島村恭則の作品一覧
「島村恭則」の「恐怖の民俗学」「現代民俗学入門」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「島村恭則」の「恐怖の民俗学」「現代民俗学入門」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
本書は、自然の驚異に対して、原初的な恐怖を感じていたところから、文明の発達によって妖怪や幽霊となり、やがてエンタメとして消費されキャラクター化されると怖いの対象ではなくなっていくという「恐怖」の歴史的な変遷と考察を交え、怨霊、死霊、幽霊という曖昧だった区分を明確に分類している。
恐怖とはつまり、投影(プロジェクション)であるということも脳科学的な側面から解説している。
わたしたちがブランド物に価値を投射することと、心霊スポットに「怖い」という物語を投射することは同じ構造だったなんて!
わたしたちが恐怖を感じる一つの場所として「リミナルスペース」というものがある。
これは廊下やロビー、無人のショッピングモールなど、本来は「通過点」や「移動のための一時的な場所」であるにもかかわらず、誰もいなくて静まり返った不気味な空間を指す言葉(ウイキペディア)である。
本書では伝統的なリミナルスペースは山道や峠道、夜道であったとしている。
そして脳は、文明が発達し現代的で機械的、合理的な空間で創られている都市となった現代でも、非現実的な隙間をみつけて、説明のつかない恐ろしさを投影してしまうというのだ。怖い。
「妖怪」はもはやキャラ化され、恐怖の対象ではなくなっている。
「幽霊」のキャラ化も、貞子は愛されキャラとしてさまざまなグッズになっている。
幽霊もエンタメとして消費されるうちに恐怖の対象ではなくなる日がくるかもしれない。
そうなったとき、「説明がつかない」エラーである恐怖とはどういったものになっていくんだろう。
そういえば、「ヒトコワ」というジャンルもありますね。
人。最後まで残る、恐怖の対象、それは「ヒト」なのか…。
Posted by ブクログ
以前から昔話には興味があった。
昔話と伝説の違いがこの本には明確に書かれている。昔話が土着化し特定の場所や時代と結びつけられると伝説となる。
昔話のほうがどうやら古く一般的なようである(知らなかった、伝説の方が古い感じがしてた)。
先日会った友人に「羽衣伝説」(天女が水浴びのために木に羽衣を掛けて水浴びしている間に、それを見かけた男が羽衣を隠してしまう話)は水のある場所に生まれる、と話していて、当たり前のことなのに、全く気づいていなかった。友人の住む県の水が湧くところにやはり羽衣伝説があるという。
河童の話も取り上げられていて、子どものころに聞いていた「尻こ玉を抜く」というのが、よく分からず、どこのことだろう?と疑問に思っていた。河童の出てくる話「九十九峠」というお話では人間の肛門を99個持っていくということになっていたが、そもそも肛門ってとれるか?と疑っていた。今も謎である。
河童、ケンムン、キジムナーが並べられていた。奄美大島のケンムンについては全く知らないので、調べてみたいと思う。
異類婚姻譚の代表的な話で「蛇の婿入り」が取り上げられていた。蛇が神聖視される土地では蛇の子を産み、蛇を忌避する土地では蛇の子は流される。興味深い。
沖縄の紙商店の写真があり、結納品を扱っているという看板。調べてみたら、今でもあるらしく、沖縄風結納と書かれていた。目録や物品は本土のものと同じ物もあるが、サーターアンダギーなどが書かれていたのは沖縄独特だと思う。祖先祭祀が盛んなことも関係あるのだろうか。
禁足地の話も面白かった。日本の禁足地を調べてみた。八幡の藪知らずは有名だけど、宗教的なものが多いのだと感じる。入ってはいけない場所は減り続けているようだ。
さらっと読むのにはちょうどいいし、深めたいなと思うときはスマホ片手に調べながら読むのもよい本。
Posted by ブクログ
これからの時代に必要な民俗学を解説した著書。
民俗学は、啓蒙主義や合理性などのドミナントな価値観に対し、各地域文化や人々の暮らしの固有性や、合理性では割り切れないものを研究対象とし、価値を相対化する役割や、過去や他地域と比較することで現在の自分たちの文化や暮らし(アイデンティティ)をより深く理解し、未来を考えることに役に立つ学問だと思う。
