Posted by ブクログ
2020年12月27日
解説:動物性愛について
獣姦は動物とセックスすることそのものを指し、ときに暴力的行為を含むが、動物性愛は動物に人間のような心理的愛情を持ち、その延長線上としてセックスに至ることだ。
現在、精神医学では、動物性愛はパラフィリアのひとつ、つまり性にまつわる精神疾患とされている。LGBTのように、性愛にお...続きを読むける亜種のひとつ――セクシャルマイノリティに数えられてはおらず、小児性愛や死体性愛者と同じカテゴリに見られている。
近年の動物性愛にまつわる世界的な議論は、その行為が「動物への虐待になるかどうか」に焦点が定められることが多い。犯罪学からの観点では、動物とのセックスをいかなる場合であれ動物虐待とみなして、断罪する論調が目立つ。それは「動物は言葉を話せず、人間が理解できるかたちで合意を伝えられない、だから動物虐待にあたる」という理由である。
【本書の詳細】
①動物性愛者団体「ゼータ」について
10年間DVと性的虐待を受け続けていた筆者は、ずっと愛とセックスの関係に疑問を持ち続けていた。そんな筆者は、人間と動物とのセックスは、人間と人間との関係やセックスという行為、ひいては「愛とは何か」を抽象化してくれる鍵になるのではないかと考え、ドイツにある動物性愛者団体「ゼータ」のメンバーにインタビューを行うべくドイツに向かった。
ゼータのメンバーは自身を「ズー」(ズーフィリアの略称)と名乗っている。ズーのなかにも色々な違いがあり、人間の男女性愛のように、ズー・ゲイ(人間男×動物♂)やズー・レズビアン、ズー・ヘテロが存在する。また、セックス時の立場を示す言葉として、受け身の場合は「パッシブ・パート」、その逆は「アクティブ・パート」と呼ばれている。
ズーのメンバーの多くは自宅に何種類もの動物を飼っているが、必ず大切な一人(セックスする相手)をパートナーと呼び、それ以外をペットとして区別している。
②動物とのセックスの仕方
ズー・ゲイの人々は、オス犬に肛門を差し出し、ズー・レズビアンはメス犬のクリトリスとヴァギナを刺激してあげ、絶頂を促すという。
ズー・ゲイでパッシブ・パートのミヒャエルは、「どうやって犬がセックスをしたがっているかわかるのか?」という問いに、「簡単だ。犬とのセックスは自然に始まる」と答えた。動物は人間と違ってしたいときにする。食べることや遊ぶことと何ら変わらずに人間を求めて来る。ただし、犬が求めてきても自身がしたくないときは応じず、そこは人間のセックスと同じである。
一方、動物たちは、人間の匂いをかぎとって飼い主から誘惑されていると判断している。犬は精液や経血の匂いにとても敏感であり、人間のオナニー時や生理時に特に発情が強くなる。匂いで判断するという習性上、動物もやはり衣服を着た人間より裸体の人間に興奮しやすい。そのため、ズーの人びとは服という人間らしさをときどき捨て、自宅では裸体で過ごすことが多い。
求めてくるタイミング、一緒に過ごすときの反応の仕方、性格、それは動物一頭一頭違う。そしてズーたちも「犬ならなんでもいい」というわけではない。ズーたちは口を揃えて言う。「動物にはパーソナリティがある。」
③パーソナリティとは何か
パーソナリティとは関係性の中から立ち上がるものであり、「性格」とは違う。恋人を前にした態度と家族を前にした態度が異なるように、自分と相手が触れ合い、意思疎通をし、共有した時間から引き出される、その2人(1人と1匹)の間だけの特別な関係性、それが「パーソナリティ」である。同じシェパードを3頭飼っているズーはこう言った。「パートナーは1頭だけであり、他の2頭に比べて彼だけが僕に特別な感情を抱いているんだ。」
ズーたちにとって、パーソナリティは人間にも動物にもある。彼らは人間と動物が対等な存在であることを前提としており、その関係性は時に、我々がペットに抱く「愛玩動物」としての倒錯した役割を浮き彫りにする。
人々は動物性愛と小児性愛を同一視しがちだ。そこには、「大人と子供は対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚の近似がある。
子供も動物も、人間の大人ほど知能が発達していない。だからペットに服を着せて赤ちゃん言葉で話しかける。子供が性欲をむき出しにするのをおぞましいこととみなし、自慰行為を禁止したり去勢を行ったりする。
しかし、動物が子供と違うところは、性が成熟しているということだ。
その根本的な違いをズーは理解している。動物との対等性を見出すズーは、ペドフィリアを嫌っている。「性的な目覚めがない相手に性行為を強いるのは間違っている」からだ。その裏側にはもちろん、「成熟した動物たちには性的な欲望とその実行力がある」という主張がある。動物に対して本当の意味できちんと接しようとするからこそ、動物たちの性を受け入れるのだ。
我々が、動物とセックスする人間に嫌悪感を抱き批判するのは、それが歪んだ愛情や性玩具としての役割を動物に押し付ける――上下関係を利用した動物の虐待――とみなすからである。
しかし、動物を知らず知らずのうちに格下に見て、「異種への共感」を蔑ろにしているのは我々批判者のほうではないだろうか?
