堀田善衞の作品一覧
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小説・文芸
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Posted by ブクログ
『――なんという天気だろう。 と、思わず私が声に出して言っていた。』-『アンドリン村にて』
「ABC殺人事件」を読んでいたら思いがけず堀田善衛に出会ってしまったので、積んであった一冊を手に取る。一九九四年出版の文庫本。すっと、まさにそんな表現が適切な印象で、堀田の文章がこちらの懐に入って来る。当然の事ながら推理小説の翻訳文とは全く異なる類の、心象風景を立ち上げる力のある文章。スペインに老後の人生を置きに来た著者の心情がしみじみと伝わってくる文章、と言い換えても良い。
何気ない日常に静かに佇む奇跡のような事象を書き記すことのできる作家というのが確かにいる。堀田善衛はそんな作家の一人だろう。だが、この作家の凄みはそんな視力の良さだけにある訳ではない。むしろ小さな気付きを接ぎ穂として広がる西欧文明の基礎を形造る歴史への思い、そして歴史上の出来事の分析、思考への彷徨こそがこの作家の真髄と言えるであろう。そしてその真骨頂とも言えるのが「グラナダにて」と題された一章である。
『あるときの祭りの夜に、突然大停電が襲って来て、私が暗い坂道を上っていると、暗闇のなかで、一人の女が、手にした蠟燭の光りで、自分の顔を茫と照らし出していた。闇にほとんど顔だけの女が立っていた。娼婦であった。私は何がなしフアナ・ラ・ロカ、狂女王フアナのことを思い浮べた。それがこの作を書くきっかけとなった。アルハンブラ宮殿の右に落ちて行く、大きな火の玉のような夕陽を眺めながら、夫フィリップの霊柩と肩を並べながら、ソッポの方角を見ているフアナの彫像のととを考えていた』―『グラナダにて』
アルハンブラ宮殿を間近に見ることの出来る一軒家に暮らしている作家が、村の祭りで見掛けた女性の顔から初代スペイン国王カルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)の実母への思いを巡らし、その人生を振り返る。しかしその淡々とも言える文章から伝わってくるのは、五百年や千年くらい時間が隔たっていたとしても人間なんて所詮こんなものである、という冷静な(諦観とは敢えて言いたくはない)視線だ。それは自身の戦争体験と大いに関係のある人生観、人間観とも思われるけれど、それを他人の人生に託して語る作家の文章に、どこまでも、熱のようなものはない。だがしかし、熱はないがそれを読むものは不思議な圧を感じてしまうような筆致。例えて言うなら、銃弾が貫通した時に直ぐには痛みを感じないような感覚、あるいは、鋭利な刃物でさっと切られた直後の視覚と痛覚の乖離。一瞬にして身体は防衛本能に基づいてアドレナリンを巡らせているので、直ぐに痛みには襲われないが、時間の経過と共にそれが収まると如何に大きな衝撃を自身が受けていたのかを痛みをもって思い知らされる。堀田善衛を読むこととはそんな感覚の読書だ。
『それがスペインなのであり、それこそが世界なのだろう……。そうではないかね? 何故お互いに殺し合う必要があるか。いったいイデオロギーとかというものは、そんなにも御大層なものなのかね? おれは言うまでもなく、大して教育のある人間ではなかった。しかしスペインの戦場と、特にサラゴーサで、おれはすべてを見てしまった、と思った。共和主義者が飛行機から撒いたビラの一枚に、「今日スペインで起っていることは、明日は世界で起るだろう」と書いてあって、これにアドルフ・ヒトラーとサインがしてあった。ヒトラーの言ったことのなかで、おそらくこれだけは正しかっただろうよ』―『バルセローナにて』
最初の章(アンドリン村にて)は、ヨーロッパ大陸に残るケルト民族の残した古代の痕跡を滞在する村の風習に見て取りつつ、重層的に近代のスペイン内戦の残した爪痕を人々の人生の上に見出していく一節である。続く章(グラナダにて)では十五世紀末にイスラム教徒から領土を取り戻しアルハンブラ宮殿に眠るカスティーリア女王イザベルとアラゴン王フェルナンド夫婦の中世の治世を端緒に、追放されたイスラム教徒とユダヤ教徒の受けた境遇の違いなどに極めて現代的な視点からの感想などを吐露しながら、徐々に本題であるイザベルの子であるフアナ女王の人生を辿る旅へと読者を導いてゆく。その中で、一人の人間の抱える多面的な人格や、物事を単純に見極めることが如何に難しいかを説きながら、権力に阿[おもね]る人々の普遍性にちくりと釘を差してもみせる。そして最後の章(バルセローナにて)では、街角で出会った二人の老人の対比に、スペイン内戦の彼我を重ねながら、歴史が如何に個人の記憶や選択を有無を言わせず絡め取ってしまうかを、何でもないない出来事を綴っているかのような筆致で記している。察するに、世界を、日本を、そして作家自身を巻き込んだ大戦への感慨がそこには滲んでいるのだろうけれど、作家の視点はどちらか一方に加担するものでは、当然のことながら、ない。そして、その巻き込まれてしまった出来事というのが、何々が起きたからこうなった式の単純な因果関係に矮小化して記載する歴史の教科書のような考え方で整理され得るものではなく、遡れば遡っただけ様々な過去の出来事が輻輳し絡み合っているのだということを作家は静かに、市井に人々の生活の中に見て取るのだ。
