし、このように特定の人種への差別が表象されることの問題は、映画製作者や役者個人の判断によると捉えられるほど単純なものでもなく、表象の批判に関しても「製作者への敬意がない」という簡単なものではありません。 そもそもキャラクターの表象には、その時代における意識も大きく作用するので、ひとりの製作関係者の判断の背景には、社会の常識、社会の集合的無意識のようなものもあります。アジア人男性を馬鹿にするような表象を特に問題視しない常識が社会で共有されていれば、映画製作者も消費者も、仮に映画作品の中で差別的な表現がなされていても、それを差別だと認識できないでしょう。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「また、アメリカ大手スポーツメディアの FOX SPORTSの記者が、前述の対レイカーズの試合後に、アジア人へのステレオタイプな見方に基づく軽蔑的なフレーズを用いてリンについてツイートしました。その試合で 38得点を上げたリンに関して、" Some lucky lady in NYC is gonna feel a couple inches of pain tonight."(今夜、ニューヨークで幸運な女性が感じる痛みは 5 ~ 6センチだけ)とアジア人は小さな男性器を持つというステレオタイプを使って笑いを取ろうとしました。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「時に敵意を向けられ、自分とは相いれない反対側にいるように見える人でも、その人が歩んできた人生へ関心を持って話を聞き続けることで、どのような経験がその考え、感情、行動の源になっているかを深く理解し、怒りの下にはどんなに強い悲しみや恐怖心が宿っているかを知ることができました。もちろん、このような深層心理を深掘りするような関係を誰とでも築けるわけではありませんし、 Aさんのように正直に自分を見つめ、率直に言葉を発することができる人もそう多くはないかもしれません。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「時間をとって個人として向き合ってみると、分断とはそんなに単純な色分けではないと学びました。加害者と被害者のように、向こう側とこちら側に分けてわかったように思われても、実際には加害者もまた何らかの被害者であることも少なくないのです。 その複雑さも含め、分断の反対側にいるように見える人とも、心の交流を通して分断を乗り越えることができるという希望を抱かせてもらったと同時に、人々の行動や感情の発露に注目して耳を傾け、一面的でなく多面的に向き合うことの大事さを、いま改めて感じるのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「そうはいっても、人種差別やジェンダー問題について話すとなると、「間違ったことを言ってしまうかもしれない」「知識が足りないかもしれない」、あるいは「自分も過去に差別に加担してしまった経験があるし」と後ろめたく思う場面もあるかもしれません。私自身もこんな話をするたびに、まだまだ知識も考察も足りていないと感じますし、また人権感覚ひとつとってみても時代とともに進歩しているので、過去の反省体験もあるものです。 しかし、間違うことを恐れて、ただただ傍観者でいるのでは、何も前進しません。逆に、間違った言葉を選んでしまうことがあっても、過去に反省があっても、知識が不十分であっても、分断を超えるための考えを共有し、行動することには誰かの苦痛を軽減させる役割があると信じています。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「鬱々とした気分に悩まされるから、やる気が出ないから精神科に行ってみる、親子関係がうまくいっていないから、自分のセクシャリティに悩みを感じるから、あるいは、不安障害やうつ病についての知識を得るためにカウンセリングに行ってみる──そんなメンタルヘルスをめぐる介入は子どもだから早すぎると避ける必要はなく、むしろ私は早期教育や義務教育で心をめぐる基礎的な知識を教えてもらえたらよかったのにと思うことすらあります。合わない環境からは逃げてよい ここまでは主に遺伝要因などの生物学的な要因について述べてきましたが、うつや不安には生物学的な要因と共に環境要因も影響します。もし今いる環境が自分に合っていないと感じたら、「その環境から出る」ことによって病を避けることもできるかもしれません。人間にはときには効果的に「逃げる」ことも重要です。いじめられて辛い思いをしていたら、その学校から転校してもいいし、相手からのリスペクトを感じない不幸せな恋愛関係から身を引いてもいいのです。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著
「たとえば、アメリカ社会の中では、場や会話を盛り上げる力や、他人とのコミュニケーションなどのソーシャルな要素が非常に重要視されています。その環境が合う人もいますが、社会不安や対人恐怖が強い人にはとても大変な環境です。私はそのような患者さんを診る際は、「黙々と課題をこなすことで評価されるような違う職種があるんだよ」「アメリカと比べると対人関係が得意か不得意かが評価の対象になりにくい日本の方が合うかもね」などと話すこともあります。今自分がいる環境とは違う評価軸がある、と知るだけでインスパイアされる子どもや大人もいます。」
—『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る (文春新書)』内田 舞著