あらすじ
「目的はただひとつ、読む側にとってわかりやすい文章をかくこと、これだけである」。修飾の順序、句読点のうちかた、助詞のつかい方など、ちゃんとした日本語を書くためには技術がいる。発売以来読み継がれてきた文章術のロングセラーを、文字を大きく読みやすくした新版。
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技術的内容以外のことを期待せずに読んだので、現在の日本語の背景になっている植民地主義への批判がしっかりされていることが意外だった。植民地主義的な考え方がどのように日本語に影響しているのか具体例も解説されている。
他、文の中の修飾語、読点の付け方、主語の有無、文末の繰り返しや文自体が笑っている表現になっていないか、文のリズムなど、スムーズに理解できる文章を書くために気をつけるべきポイントや改善方法がよく分かった。サボり敬語の「あぶないです」という言い方には確かに違和感を感じるのでできるだけ避けたい。
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いままでいかに句読点や段落に無神経だったかを思い知らされる。特に読点の扱い方を自分は全くわかっていなかった。いや、わかっていて奇跡的に合っていたかもしれないが、どういった理由で読点をつけたか説明できなかった。
上述した読点に関してはかなりのページを割いており、筆者の熱量を感じられる。読点以外の章も悪文や良文(本書ではこのような言い方はしてなかったと思うが)の事例と構造の図解があり、理解しやすい。熱量が高い故か分量が多いため読み切るには体力が必要かもしれない。全て読み切らなくても得られるものは必ずあるはずなので、うっ、と思わず手に取ってみて欲しい。
この本は物語を書く人向けではない。会社でメールを打つ、議事録を書く、プライベートでブログを書く、家族や友人にメッセージを送る、など文章を書く行為をするすべての人におすすめしたい。
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②長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。
もちろん、それぞれのケースによって他のさまざまな要因が絡んでくる。しかしこの原則は、物理的な単なる「長さ」だけの問題であるにもかかわらず、文のわかりやすさ・自然さを決めるための最も重要な基礎をなすものといえよう[注1]。新聞社に就職して最初校閲部にいたころ、記事をわかりやすくするためゲラ刷りで順序を入れ替えているうちにこのことに気付いたけれども、すでにこれは原則とされていることを私が最初に教えられたのは、やはり北海道でのかけだし記者のころ読んだ岩淵悦太郎氏編著による『悪文』という本だった。奥田靖雄著『正しい日本文の書き方』からの引用としてかんたんに紹介されているが、私には現場への応用実践としてたいへん有益だった。この第三章はこうした背景を発展させたものといってもよい。
そこで先の「ライトを消して……」の例をもう一度検討してみる。長い修飾語の順だと、
ライトを消して
止まらずに
速く (走る)
となって、これが最も自然で、誤解をうけることの少ない語順である。「止まらずに」を先にすると、原則にははずれるから変調子になる。
かくて、語順には第二の法則があることが理解できた。これらの原則は決して、よくある「主語と述語は近くあるべし」といった文章論と同じものではない。たとえば「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」という表現であれば、前章で明らかにされたように、正しい関係を論じたことになろう。問題の本質は、いわうる「主語・述語」かんけいではないのだ。たとえば、次のような例で考えてみる。
A 明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
B 私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。
右の二つでは、Aの方がイライラしなくて読める。なるほどこの場合は、いわゆる「主語・述語」がAの方が近いからわかりやすいともいえよう。では、次の例はどうか。
A 明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできたわたしは直感した。
B この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。
この二例では明らかにBの方がわかりやすい。しかしいわゆる主述関係からすれば、Aの方がわかりやすくなければならぬはずである。これは実は当然であって、「主述関係」などというものは、日本語の作文を考えるとき、百害あって一利もないのである。これらの実例を支配する原則は、さきの「長い修飾語を前に」に相当する。
明日はたぶん大雨になるのではないかと
私は (思った)
つまり、どちらも「思った」という述語にかかる二つの修飾語のうち、「私は」は物理的に短いから後にする方が良いに過ぎない。同様に、
この地方の自然に長くなじんできた私は
明日は雨だと (直感した)
の場合も、「……私は」が単に長いから前にする方がよいのである。
さて、「初夏の雨が……」の文例を検討中に保留しておいた件があった。それは次のような比較である。
A もえる若葉に歌!?潤いを初夏の雨が与えた。
B 豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。
