Why思考をアイドリングさせておくにはどうしたらよいか、という問いから始まって本書に手を伸ばした。
「編集力」というキーワードと現時点でのイシス編集学校の代表ということから、セイゴオ氏の後継であることは想定していたが、期待を上回る、良い影響を受けた。将来の自分を想像して、その時点から顧みたときに「自分の人生を大きく揺り動かした一冊だった」と思う本になるかもしれない。
『知の編集工学』と比較してみると、記述された時代性もあってか、あちらがワイルドなのに対してこちらはマイルドな印象。刺激の強さが軽減されている一方で、『知の編集工学』では咀嚼しきれなかった部分もスッと飲み込めた。そして独自の視点としては、屋台骨である「問い」である。
さて私の元々の目的であった「Why思考のスイッチを常にオンにして活動するためにはどうしたらよいか」。その答えは、思うに本書の「総体」に散りばめられている。本書全体から丁寧に受け取る必要がある。
Why思考を常時オン化したい理由は複数ある。
人との対話において「話がつまらない」と言われてしまう。
仕事で詰めが甘くケアレスミスが発生する。
興味の幅が広く、あれこれに手を出してしまいどれも中途半端。
やるべき小さなタスクを無意識に見て見ぬふりしてしまう。
こういった日常の欠点を改善するためには、「常に」「全方向に」Why思考を持つ必要があると私は考えた。
視点の抽象度を単に上げるにしても、それを常時オンにするのは非常に難しい。仕事をするとき、料理をするとき、本を読むときなど、何かに集中するときには、やはり全体が見えなくなる。
対話であれば、相手の返答における言葉選びから、声のトーンや目線といった非言語コミュニケーション的反応を「読み」、その機微を捉えて、無意識な疑問をスルーせずに細かく軌道修正してこそ、相手を尊重した応対が出来ると言えよう。無視して自分の主張を押し通すことは相手への敬意に欠ける。
ケアレスミス防止のためには念入りに確認をするのが定石だが、その時点ではまだ解像度が荒く、根性論が隙間に入り込む。タスクの目的まで一度抽象度を上げて、そのタスクを満たすために必要な条件を因数分解し、その素因数の条件を自分のアウトプットが満たせているかどうかをMECEに評価する。この具体抽象の往還と評価には、やはり疑う心、問う心が欠かせない。これを中長期のスパンに敷衍すれば時間術や仕事選び、人生の舵取りに適用されうる。
そして次、これが喉奥の魚の骨なのだが、やるべきことを無意識に見て見ぬふりしてしまう悪癖の対処。
このためには、微かであれ認識によぎった違和感をすばやく捕まえて「問い」としてまな板に乗せ、丁寧にさばく習慣が必要で、この違和感を逃さない術こそ、道端のスミレに気付く察知力に他ならない。
これらを総括する「問いの編集力」をわがものとするには、どことなく後回しにしてしまいそうな、本書で挙げられている練習問題を何周かこなして身に沁み込ませる必要がありそうだ。
実際に練習問題に取り組んでみて、やはりまだ自分のインターフェイス(IF)の表面が固く、自分と世界の間の輪郭がはっきりしすぎていることに気付いた。このIFを水彩画の絵の具が水に溶けるようにボヤっとさせることが、自分を取り巻く人、環境、空間、時間、世界を取り込む手段となるように思う。
著者安藤氏の、なめらかで暖かな言の葉の紡ぎ方から、そのIFの柔軟さが本当によく読み取れる。こんな文章を書きたい。というかこんな人になりたい。そう思わせてくれる一冊だ。
あと最近読む本あちらこちらで登場するベイトソン。彼の学習階型論の件は非常に考えさせてくれた。これはこれでやはり原著を当たらねばなるまい。