デヴィッド・グレーバーの一覧
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ユーザーレビュー
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最悪のシステムの中の最善のシステムである、資本主義について、情報技術によってますます加速し、変容をしていく先に何が待っているのか。2019年の断面で7名の経済学者が未来を予測した書
キーワードは以下です。
米中の対立
資本主義の修正と変容
富の再配分
人工知能の発達と普及、そして雇用への影響
...続きを読む目次
プロローグ 「未完」のその先を求めて
Chapter1 ポール・クルグマン 我々は大きな分岐点の前に立っている
Chapter2 トーマス・フリードマン 雇用の完新世が終わり、人新世がはじまる
Chapter3 デヴィッド・グレーバー 職業の半分がなくなり、どうでもいい仕事が急増する
Chapter4 トーマス・セドラチェク 成長を追い求める経済学が世界を破壊する
Chapter5 タイラー・コーエン テクノロジーは働く人の格差をますます広げていく
Chapter6 ルトガー・ブレグマン ベーシックインカムと1日3時間労働が社会を救う
Chapter7 ビクターマイヤー=ショーンベルガー データ資本主義が激変させる未来
エピローグ 加速する世界の中で
ISBN:9784569843728
出版社:PHP研究所
判型:新書
ページ数:204ページ
定価:900円(本体)
発売日:2019年09月27日
Posted by ブクログ
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やらなくても誰も困らない仕事(何も寄与しない仕事)って確かにあると思います。
労働自体が目的となっていないか❓
そんな事を考えさせられる一冊です。
Posted by ブクログ
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ブルシットジョブとは。
被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用形態である。しかし、その雇用条件の一環として本人は、そうではないと取り繕わなければならない。
高給であればあるほどブルシット化してしまう現状。その無意味さに本人が気付いているか
...続きを読むらこそ、そうではないと自分が演技をしてしまうという記述には心当たりがありすぎて胸が痛かった。
さらに、その歴史的な背景を紐解いていく壮大さに夢中になった。
この本を読み終わったあと、端的にこの世界をかえりみて思うことは「狂っている」の一言である。
ベーシックインカムなどにやり、自由に人間らしさを取り戻した世界になることを切に願う。
Posted by ブクログ
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世界中どこにでも仲間がいる、クソ仕事が溢れ続けることそれ自体によって、資本主義が終わる未来が見える、そんな一冊。
Posted by ブクログ
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デビッド・グレーバーは、2013年の「ブルシット・ジョブ現象について」と題された小論で、どうでもいい無益な仕事「ブルシット・ジョブ」が世の中に満ち溢れているのではないかという刺激的な仮説を世に問うた。この小論は各国語に翻訳され(例に挙げられた14か国語の中になぜか日本語が入っていない。ラトビア語や韓
...続きを読む国語は入っているのに)、様々な議論を巻き起こした。その中にこの論争に関してイギリスで世論調査が行われ、労働者のうち37%が自分の仕事に意味がないと感じていて、不満と考えている割合はそれよりも低い33%という結果が出た。論争や世論調査の結果は著者の想定していた以上のものだったのだ。
「なにか有益なことをしたいと望んでいるすべてのひとに捧げる」とした本書は、この小論を大幅に拡張して一冊の本にしたものである。小論はそのまま収められているが、そこで十分に掘り下げられていなかったこと ― なぜこの状況が問題視されずになんらかの手が打たれなかったのか ― を探求したものである。ブルシット・ジョブに関する広範な議論やヒアリングの事例が含まれるため、結果とても長い本になっていて、もう少し冗長度を下げて短く(そして値段も安く)することはできたかと思う。またもちろん、その内容について必ずしも賛成するという人ばかりではないと思う。しかしながらそれでも、何かしらの大きな問題提起がされていて、読まれるべき本とひとまず言っていいかと思う。
【ブルシット・ジョブの定義】
グレーバーは、ブルシット・ジョブを最終的に次のように定義する。
「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」
自分の仕事はこの定義にズバリと当てはまります、正にそうです、という人はもしかしたらそれほど多くはないのかもしれない。ただ、自分でもそのように感じているという主観的評価が定義に含まれているところがここでは大事なところだ。そして、実際にイギリスの労働者の37%がイエスと答えたのだ。