『一見無造作な語り口にだまされてはいけない。身辺雑記風、紀行文風、「私」という人物の行動と感慨、そしていろいろなスペイン人のスケッチと彼らの語り、それらが自在に切り替わり、入り交じる。この本の三篇は、かつて書きとめておいた素材にもとづき、「スペイン、あるいは暗い沈黙」「スペイン、あるいは光と影」という大まかな主題を共有させながら、それぞれの狙うところをはっきりと違えていった連作短篇小説なのである』―『解説/清水徹』
清水徹による解説を読んで、背筋に寒いものが走ったような感覚を覚えなかったと言えば、嘘になる。まさに、清水が警告しているような読みを自分はしていなかったか。堀田が描くスペインの風景、そして其処に棲まう人々の語る話を、そのままの出来事として受け止めていなかったか。清水が指摘するようにこれが「連作短篇小説」と言うなら、登場人物たちでさえ、堀田が創作した人々であっても可笑しくはない。いや、むしろそう考えないでいることが不自然なほどに都合よく堀田の語りたいことを託せる人物が多く登場しているではないか。ふむ、身体に受けた太刀筋は思ったよりも深く、そして随分と出血してしまっているようである。
Posted by ブクログ
1936年2月26日、二・二六事件当日の上京から、1943年秋の学徒出陣壮行会後までの時間を切り出した作者の自伝小説。日中戦争・アジア太平洋戦争と続いた「暗い時代」に共に青春を送った、白井浩司、加藤道夫、芥川比呂志、鮎川信夫、田村隆一、中桐雅夫、中村真一郎、加藤周一らとの交流・交友が(仮名ではあるが)分析的な筆致で、しかし濃密に綴られている。先輩作家として井伏鱒二や堀辰雄、芳賀檀も登場する。
確か学生時代に一度読み始めて挫折した(当時は何が面白いのか理解出来なかった。。。)が、いま改めて読んでみると、何をするにも国家の眼が光り、自分の身体が自分だけでは始末がつけられないことをつねに意識させられ続けた時代の若い知識人たちの鬱屈が、ひしひしと伝わってくる。桶谷秀昭の著書ではないが、まぎれもなく『昭和精神史』というべき内容。
Posted by ブクログ
上海の魔力に引き寄せられ終戦前後の2年弱を現地で過ごした27歳堀田青年の強烈な体験と、その10年後文学者代表団のメンバーとして上海に訪問した際の去来する思い。日中国交正常化前、文革前の1959年の著。
国民党共産党列強各国が入り乱れる混乱とカオスの中、著者は加害者日本と被害者中国の間の矛盾や理不尽に義憤し奔走し踏み込み歴史に立ち会っていく。
中国と対比することで日本の姿在り方も鮮明になってくる。中国人は戦争終結を「惨勝」と表現して現実に対峙し、日本人は惨敗を「終戦」と表現して現実から目をそらそうとした。中国は独立してその後アメリカの対抗勢力となり日本はアメリカに従属した。
近代以降の中国の混乱と様々な悲劇はあらためて読むと目を覆いたくなるばかりだが、あの広大な国土と多民族、独自の民族性と歴史、そして極度の不平等社会であった状況を考えると終戦前後のタイミングで共産主義国家が誕生したのは必然であったのかなとも思う。また、列強各国(日本も含む)に何もかも蹂躙されつくした中国が西欧主導の民主主義を受け入れることはあり得なかったことはこの本を読むとよく分かる。ただこの後、経済の大失敗そして文化大革命へと大混乱と悲劇は当分の間続くのではあるが。最後の下りでも著者は毛沢東と共産党中国をかなり好意的に評しているが、文革、天安門事件等々を経た中共をどう見るだろうか?
とは言え、巨大な化け物と化した現代中国とこの本に書かれている誕生間もない中華人民共和国との隔世感が大きすぎて、あまり繋がりがなく感じてしまうのも事実。しかしこういう時代と歴史があったことも事実で、今後の日中関係を模索するについても必要な知識ではあると思う。
あらためて中国と共産党の近代史に大いに興味を持った。
ノーベル賞作家大江健三郎による解説も秀逸。
しかしながら、我々にとって中国という国は感情的に遥か遠いものになってしまっている。日中の血の通った交流などというものはいつになったら実現できるだろうか。