④アクティブ・パートの人びと
パッシブ・パートの人々は口を揃えて言う。「動物たちから自然に誘ってくる」と。
アクティブ・パートの人びとも同じ考えを抱くが、彼らは皆、自分のセックスについてあまり語りたがらない。
それは、アクティブ・パートは、自分のセックスが虐待的だと見なされるのではないかという恐怖につきまとわれているからだ。アクティブは動物に挿入する行為を伴うため、ペニスの大きさがヴァギナを傷つける恐れがある。これはパッシブ・パートの一部の人々にも共有されている感覚であり、時にパッシブの人はアクティブの人を快く思わないことがある。
アクティブ・パートの中には、「ゼータ」に所属していたものの、彼らと折り合いがつかずチームを離れた者もいる。彼は筆者に皮肉交じりにこう告げた。「ゼータの人間は『聖なる・ズー(いい子ちゃん)』だ。」
しかし、ペニスの大きさとヴァギナの大きさに違いがあるから性的虐待になるという理屈はおかしいのではないだろうか?パッシブの女性は、馬に挿入する行為は性的虐待に繋がらないと考えていた。馬のヴァギナと人間のペニスでは大きさが違いすぎるからだ。だが、本来であれば性的虐待はペニスの挿入を伴う行為のみを指すものではない。この事実は、ペニスそのものに暴力性を見出す視点が社会に漂っていることを浮き彫りにしている。
パッシブ・パートの人々がセックスにおいて得る最大の喜びは、相手を丸ごと受け入れることのできる自分と、パートナーの性的満足である。しかし皮肉なことに、パッシブ・パートナーがそうした対等性の喜びを享受できるのは、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。
性暴力の本質はペニスそのものにあるわけではない。ペニスを悪者に仕立て上げたところで、解決策を生むどころか断絶を作るだけだ。
⑤愛とセックスの関係性
ドイツ(ベルリン)では、「セックスとは限られた間柄でするもの」という社会規範に対する抵抗運動があり、そこではセックスは淫靡的ではなくオープンなものであるという倫理観が共有されている。キリスト教による男性同士の性行為や動物との性行為を、「自然に対するわいせつ行為」として禁止する価値観があったことから生じたバックラッシュである。
「いい関係においては、愛とセックスは一致する」
ズーの人々はみなそう答える。身体のオーガズムと、頭のオーガズムがあり、セックスが前者で愛が後者だ。セックスには身体的充足と精神的充足があり、その面では、人間と犬という種の違いも問題にならず、むしろ種を超える役割を果たしているようにも思える。
⑥ズーが社会に伝えるメッセージ
クルトというゲイの少年は、動物のパートナーを持たないにも関わらず、自分がズーになりつつあると認識し、周囲にカミングアウトを行っていた。
クルトが周囲の友人にカミングアウトするとき、つまりセクシュアリティをひとつの問題として身近な社会に提示するとき、クルトはズーであることを、「生来的で自分ではどうにもできない性的指向」ではなく、その文化的・環境的な側面を含めた「選択肢」として相手に伝えている。
セックスは本能的で自分ではどうにもできないものではない。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と事後的に選択することもできるのだ。
クルトのカミングアウトは、身近な社会を変えていこうという意思が備わっている。
「セクシュアリティは自由だぞ」と周囲に訴えかける力強さがあるのだ。
ズーたちはみな、セクシュアリティの自由を求めている。結局は、なにものかわからない「社会規範」というものからいつの間にか押し付けられているセックスの「正しい」あり方は、一部の人々を苦しめ続ける。それはセクシュアルマイノリティだけではなく異性愛者も同じだ。だからズーは人々に理解を促す。愛の形には多様性があり、その選択肢の一つとして動物とのセックスが成立し得ることを。
