うーん面白かった。セックスやセクシュアリティについて考えていたことと交差して、思考が刺激され続けた。これはおすすめ。
人間のセクシュアリティやセックスに善悪はつけようがない、と私は思っている。人々が求めるセックスの背景には、さまざまな欲求がうごめいている。…考えるべきは、人間の本能的な部分が社会とのかかわりのなかでどのようにして齟齬をきたすかということ、また、社会の一部分であるはずの私自身が、なぜ特定の性的実践を受け入れられないのかということだ(p.29)
…相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。…背景にともに過ごした時間、すなわち私的な歴史があって、その文脈のなかで想起されるものが、パーソナリティではないだろうか。…人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気付かされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間を過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。(p.65)
セックスを誘導することはすなわち動物をセックス・トイのように扱うことであって、それはズーとして許されない行為だと彼らは考えている。そんなことをすれば、動物との対等性が一瞬にして崩れ去るからでもあるのだろう。
…「そうだね、僕たちは対等だった。お互いにセックスをしたいと思った。YESとNOを互いに表明し、受け入れ合うことができた。そういう意味でその犬と僕は対等だったよ」(p.91-92)
果たしてセックスに誘導することはトイのように扱うことと同義なのだろうか?それはグレーな境界線がある話なのだと思う。人間も同じではないか、誘導と誘惑、誘惑に乗ることは何が異なり、それは対等性の観点から問題があることなのか、私はどのような関係においても、対等なんていうものは幻想なのではないかと思ってしまう。それが与え与えられることが入り組み合うことでプラマイ均衡することはあるかもしれないにせよ。
性という生に欠くべからざる要素をも含めてパートナーを受け止めたい、とズーたちは言う。(p.97)
対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての問題を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。(p.104)
アクティブ・パートの男性は語りづらい。なぜならば、挿入するという行為に伴う自発性が、動物を傷つけることと同義と捉えられやすいから。パートナーが馬であればその可能性は低いから話しやすいという考察、なるほどだった。(p.158)
パッシブ・パートの人々がセックスに置いて得る最大の喜びは、支配者側の立場から降りる喜びだ。そのときにこそ、彼らが追求するパートナーとの対等性が瞬間的に叶えられる。
しかし皮肉なことに、パッシブ・パートが、性も含めてパートナーの存在を丸ごと受け入れる素晴らしさを満面の笑で語ることができるのも、性的ケアの側面を強調できるのも、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。彼らはペニスの暴力性から解放されることで、まるで自分自身もまったく暴力的でないかのように語ることができる。
だが、性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない。短絡的にペニスに暴力性を見出していては、セックスから暴力の可能性を取り去ることはできない。…性暴力の本質はもっと別のところにあり、それは性別や性器の形状とは根本的に無関係なはずだ(p.162)
言葉での合意さえあれば性暴力ではないと、いったいなぜ言えるだろうか。言葉を使う私たちは、言葉を重視すればするほどきっと罠にハマる。言葉は、身体からも精神からも離れたところにあるものだ。それは便利な道具だが、私たち自身のすべての瞬間を表現しきれない。言葉が織りなす粗い編み目から抜け落ちるものは、あまりにも多い。(p.174)
人間は動物との間に設けてきた境界を隔てて、「人」というカテゴリーを生きている。人間と動物のセックスは、その境界を撹乱する。ズーたちが提起しているのは、セックスとはなにかという問いだけではなく、人間とはなにかという問いでもある。(p.194)
セックスの本能が先にあってセクシュアリティが発生するとは限らない。セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることも可能だ。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と宣言してもよいのだ。(p.242)
※セクシュアリティを「セックスにまつわるあらゆること」と定義した上で。
ある人にとってズーとは、身近な動物をまるごと受け止めながら、共に生きるための新たな方法であり、ある人にとっては愛すべき恋人や犬を受容する方法であり、またある人にとっては政治活動であもある。(p.244)
彼らは真剣だった。セックスや愛を通して、望む生き方について彼らは語っていた。
ズーたちのセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係のなかで対等性を叶えるための方法にもなっている。…セックスが、人間と動物の対等性を一瞬でも叶える力を持つなどとは思ってもみなかった。永久に体現できないかもしれないとも思える対等性を、ズーたちはセックスの瞬間に手にしている。
あるいはそれは、夢かもしれない。だが、なんていい夢なんだろうと私は羨んでさえいる。彼らはその瞬間に愛とセックスを一致させる。支配する側から、そのときばかりは降りることが許される。愛する相手を「丸ごと受け入れる」喜びを得ながら、ズーたちは種の違いを乗り越え、パートナーとの対等性を叶えようとする。(p.255)