堀田善衞のレビュー一覧
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『――なんという天気だろう。 と、思わず私が声に出して言っていた。』-『アンドリン村にて』
「ABC殺人事件」を読んでいたら思いがけず堀田善衛に出会ってしまったので、積んであった一冊を手に取る。一九九四年出版の文庫本。すっと、まさにそんな表現が適切な印象で、堀田の文章がこちらの懐に入って来る。当然の事ながら推理小説の翻訳文とは全く異なる類の、心象風景を立ち上げる力のある文章。スペインに老後の人生を置きに来た著者の心情がしみじみと伝わってくる文章、と言い換えても良い。
何気ない日常に静かに佇む奇跡のような事象を書き記すことのできる作家というのが確かにいる。堀田善衛はそんな作家の一人だろう。だ -
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1936年2月26日、二・二六事件当日の上京から、1943年秋の学徒出陣壮行会後までの時間を切り出した作者の自伝小説。日中戦争・アジア太平洋戦争と続いた「暗い時代」に共に青春を送った、白井浩司、加藤道夫、芥川比呂志、鮎川信夫、田村隆一、中桐雅夫、中村真一郎、加藤周一らとの交流・交友が(仮名ではあるが)分析的な筆致で、しかし濃密に綴られている。先輩作家として井伏鱒二や堀辰雄、芳賀檀も登場する。
確か学生時代に一度読み始めて挫折した(当時は何が面白いのか理解出来なかった。。。)が、いま改めて読んでみると、何をするにも国家の眼が光り、自分の身体が自分だけでは始末がつけられないことをつねに意識させ -
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上海の魔力に引き寄せられ終戦前後の2年弱を現地で過ごした27歳堀田青年の強烈な体験と、その10年後文学者代表団のメンバーとして上海に訪問した際の去来する思い。日中国交正常化前、文革前の1959年の著。
国民党共産党列強各国が入り乱れる混乱とカオスの中、著者は加害者日本と被害者中国の間の矛盾や理不尽に義憤し奔走し踏み込み歴史に立ち会っていく。
中国と対比することで日本の姿在り方も鮮明になってくる。中国人は戦争終結を「惨勝」と表現して現実に対峙し、日本人は惨敗を「終戦」と表現して現実から目をそらそうとした。中国は独立してその後アメリカの対抗勢力となり日本はアメリカに従属した。
近代以降の中国の混乱 -
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たまたまこの夏、NHKの「あの人に会いたい」という短い番組で、堀田善衛の肉声を聞く機会があったのですが、1998年に80歳で亡くなったはずですから、本来は高校生のころにあんなにいろんな講演会や座談会や討論会を聞きに回った私が、彼の声を知らないはずがないのですが、まったく記憶にありません。
気になるいま現在生きて活動する作家や思想家には、なるべく会って話を聞いておくこと。遠く離れたところからでもいいけれど、出来れば面と向かって質問なり質疑応答をして、彼や彼女の肉声から発せられた言葉をその内実に取り込んでより鮮明なものにすること。そうすれば、自分の頓珍漢な頭にも、少しは偉大な思慮の万分の一でも沁 -
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堀田善衛の独特の心地よい語り口に導かれて、ミシェル・モンテーニュの生涯をゆっくりと辿ってきたこの長編も、ついに最終巻。
ラテン語を母語として育ったミシェルにとって、ローマへの17か月にわたる旅は、コスモポリタン的自己を再確認するものでもあったが、フランスに帰国した彼を待ち受けていたのは、ボルドー市長就任の辞令であった。政治的状況に背を向けるのではなく、関わることを否定はしない。しかし絶対的な基準で自己と他者を縛ることを避けようとする中庸の姿勢は、ここでも変わらない。いったん職を引き受けたからには必要な労苦は惜しまないが、それは「臨時の貸付」なのだという。宗教戦争やペストの流行のためにボルドー市 -
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フランス王室と宗教戦争の行方がますます混迷をきわめるなか、ミシェルはボルドー高等法務院裁判官の職を辞してモンテーニュの塔の一室をわが城とし、いよいよ『エセ―』の執筆を始める。
エセ―とは、随想であり試みの意であるという。ここでミシェルがおそらくヨーロッパ世界で初めて試みたこととは、自らを研究対象とすることであった。「ク・セ・ジュ(われ何をか知る)」というモンテーニュの言葉は「懐疑主義」と一般に言われているが、それは、わたしが本書を読むまで想像していたような、すべてを疑い自らが恃みとする理性の力で「真理」を明らかにしていこうとするような重く暗く硬い思想のことではなかった。それはむしろ、どこまでも