【感想・ネタバレ】ホッブズ リヴァイアサン シリーズ世界の思想のレビュー

あらすじ

国家の役割や主権が議論されるとき、必ずといっていいほど取り上げられる政治学の名著『リヴァイアサン』。しかし、日本では「万人の万人に対する闘争」の部分のみが広く有名になり、ステレオタイプ化されている。専門家によって近年飛躍的に解明されてきた作品後半の宗教論・教会論と政治哲学の関係をふまえて全体の要点を読み直し、従来の作品像を刷新。近代政治を学び平和と秩序を捉え直す、解説書の決定版!

「人間の欲望やその他の情念は、それ自体としては罪ではない」

――近代政治哲学の創始『リヴァイアサン』――
一五八八年、イングランド南西部に生まれたホッブズ。彼は政治権力と教会権力の争いによって内乱が起きるなかで、この問題の処方箋は他国にも通用する普遍的なものと考え『市民論』を執筆。さらに教会権力批判を強めて著したのが『リヴァイアサン』である。

【目次】
序論
第一部 人間について
第二部 国家について
第三部 キリスト教の国家について
第四部 闇の王国について
総括と結論
年譜・文献案内・索引

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Posted by ブクログ

ホッブズについては「万人の万人による闘争」という言葉が一人歩きしているが、その真意が分かる本。このホッブズの思想に対して、人間は国家がなくとも道徳感情による秩序を保ち得るという反論がある。しかしホッブズは単純な図式で国家や法が無ければ、暴力に支配される世界が誕生するという事は言っていない。

私はよく一人の人間に「支配者と奴隷」が同居するという喩えを用いるが、ここでの奴隷は、従属する気質の事を言っており、我々は自身のこの従属的気質を集団における共同幻想に捧げる事で、その集団に帰属していくのだと考える。一方で個々に潜む支配者は身体を規律的に制御させるだけではなく、自他の帰属する共同幻想を作る役割を担う。共同幻想は物語だが、その物語の設定こそが戒律であり、法秩序だ。

ホッブズは自然権と自然法を区別する。権利は自由であり、支配者が自他に許し合う範囲の事。法律は義務であり、自他の従属者の部分が遵守すべきもの。個人に同居する支配者と従属者の人格は、およそ半々の比率で出現するのが理想だが、時に従属的気質が弱く、規律を守れない個体が存在する。それを裁くのは、法だ。

また、これらは同じ共同幻想下の秩序の話であり、異なる共同幻想下の人々には通じない。地球規模では、この集団対集団においてはリヴァイアサンの譬喩がピタリとハマるのである。

ー ある人の欲求あるいは欲望の対象はどんなものであろうと、それが当人自身にとっては善と呼ぶものである。また、当人の憎悪と嫌悪の対象は、悪である。当人の軽視の対象は、つまらないもの、取るに足らないものである。すなわち、これらの善、悪、軽視すべきという語は、常に、それらを使用する人格との関係において使用されるのであり、単純かつ絶対的にそうであるというものではない。また、対象自体の本性から引き出される善悪についての共通の規則もない。そうではなく、(国家がない場合は)その人の人格から、(国家においては)国家を代表する人格から、つまり意見の合わない人々が同意によって設立しその判決を国家の規則とすることとした、仲裁者ないし裁判官から引き出される共通の規則があるのである。(中略)獲得できるという意見をともなった欲求は、希望と呼ばれる。そのような意見をともなわない同じ欲求は、絶望と呼ばれる。対象から傷つけられるという意見をともなった嫌悪は、恐怖と呼ばれる。(中略)心のなかで思い描かれた、あるいは公的に認められている物語から想像された、目に見えない力に対する恐怖は、宗教と呼ばれる。公的に認められていない物語から想像されたその恐怖は、迷信と呼ばれる。そして、想像された力が私たちの想像したとおりのものである場合、それは真の宗教と呼ばれる。(中略)人間の心のなかに、同一のものごとに関する欲求と嫌悪、希望と恐怖とが交互に生じ、示されたものごとを行うか行わないかの結果として出てくる様々な善悪が、連続的に私たちの思考のなかをめぐる。それゆえ、そのものごとに対し、ときには欲求をもち、ときには嫌悪し、ときにはなしうるという希望をもち、ときにはそれを企てることに絶望し、恐怖する。このようなときに、そのものごとがなされるか、あるいはできないと思われるかまで続いた欲望、嫌悪、希望、恐怖の総計が、熟慮と呼ぶものである。(中略)熟慮において、行うか行うのを控えるかに直接付随している最後の欲求あるいは嫌悪が、意志と呼ばれるものであり、意志するという(能力ではなく)行為である。(略)

ー 「正義とは、各人に各人のものを与えるという不断の意志である」と。したがって、自分のものがないところ、つまり所有権のないところでは、不正義はなく、強制的な権力が樹立されていないところ、つまり国家がないところでは、所有権はないのである。なぜなら、すべての人がすべてのものに対して権利を持っているからである。したがって、国家がないところでは、不正なことは何もない。それゆえ、正義の本性は、有効な信約を守ることにあるが、しかし、信約の有効性は、人々に信約を守るよう強制するのに十分な政治権力の設立がなければ始まらないのである。そして、そのときにまた、所有権も始まるのである。

そして正義とは、集団同士互いのリヴァイアサンを退治しようとする行為である。戦争こそ地球市民形成における合成の誤謬の発露。また、限界と可能性を考えさせられた。

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2025年04月27日

Posted by ブクログ

このシリーズ、古典の長めの本文抜粋と現代視点の解説を並べるっていうのはとてもよい形式だと思う。古典そのまま読むのは実際無理だし。

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2022年04月11日

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