中学生の頃にアニメを密かに観てハマり、大人になってから漫画版を読んだ。
僕が最も好きな漫画であり、表現にはまる原体験のひとつだ。
漫画とアニメにズレはなかった。世界の外側にいる子供達が社会に埋め込まれている人間
とどう関わり、どう生き、どこへ行くのか。特に漫画版についてここに記す。
主人公の鳴海歩は漫画版の前半、人間であり、ブレードチルドレンと行動を共にする境界人だ。社会/世界の真ん中に立つ存在として、読者と同じ視点に立つ自意識の人間として描かれる。
しかし後編は全く感情移入できない人間ならざる存在、ブレードチルドレンよりも世界の外側にいることが明かされる。
主人公の翻身からの、神と悪...続きを読む 魔の構図やら、推理小説さながらのどんでん返しやらで漫画として破綻しているとの評を聞くが、それらは全て本作の寓意(アレゴリー)がもたらす痛みを隠す為の試行錯誤の結果に過ぎない。本作の寓意とは何か?
希望とは、絶望を知る者が、その暗闇の中で絶望を受け入れつつ光を信じること。そしてそのことが、同じ絶望を知る者にとって灯火となり、救いとなること。
後半、最後の最後に読者が同じ視点に立てる人間となるのは結崎ひよのだ。
ひよのの言葉「愛は見返りを求めないものですよ」がラストの伏線になっている。
そう言えるひよのだからこそ、ラスト、歩の思いに気付く。社会に埋め込まれた「結崎ひよの」という記号としての人間に歩は最初から自覚的だった。歩が心を通わせていたのは、ひよのを演じていた人間である彼女だ。そして見返りは求めず、ただ思いを預かってほしいと言う(イヤリング)。ひよのの、歩に対する「愛」は演技なのか、否か。ひよのは気付いていなかった自らの思いに気付いて涙したとも言えるのではないか?そして、気付いても歩の死は免れない。
ひよのの涙こそ、まさに絶望そのものであり、それによって読者が救われるのだ。
これはまさに、「マグノリア」や「恋人たち」同様、ギリシャ悲劇の継承である。
トランス、トリップ、眩暈を表現した漫画は数多くあるが、女性的眩暈というか、かなり狭い意味合いでのトランスに惹かれる。「バガボンド」や「ブルーピリオド」、「ブルージャイアント」を仮に男性的眩暈の表現とするならば、緩急や画面の速度、外的要因による表現ではなく、静かで一見淡々と描かれているが、読者にとって、読んだ後に、もう圧倒的に元に戻れない深い傷をつけられ、またその傷を修復不可能なまでに広げられる表現のことだ。浦沢直樹の「モンスター」のラストであったり、もしくは「綿の国星」だったりする。詩としての言葉も、同様に女性的眩暈を喚起させる。
社会をなりすまして生きる、人間ならざる子供達が社会の中で追い詰められ、絶望を受け入れることによって読者が救われる「スパイラル 推理の絆」は、まさに女性的な眩暈を体現するミステリー漫画だ。
もちろん絵も、肝心の推理の旨味も、いいところはいいし、下手くそすぎるところは沢山ある。なにより表面的な言葉を使いすぎたり、そもそも漫画としては説明セリフが多すぎる。というエンタメとしては凡作であることは否定できない。
補足:「スパイラル 推理の絆」は、クリストファーノーランの「テネット」に似ている。
組み込まれた記憶(記録)をなぞり、自らの死が規定されていても尚、使命を全うする者たちの物語。これは舞城王太郎の「龍の歯医者」も同じ。
その中でも「スパイラル」のラストのドラマは、最も胸をえぐられる。
名前も経歴も不明のヒロイン、ひよの(テネットの主人公に似ている)が自分と同様に記録を埋め込まれた存在である鳴海歩を最後の最後に(定められた)裏切りを行う。
それでも歩はひよのを受け入れる。歩は死まで定められた存在。
ラストのひよのの涙はなぜこんなにも心を打つのか?
それは愛ゆえではない。エートスを受け継ぐ者同士が、エートスの指令ゆえに一緒にはいられない。世界は確かにそうなっている。
郡司ペギオ幸夫の「天然知能」的とも言える。
歩やひよのは、クイーンのフレディマーキュリーのようでもあり、「腐女子のつづ井さん」のようでもある。
「徹底して受動的に、世界から引いて、しかし世界を愛出ている」からこそ、歩は自らの死をも受け入れ、ひよのは再び違う誰かを演じ続ける。