教育の目的は感じよく従順に振る舞えるようにすることではない。しかし、親は子どもの行動がどれだけ自分を困らせ、多くの時間と注意を必要とするかに基づいて、重症度を評価する。ASD者は、医療や支援を与えられずに、わがままだとか自分勝手と言われると、仮面をつけざるを得ない。
仮面ASD者は脅迫的に人の機嫌を取りがちだ。行きすぎなほど感じがよく、素直で、受け身になる。私もみんなに変な人だと思われたくなくて、優しく穏やかで自立した素敵な女性を演出しようとしていた。自分の行動や言葉が他人にどう受け取られるかという計算を常に頭の片隅でしている。そのため人と深くつながれず、孤独な状態となり、消耗も激しい。どんなコミュニティでもくつろげることはほとんどない。マスキングをしていると、人間関係に満足できなかったり、本当の自分に忠実ではないと感じたりする。なぜならそのつながりは、私たちが反射的に相手のニーズに応え、常に相手が聞きたいと思うことを話さなければ成り立たないものだからだ。なので相手の愛が条件付きの愛だと思ってしまう。
中高生の時、学校を休みがちだった。学校は刺激が多すぎて、状況の変化についていけなかった。先生の話を聞き、周りの人たちの様子を伺い、一瞬一瞬どう振る舞うのが正解か、どんな表情でどんなことを言うか、誰となら話せそうか、どんなことをすればいいのか考えることが多すぎて辛かった。浮いていると思われていないか、気持ち悪いと思われていないかが常に不安だった。周りから浮かないように仮面を被るのに必死だった。仮病を使うことで、刺激が多すぎる教室から抜け出し、必要な休息を取ることができた。しかし、自分は怠け者でダメな人間だと自己嫌悪に陥っていた。学校を休んだことも周囲にどう思われているかも不安でしょうがなかった。周りに天然で純粋だと言われて、そのように振る舞うことを押し付けられていると感じていた。中学生の時、仲良しの子たちが私には聞かせられないと私を仲間外れにして下ネタをヒソヒソ話しているのが悲しかった。私は気にしていないふりをして、困った笑顔を作っていた。そんな表情に見えていたかは分からないが。
ASD者は過剰に自分を修正してしまう。私は母に仏頂面で可愛げがないと繰り返し言われて笑顔を貼り付けるようになった。母にいつも「あんたは空気が読めない」と言われて、必死にその場の会話の流れを考えるようになった。傲慢だと思われないように、謙虚さを装った。後輩に指導する時、威圧的な人だと思われるのが怖くて、遠回しに言いすぎて何にも伝わらなかった。意地悪だと言われて、温かく、親切な人だと思われるように、一生懸命に人の話を聞き、自分のことは話さなくなっていった。人とうまく会話をすることができず、ぎこちなくなってしまうため、脳内で会話の予行練習をしておき、苦もなく他人と話せる人間だと思わせた。みんなについていけないと思われたくなくて、何が起こっているかわからないときでも、うなずいたり笑ったりする。自立しているように見せかけるため、自分の健康や幸福を犠牲にしてでも、自分の人生が表面上ではしっかりしているようにつくろった。浪人や留年・休学をせずストレートで進学・就職することにすごくこだわった。幼稚園児の頃、母に「好きな人いるの?」と聞かれて「今恋はお休み中です」とCMの台詞を使って答えたら死ぬほど揶揄われた。泣き虫でうんざりすると言われてきたため、泣きたい、あるいは怒りを表明したいとき、そんな自分が恥ずかしいと感じる。自分語りや自分の好きなことなど他人を退屈させる話題は避け、「正しい」話題や質問を一生懸命に考えた。ネガティブな話題ばかり話したり日記に書いたりしたことを怒られて、人に愚痴を話さなくなった。社交性に欠け、人の気持ちを読み取るのが苦手なので、人を遠ざけ興味のないフリをした。感覚過敏で要求が多い自分は不平不満だらけの赤ちゃんのようで、我慢して気にしていないフリをした。
ASD者はフルタイムの仕事で、1日に8時間も穏やかな仮面を維持することに力を注いでいる。私は、教員として活躍する裏で、家で自己破壊的な行動を繰り返していた。職場では笑顔でテキパキと仕事をこなしていた。愚痴や弱音を吐くことすらしなかった。家に帰ってから尋常じゃない量のお菓子を食べたり、夜通し泣いたり、家出をして自殺を考えたりしていた。男性に依存して、孤独をまぎらわし、ストレスを発散しようと癒しを求めていた。
社会生活やコミュニケーションがぎこちない人に寛容になれないのは、自分自身が頑張ってできるフリをしているからなのだと思った。空気が読めない人や余計なひと言を言う人に対して過剰に反応して裁いてしまう。私は、涙を流して同情を引く女性に嫌悪感をもつことがある。天然だねと言われている子がいると居心地の悪さを感じる。どちらも自分が人から注意を受けたことがあることだ。
マスキングは、自分の感情をかえりみず、他人の機嫌をとって社会規範に合わせることに集中する行為にすぎない。私たちは溶け込みたい一心で、アルコール、過度の運動、働きすぎ、孤立、共依存といった自己破壊的な手段を使う。しかし、自分が欲しているものより、社会的承認や定型発達として合格をもらうことを優先させていれば、害が大きいのは明らかだ。
私は脅迫的に人の機嫌をとり、人との会話で何を言うかを相手が何を望んでいるかを基準に考えていることに気付いた。マスキングをするのをやめていいのだと言われても、元々の私は思ったことを衝動的にベラベラ喋る人間だった。面と向かって人を傷つけることを言い、相手の話に割って入って自分の言いたいことを一方的に話していた。だから、自分勝手で空気が読めないと非難され、私は「正しいこと」を言わないといけないと考えるようになり、会話が円滑に盛り上がるように計算するようになった。それが当たり前だと思っていた。年々先の展開を計算して会話をコントロールしたり、ほとんど反射的にうまく切り抜けたりすることがうまくなっている。今更、自分の特性を隠す必要はないと言われても、相手も自分も傷付ける言動をあえてするのか?と腑に落ちなかった。しかし、そんな中で月に1回のデイリーインベントリーで仲間から、相手に共感を求められても、必ずしも共感する必要はなく、自分の言いたいことを言って良いということを聞けたことで大きな気づきを得た。私はASDの特性によって失敗した経験から、脅迫的に人の機嫌を取るようになっていたが、相手の期待に応え、相手に共感して相手を賞賛し会話を盛り上げることは私の義務でも責任でもない。私はお笑い芸人でもカウンセラーでも風俗嬢でもない。つまんない人間でいいのだ。本当に共感した時には共感するし、相手の良いところは積極的に言葉にしたい。私が楽しく会話をしたい時は会話を楽しむ。まずは、そこから仮面なしの生活を始めてみようと思う。