a もえる若葉に豊かな潤いをを雨が与えた。
b 豊かな潤いをもえる若葉に雨が与えた。
さきにaとbとでは、aの方が優ることがわかったが、それはAとBとでも同様であった。この原因は何であろうか。別の例で考えてみよう。
太郎さんが
薬指に
ナイフで (けがをした)。
これは「けがをした」という述語に、たいして長短のない三つの修飾語がかかっている。明らかに自然な語順は
太郎さんがナイフで薬指にけがをした。
太郎さんが薬指にナイフでけがをした。
の二つであって、反対の悪い例は次の四つだろう。
ナイフで薬指に太郎さんがけがをした。
薬指にナイフで太郎さんがけがをした。
ナイフで太郎さんが薬指にけがをした。
薬指に太郎さんがナイフでけがをした。
こんな例はどうだろうか。
日本列島の上空に
花子の放った風船が
小さな点となって (消えていった)
明らかにまずい順序は、「小さな点となって」を先にする場合だ。
小さな点となって日本列島の上空に花子の放った風船が消えていった。
しかし、これとても「小さな点となって」を長くし、他を短くして「長い修飾語は前に」の原則に当てはめてみると、
上空に
花子の風船が
針の先のような小さな点となって (消えていった)。
となり、「針の先のような小さな点となって 」を冒頭においてもよくなる。したがってあくまで長短に大差ないもの同士としてこれまでの例から考えてみると、まず、
Aが
Bを
Cに (紹介した)
このABC三者は、重要性やら状況やらが平等であり、対等である。ところが、
初夏の雨が
もえる若葉に
豊かな潤いを (与えた)
となると、長短問題や格助詞の点からは三者平等だが、内容の意味するところが平等ではない。たとえば、「初夏の雨」が全体の中で占める意味は最も重く、大きな状況をとらえている。しかし。「豊かな潤い」は、「初夏の雨」という状況のなかでの小さな状況であり、「もえる若葉」のさまざまなありようの中の、ひとつのあらわれ方にすぎない。そこで――
③大状況から小状況へ、重大なものから重大でないものへ
という第三の原則があることに気付く。だからこの場合の最良の語順は、
初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。
であり、最悪の語順は、
豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。
となろう。もう一つの例でも、「けがをした」という大黒柱にかかる三つの言葉の中で、大状況あるいは重要なのは「太郎さん」であって、決してナイフではない。また「小さな点となって」も「日本列島の上空に」より小状況であり、重要ではないことはもちろんであろう。
たとえば翻訳の直訳調がわかりにくい理由を考えてみよう。「甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ」という文は、言語がイギリス語である場合、「甲ガ紹介シタ、乙ニ丙ヲ」という語順になっている。これだけが、イギリス語の唯一の語順だ。そこで未熟な翻訳者は、単に述語をあとに移すだけの操作をして「甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ」と訳す。もちろん文法的にこれが間違っているのではない。だが、第三章「修飾の順序」を思い出してみよう。
Aが
私の親友のCに
私が振るえるほど大嫌いなBを (紹介した)
これをイギリス語のシンタックスのとおりにならべてゆくと次のようになる。
Aが私の親友のCにふるえるほど嫌いなBを紹介した。
これがすなわち「翻訳調」なのだ。イギリス語のシンタックスを日本語にそっくり移している。いったいどうして、格の順序が別の原則からなっている日本語に、イギリス語の「主語」感覚の語順をそのまま移さねばならぬのか。翻訳とは、二つの言語の間の深層構造の相互関係でなければならない。第二章で「翻訳とは、シンタックスを変えることなのだ」と言ったのは、このような意味である。表層構造はそのまま日本語の表層構造に変えてみたところで、いわゆる文法的には(表層構造上は)正しくても、本当の日本語に訳してみたことにはならない。
「抜けるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……
雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。かっこいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。
こうしたヘドの出そうな言葉は、どうも新聞記者に多いようだ。文章にマヒした鈍感記者が安易に書きなぐるからであろう。一般の人の読むものといえば新聞が最も身近なので、一般の文章にもそれが影響してくる。入江徳郎氏の『マスコミ文章入門』は紋切型の例として「――とホクホク顔」「――とエビス顔」「複雑な表情」「ガックリと肩を落とした」等々を論じた後、次のように述べている。
紋切型とは、だれかが使いだし、それが広まった、公約数的な、便利な用語。ただし、表現が古くさく、手あかで汚れている言葉だ。これを要所要所で使用すれば、表現に悩むことも苦しむこともなく、思考と時間の節約が可能になる。それ故に、安易に使われやすい。
しかし、紋切型を使った文章は、マンネリズムの見本みたいになる。自分の実感に寄らず、あり合せの、レディーメイドの表現を借りるのだから、できた文章が新鮮な魅力をもつわけがなかろう。