グレーバーは、具体的なブルシット・ジョブの例として、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、広報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士、などを挙げている。果たして、これらの仕事全部がブルシット・ジョブなのかどうかわからないが、より一般的な観点から整理して、ブルシット・ジョブのカテゴリーとして次のようなタイプの仕事を挙げている。
・取り巻き (Flunkies)
・脅し屋 (Goons)
・尻ぬぐい (Duct Tapers)
・書類穴埋め人 (Box Tickers)
・タスクマスター (Task Masters)
このレビューで詳しくそれぞれがどういうものかは書かないが、何となく想像は付くだろう。
【ブルシット・ジョブの精神的負担】
グレーバーは次のように書く。
「わたしが募った証言から強烈に伝わってくることのひとつが、これだ。つまりは、腹の煮えくり返るような不明瞭さである。なにかいやなこと、馬鹿げたこと、途方もないことが起こっているというのにその事実を認めてよいのかさえはっきりせず、だれを、なにを非難したらよいのかも、それ以上にはっきりしないのである」
自分の社会的価値に疑問を抱きながら働いていることの心理的負担は相当のものだとグレーバーは指摘する。さらに悪いことには、これらのみせかけの仕事がいったい誰のせいなのかがわからないということだ。
グレーバーは「精神的暴力」と呼ぶ。本来、受ける必要のない暴力である。
「ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである」
無意味な雇用目的仕事がどうしてこれほど人を不幸にさせるのか。本書の最後の方で、フーコーの権力論を援用してブルシット・ジョブに関わる権力構造を分析している。フーコーの権力論は、権力そのものは悪ではなく具体的な個人に集約されているものではなく、逆に権力は社会の中に組み込まれる関係であるとされる。ブルシット・ジョブはそのような社会構造の中から生まれてきたのだ。
ブルシット・ジョブのような無駄な仕事が市場資本主義の中でこれほどまでの大きさで生まれているのは市場資本主義の逆説である。グレーバーは、ブルシット・ジョブを生み出しているのは資本主義それ自体ではないという。その原因は、マネジリアリズム・イデオロギーだと指摘する。
【ブルシット・ジョブに関する問い】
グレーバーは、ブルシット・ジョブに関して三つの次元の違う問いを立てなければならないと指摘する。
1. 個人的次元: なぜ人はブルシット・ジョブをやることに同意し、それに耐えているのか?
2. 社会的・経済的次元: ブルシット・ジョブの増殖をもたらしている大きな諸力とはどのようなものか?
3. 文化的・政治的次元: なぜ 経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか、なぜだれもそれに対応しようとしていないのか?
この件に限らず、これらの異なる次元を混同して説明しようとするから、議論が発散したり、
レイシズムにせよ男女平等にせよLGBTQ運動にせよ学歴社会・競争社会問題にせよ社会保障問題にせよ、複雑な社会問題を論じるときにはすべからくこの次元を意識して議論するべきだ。著者が指摘する通り、ブルシット・ジョブ問題もしかり。グレーバーは、特に政治的次元でなぜブルシット・ジョブが社会において問題化されずに増大していくのかという点を論じている。
これは、労働に関する倫理的価値の問題だとグレーバーは言う。義務であり創造であるという労働倫理感が西欧社会に敷衍したがゆえに、無駄な労働を作ってでも雇用を確保し、さらに労働者がそれに対して異議を唱えたり、そもそも労働を拒否したりすることがないということが起こったと論じる。仕事を全くしないことの引け目を感じることにより、ブルシット・ジョブであってさえも仕事をすることが道徳的に正しいと感じるのだ。グレーバーは、社会学者らしく、ヨーロッパで労働が精神的に義務化され、かつ倫理的に正しいものとなっていった歴史を振り返る。また、これは資本主義の誕生によって賃労働が主になってきたことによって強化された。社会は労働価値説を受け入れ、時間を所有し売買することとなった。その労働倫理は、宗教的にも社会的にも利益があることだった。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で論じたように、仕事は神の恩寵であった。守るべき美徳であった。
【ベーシックインカム】
ケインズは、テクノロジーの進化によって二十世紀末までには週十五時間労働が実現されるだろうと予測した。テクノロジーの進化はおそらくはそれを可能にするほど進化したにも関わらず、ブルシット・ジョブが生まれたおかげでそのような社会にはならなかった。完全雇用や、労働の美徳という道徳観から、本来必要のない仕事を多くの人がしていて、それがおかしいことと指摘されず、修正に向けて動くこともなかったからだ。
ここで持ち出されるのが、普遍的ベーシックインカムである。著者は、政策的解決策としてベーシックインカムを提言するわけではないことを強調する。何となれば著者のポジションはアナキストであるからだ。ただ、それよりもまずは多くの人がこの観点からベーシックインカムを検討してみてほしいというのが著者の意図であるのだ。
