中村高康『暴走する能力主義:教育と現代社会の病理』(筑摩書房、2018)。
・近代社会以降の「能力」:目に見えず測定不能だが個人に内在すると考えられ、ほとんど唯一の地位配分原理として採用されてきた何物か。48頁。
・「能力の社会的構成」:能力が社会的に判断される余地が生まれる理由は、能力を正確に測ることができずどこかで妥協する〔=社会が納得する〕しかないためだ。84頁。
・メリトクラシー進展論とメリトクラシー幻想論が闘ったところでリアリティのある議論にはならない。107頁。
・ローゼンバウムによる「能力の社会的構成」:企業内昇進構造のトーナメントモデルにおいて、事後的に能力の定義が作り出される現象のこと。トーナメント構造にある昇進競争では、ある人物の「敗退」が能力不足の裏打ちとして援用される。能力不足は敗退という事実を説明するために事後に付与される。108-109頁。
・「コミュニケーション能力」の社会的構成:本来はどのような関係のなかで発揮されるコミュニケーションが必要なのかといった定義が必要であるが、そのような手続きを経ずに漠然とした能力として社会が重要性を位置付けている。114-115頁。
・能力主義批判の陥穽:より優れた能力主義があるものとして議論しがちであるが、「抽象的能力測定の不可能性と構成性を前提とすれば」、より素晴らしい能力主義は批判に晒されることが避けられない。能力主義とは元来そのような性質のものなのだ。127頁。
・アンソニー・ギデンスの後期近代論。『近代とはいかなる時代か』(1990=1993)『モダニティと自己アイデンティティ』(1991=2005)。
・ギデンスの「存在論的不安」:近代社会においては自己の行為の意味の問い直しを引き受けざるを得ず常に不安に曝されている。「自ら行為の意味を付与すべく再帰的モニタリングがこれまでとは比較にならないほど強力に作動する」。146頁。
・脱埋め込みのメカニズムとしての学歴:学歴は貨幣と似て、個別具体的な場での職務遂行能力とは切り離され、抽象的な能力を示すインデックスとして参照・利用される。場所の特性に縛られない形で流通し、交換可能なことから学歴は「文化貨幣」とも呼ばれる。153頁。
・制度的再規制と自己アイデンティティ:専門家による知識を次々に適用していくような近代社会における生き方は常に修正を受け続け、それは自己アイデンティティも例外ではない。155頁。
・能力アイデンティティと〈能力不安〉:「ギデンズは近代社会以降、再帰性は自己の核心部にまで及ぶようになり、自己は再帰的プロジェクトとなる、と指摘する。すなわち、「変容する自己は個人的変化と社会的変化とを結び付ける再帰的な過程の一部分として模索され構築される」(ギデンズ 1991=2005、三六頁)。」〔……〕「人々は、仕事や勉強に限らず、さまざまな場面で思い通りに事が運ばない場面に遭遇すると、しばしば「自分には能力がないんじゃないか」という問いを発するようになる。これは人により、状況によって程度や質の差はあるが、おしなべて近代社会に生きる人々に共通する不安である。このような不安を〈能力不安〉と呼ぶことができる。」166-167頁。
・「新しい能力」論現象の本質:陳腐な能力論があたかも立派な代案でもあるかのように振り回さざるを得ない現代人の苦悩≒メリトクラシーの再帰性の高まり。217頁。
・筆者が求める「冷静な雰囲気」:予測不能な変化を劇的に続ける社会で将来必要とされる能力を見通すことなど不可能。〈能力不安〉から生じる強迫観念から一定の距離を保つことで「新しい能力」に右往左往する必要がなくなる。233頁。