セックスの前提に本物の愛があれば、他者から批判されようとも、彼らは強く立っていられる。裏切りも表裏もない動物という存在に、彼らは本物の愛を見出し満たされているのかもしれない。
ズーと出会って、筆者は変わった。性暴力の経験者として「カミングアウト」をし始めた。時には他者から投げかけられる偏見を享受しながらも、自らの傷をありのまま受け止め、他者を理解することを始めた。ズーが誰を愛するかの自由を求めたように、筆者はセックスを語る自由を求めたのだ。
【感想】
年の瀬に凄まじいエッセイに出会ってしまった。ズーの人々が語る衝撃的な日常とその裏にある普遍的な愛の形を丹念に描写し、「愛とセックス」という茫漠なテーマを見事に畳みきってしまった。とんでもない大傑作だった。
まず、プロローグで語られる筆者の生い立ちが凄まじい。
10年間もの間恋人から身体的暴力と性的虐待を受け続け、セックスと愛情との間に埋められない溝を作られてしまった筆者が、人間と動物とのセックスを通じて、「愛とセックス」との関係の本質性に迫ろうと決意する――このいきさつだけで本一冊が書けそうなぐらいのテーマである。
筆者が出会ったゼータの人々はみな常識人であり、世間一般に考えられているような動物を性的なおもちゃとして扱う人物ではなかった。彼らはみな動物をパーソナリティある対等な関係として扱う。人間の子どもやペットのように「保護され愛玩される」対象として捉えず、あくまで対等な関係として考える。それゆえに彼らは動物の性行為を受け入れる。動物を性的衝動のある一個人として捉え、抑圧をせずありのままを受け入れている。
最初は、こうしたズーの人々の描写が続き、私も「動物性愛は暴力的な趣向ではないんだ」と認識を改めていた。しかし、筆者はいい話ばかりでは終わらせてくれなかった。
ここで出て来たのがアクティブ・パートの人間である。彼らは動物を愛するがゆえに、ペニスを挿入して動物を傷つけることを恐れている。同時に、パッシブの人間は時にアクティブの人間を動物虐待者として考えている。
そうしたいさかいによりゼータを離れたズーは、アクティブ・パートのズーにこう悪態をついた。
「ゼータの人間は『聖なる・ズー(いい子ちゃん)』だ。」
私が本書で最も衝撃を受けたのはここだ。あまりの唐突さに混乱せずには居られなかった。
「この本のタイトルはここから取ったのか?なぜ、どうして、ネガティブな意味を本書の核にしたんだ?」
その後、パッシブの人間は動物をパーソンとして考え、対等で尊敬すべき相手として動物と接していると結論づけられたが、アクティブという「もう一つのセクシャルマイノリティ」が、自身の性とどう折り合いをつけているかは、ついに語られることはなかった。
また、この筆者はエクスプロア・ベルリン(3日間に及んでセックスやセクシュアリティにまつわるさまざまなことを経験するフェスティバル)に参加している。参加する旨をズーに告げた時、彼らは「あんなとこにいくなんてトンデモない。誰とでもセックスするような人間のいるところなんて」と筆者に警告する。
ズーの人々は無意識に、フェスティバル参加者に対して偏見の目を向けている。愛の多様性を問う彼らもまた、自身に理解できないセックスの形を批判する存在であるのか。マイノリティが目指す愛の形は、やはり理解し合えない歪なものであり続けるのか。
本書を通じて筆者は、ズーの人々と世界に共感し、心を開いた。出会ったズーたちに「本当にありがとう。みんなのおかげで私は世界を広げることができました」というメッセージを送ってドイツを後にした。
しかし、彼女の地の文は、最後の最後まで「懐疑性」を帯びている。ズーの人々だけではない、もっと違う性的趣向を持つ人々にアクセスし、議論が一方向だけで終わらないように細心の注意を図って文を書き続けている。
筆者はズー達との触れ合いを得た後で、痛烈に投げかけている。「愛とは何か、セックスとは何か。転じて、セクシャルマイノリティとは何か」と。それはズーの存在を認めたうえで、彼らが抱える性の歪みの外に広がっている、違う歪みへの存在を気づかせるための問いなのかもしれない。