グレーバーは、ベーシックインカムによって金銭的な必要性がなくなった上で人が仕事を選ぶようになるとブルシットジョブではなく、「有益な仕事」をするようになるだろうと主張する。ベーシックインカムの究極的な目標は、生活を労働から切り離すことだと主張する。
一方でベーシックインカムは政府の肥大化や不経済・非効率を生み出すのではと言われる。それに対して著者によると、ブルシット・ジョブの存在を前提とすると、それらが縮小することから、ベーシックインカムの導入によって政府の経済的な面からも削減される効果を期待できるとも主張する。少なくとも導入されるベーシックインカムにより、国家権力の拡大を招くのではなく、まったくその逆として立ち現れる限りにおいて著者は賛同するのである。そのためには、条件付きではない、普遍的ベーシックインカムが求められる。
【ベーシックインカム社会と宗教的社会】
グレーバーは、「本書の主要な論点は、具体的に政策提言をおこなうことにはない。本当に自由な社会とは実際にどのようなものなのかの思考や議論に、手をつけはじめることにある」という。そこで、著者の狙いに沿って、ベーシックインカムが実現されるような社会とはどういう社会なのかを考えてみたい。
本書の議論を読み進めて頭によぎったのは、新興宗教が成立する条件との親和性である。ちょうど旧統一教会の問題が日々話題になっていることから影響されて連想されたことではある。そこには何か本書の議論で不足している要素のようなものがあるのではと思うので、結論があるわけではないが、少し考えてみたい。
ある種の閉鎖的な新興宗教においては、その閉鎖的コミュニティが最低限の生活を保障する。一方でメンバーは、そのコミュニティに「有益な仕事」に従事する。そこにはブルシット・ジョブは存在し得ないだろう。そして、そのための経済的な基盤として持てるものが拠出する、という構造である。それを実現するための条件が絶対的な「善きこと」をコミュニティのメンバーが共有することである。この構造は、ベーシックインカムが経済的かつ社会的に成立するための条件と似ているのではないか。政策的な法制度がそれを保証するのか、教義が保証するのか、違いはたくさんあれども、ベーシックインカムが成立するためにはそれを受け入れるための信心・道徳のようなものが必要となってくるのではないかと思う。
これは、グレーバーの考えが新興宗教に似ているということでは全くない。閉鎖的な新興宗教が成立する構造が、ベーシックインカムを成り立たせる構造とが似ているのではないかということである。逆に新興宗教がグレーバーの考え方をある意味では先取りして、実践をしているのではないかとも思えてくるのである。たとえば、週15時間労働を美徳として、それ以上にお金のために働くことを忌避し、コミュニティのケアのために時間を割くことが当然とされるような社会である。
そもそも『プロテスタンティズムと資本主義の精神』でマックス・ウェーバーが説くように、資本主義の成立において宗教が説く価値観が重要であった。仕事を天職と捉えて、その成功に邁進し、結果としての富の蓄積を神の恩寵と捉える精神が涵養されたことがプロテスタンティズム国家によって資本主義が発展したことと相関性が認められるという主張だ。ベーシックインカムのように社会的価値を生産性や労働価値といった既存の価値観から大きく変化させるような社会学的かつ人類学的な思考の押し寄せる大きな変化が必要ではないかと思う。それはもちろん宗教であるとはいかないだろうが、これまでの資本主義的価値観が大きく変わるような社会的変化が求められるだろう。それは、もちろん起きえないことではなく、常識や倫理観などは思うよりもたやすく変わる。最近でも、レイシズムやセクシズムの世界で起きた。課題はこの問題において、特に労働と社会的価値観において、そういった倫理観のシフトが社会全体で起きうるのかということだろう。
【まとめ】
著者は、ブルシット・ジョブという多くの人の眼からは見えていなかった事象を見えるようにして取り出して、その分析を行った。その上で、著者は普遍的ベーシックインカムの導入について論じて、導入を視野に入れた議論が行われることを望んだ。それは高齢化社会における社会保障の問題と大きく絡んでくるだろう。
グレーバーは、ブルシット・ジョブの問題は三つの次元において問われるべき問題だと言った。「ブルシット・ジョブ」はベストセラーにもなり、ワードとしてはそれなりに世間には広まった。しかし、ともすれば個人的次元の問題のように捉えられがちであったブルシット・ジョブの問題を、本来問われるべき文化的・政策的次元から問うべき問題だと理解するためにも、「ブルシット・ジョブ」というワードと紹介記事だけを読んでわかったような気にならないように、ちょっと長いけれどやはり読まれるべき本だというのがひとまずのまとめになる。決して、シンプルな問題ではないのだから。
とはいうもののやはり長いし高い、という人には、新書で『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』という本が出ていて、かなり忠実なまとめになっているので、いったんはこちらで読むのもお薦め。
Posted by ブクログ
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