この本を読んで意外だったのは、文部科学省にも真剣に教育のことを考えている人がいたという事実だ。学校に勤める職員のほとんどは、文部科学省をこころよく思っていない、というよりむしろ、教育の敵くらいに考えている。文部科学省とは、権力者や経済なんとかという金の亡者が、生徒のためでも教員のためでもなく、単に
...続きを読む己の利益のために思いついた作戦を、適当な美辞麗句で包んで一方的に現場に強制し、当然のごとく失敗しても、責任はすべて現場に押し付ける組織だと思っている。実際その通りであることは、英語の授業におけるオーラルコミュニケーションとやらの失敗や、最近では加計学園事件で証明されているが、この本を読んで、文部科学省にも誠実に教育のことを考えている人がいた、或いはいることがわかり、少しだけこの組織を見直した。
八重山地区の教科書問題に一定の解決をもたらすため、また、義務教育国庫負担を守るための前川氏の苦悩、手腕、尽力には頭が下がる思いだった。長いものに易々と巻かれていくのでなく、正論を通すための工夫、努力。頭脳とはこのように使われるための器官であると、あらためて思った。
また、寺脇氏はゆとり教育の「元凶」などと呼ばれているが、醜い損得勘定とは最も遠いところで、真剣に誠実に教育を考えている人であることがよくわかった。そもそも、俗に言う「ゆとり教育」は、児童・生徒の学力を特に低下させたわけではないことは、「「ゆとり批判」はどうつくられたのか」(佐藤博志・岡本智周)で、落ち着いて、詳細に語られている。
その他、詳しくは本書を読んでほしいが、この二人の著者のように、教育に対する自分の責任を誠実に全うしようとする人は結局外されていく実状に絶望する一方で、文部科学省にも、教育とは無縁の輩の手先では必ずしもない人間がいることに一筋の希望が見出だせる、そんな本だった。教育とは学ぶ者のために行われるはずのものである、そんな当たり前のことを再認識させてくれる。教育関係者はもちろん、教育に関心がある人には一読を勧める。