現在を史学することとして、例えばゴキブリという存在は、過去は隙間の多い日本家屋では、虫は家の中に居て当たり前の存在で、人が蚊帳の中に入り、それらを避ける暮らしであったが、気密性の高まった現代の家屋では居てはいけない存在となり、異物感を感じたり、殺虫剤を常備するという習慣に変化した。また、ゴキブリの駆除方法として、トイレに流すという家庭が多くなっているが、過去のたいまつの灯で虫をおびき寄せて、川に流す虫送りという風習における、秩序維持のための排除装置としての川が、水洗トイレに置き換わったという視点を民俗学は提示する。
日本における土木叩きでは、昔、土を深く掘ることは自然に無理に手を加えることになるため、タブーとされており、生活のために井戸などを掘る人は、軽蔑の対象となっていた。その文化的背景が存在することを示唆する。
結婚においても、昔の庶民は、村内の女性の元に男性が通い婚をし、子供を身ごもったら、嫁に迎えるという2段階の結婚プロセスであった。武家は、嫁入りからの結婚生活を始めるスタイルで、戦後はこのスタイルが主流になった。しかし、後者は性格も価値観もわからない中夫婦生活を営むというリスクがあり、不自然な形態であった。現代では、同棲生活を経てから、結婚に至る昔の庶民のスタイルが、形を変えて復活しつつある。
このように、現在の習慣と過去の習慣を紐づけることで、現在の習慣の過去からの影響や変遷が明らかになり、今の生活の理解度が上がる。
また、霊的なものを主体にした文化についての記述も面白い。
霊的なもとのとして、超自然的な力としての霊力、形象化された霊魂、を元にした生活風習や信仰が根付いている。ハレとケは、霊力によって営まれるケという状態と、霊力がなくなり、充填するためのハレ(張れ)のことであり、霊力の消費プロセスや枯渇をケガレ(気離れ)と呼んだ。
この霊力の消費と充填に基づき、お正月のお年玉(お年魂)やお歳暮、お中元などは、霊力を込めた贈答品を送り合う習慣であった。
正月に食べるお持ちや、海岸に打ち上げられた丸い石、子供の衣服に施された矢の形の背守りなどは、霊力の充填や霊力の脱離を抑制する目的で行われていた。
時間という言葉も、時はハレを表し、間はハレとハレの間のケを表しており、その二つで時間という言葉になっている。また、地名でも由比ガ浜は、結という自由参加の相互扶助的な漁場であったのに対し、田子の浦は、田子と呼ばれる労働力を元にした軍隊的漁の行われた場所を意味する。
また、宮本常一は、伝承に注目する民俗学的なことよりも、苦しい状況でも忍耐と工夫で生き抜く人々の生活自身に注目するようになる。その中には、農や漁に生きた人々の具体的な技能や自然知も含まれる。
川島秀一は、東日本大震災後の沿岸地域での海との隔離をを前提とした画一的な減災対策に対し、災害を受け入れ、漁師として海と暮らすあり方があったことを提示する。
六車由美は、介護の現場で、それぞれの人が持つ事情やワケを聞き取り、マニュアルでは拾上げられない物語を被介護者と紡ぎあげる。人間のせつなさとしょうもなさ。せつなさとは、ひとびとがそれぞれ生きる時代や地域や状況の中で、ひたむきに忍耐と工夫を嵩ね、一生懸命に日々の暗しを営んでいることへの感嘆と賛辞である。しょうもなさとは、そうした人々が差別や抑圧や暴力の被害者となり、また加害者や、無責任な傍観者になる。学んでもまたすぐに忘れてしまい、また同じ過ちを繰り返す。あざなえる縄のごとく立ち現れる。
資本主義、合理主義、啓蒙主義などのドミナントに対して、価値を相対化して、多様な視点を得るためだったり、日々の暮らしの中で知と知が結びつく知的探求心の満足が得られた里、過去を知ることで現在の習慣や暮らしの解像度が上がり、未来を考えやすくなったり、そのままにしていると失われる他者の記憶の器になることが、民俗学の魅力なのではと思った。
Posted by ブクログ
民俗学、と聞くと難しいが要は、内輪のちょっとした伝統とか慣習。
例えば親の叱り方。
我が家では「怖い人」に、家まで来て言う事を聞かない子供を連れて行ってと電話することがあった。
勿論「怖い人」は架空の人物だ。
こういう、架空の人物を使った叱り方をする家庭は案外多いらしい。
筆者はこれも民俗学と言える、と書いていて面白かった。
他にも、消防士やトラックドライバーさんたちの慣習などいろんな視点から、様々なちょっとした伝統をとりあげて、民俗学について面白く書かれていた。
なるほど、身近なちょっとした内輪の伝統=民俗学か。
私の一族が集まったときも、輪になって歌うなど、決まってやる事があるがあれも民俗学に当てはまるなあ。