紋切型を平気で使う神経になってしまうと、そのことによる事実の誤りにも気づかなくなる。たとえば「……とAさんは唇を嚙んだ」と書くとき、Aさんは本当にクチビルを「歯でギュッとやっていただろうか。私の取材経験では、真にくやしさをこらえ、あるいは怒りに燃えている人の表情は、決してそんなものではない。なるほど実際にクチビルを噛む人も稀にはあるだろう。しかしたいていは、黙って、しずかに、自分の感情をあらわしようもなく耐えている。耐え方の具体的あらわれは、それこそ千差万別だろう。となれば、Aさんの場合はどうなのかを、そのまま事実として描くほかはないのだ。「吐き出すように言った」とか「顔をそむけた」「ガックリ肩を落とした」なども、この意味で事実として怪しい決まり文句だろう。
<中略>
野間宏氏編による『小説の書き方』という本がある。野間氏を含めて小林勝・伊藤整・椎名麟三・瀬沼茂樹など一〇氏がそれぞれの考えを述べたものだ。もちろん小説の創作のために書かれたのだが、読んでみると文章一般に通ずるたいへん参考になることが多い。表題を「記事の書き方」とか「文章の書き方」としてもよいくらいである。この中で伊藤整氏は次のようなことを書いている。
菫の花を見ると「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちを抱くのである。しかし、その一瞬後には、常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。
右の中の「たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしま」うとあるのが特に重要な指摘だ。「負けてしま」う結果、その奥にひそむ本質的なことを見逃してしまう。だから紋切型にたよるということは、ことの本質を見逃す重大な弱点にもつながる。
中学生のころ私はラジオで落語ばかりをきいていて、よく「また落語!」と父にどなられていたけれど、いくら叱られてもあれは実に魅力的な世界だった。ずっとのちに都会に出て実演を見たとき驚いたのは、落語家たちの間の実力の差だ。ラジオでももちろんそれは感じたけれど、実演で何人もが次々と共演すると、もうそれはまさに月とスッポン、雲と泥にみえる。私の見た中では、やはり桂文楽がとびぬけてうまかった。全く同じ出し物を演じながら、何がこのように大きな差をつけるのだろうか。もちろん一言でいえば添それは演技力にちがいないが、具体的にはどういうことなのか。
落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では、落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。眼じりひとつ、口元ひとつの動きにも「笑い」に通じるものがあってはならない。逆に全表情をクソまじめに、それも「まじめ」を感じさせないほど自然なまじめさで、つまり「まじめにまじめを」演じなければならない。この一点を比較するだけでも、落語家の実力の差ははっきりわかる。名人は毛ほどの笑いも見せないのに反し、二流の落語家は表情のどこかに笑いが残っている。チャプリンはおかしな動作をクソまじめにやるからこそおかしい。落語家自身の演技に笑いがはいる度合いと反比例して観客は笑わなくなっていく。
全く同じことが文章にもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、描く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。野間宏氏は、このあたりのことを次のように説明している。
文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来あがったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければいけないのである。対象の特徴そのものが、その特徴のふくんでいる力によって人に迫ってくるようになれば、そのとき、その文章はすぐれた文章といえるのである。(『文章入門』)
東京・新宿の「朝日カルチャーセンター」という市民講座で、一種の文章講座を担当する機会がありました。一九七四年の秋、一周一回二時間ずつの二か月間。聴講生たちの職業は学校教師やジャーナリスト・商店主・主婦・学生など、また年齢的にも二〇歳前後から六〇歳くらいまで非常に広範囲のかたがたでした。全部で八回だけの講座だし、日本語を描く職業のいわば現場にいるものの一人として、文章には一応の関心も持っているのだからと、かんたんに考えて私は始めたものです。想えば、講義に類することは私にとってこれが生まれて初めてでした。
ところが第一回の講義が半分もすすまぬうちに、これは大変なことを始めてしまったと思いました。初めての講義ですから、不慣れで、不細工で、不手際なことは言うまでもありません。それは覚悟していたことです。大変だと思ったのは、第一に聴講生たちの熱心さに圧倒されたからであり、第二に、その熱意に応ずるだけの密度の高い講義を八回も続けることができるだろうかという不安を感じたからでした。講義の途中からほとんど冷や汗の出る思いでしたが、まさか投げ出すわけにもゆきません。耳の不自由な聴講生も一人いて、奉仕者がそばで手話の通訳をしている姿を見ると一層あせってしまいます。
こうして第一回の講義は、なんとかゴマ化すようにして終わりました。実は広義の準備など、前日に一時間くらいさいてメモをとっておけばいい、日ごろ文章について抱いている雑感を話せばいいくらいに考えていたのです。ところが実際にやってみたら、メモにしておいてことは予定より半分以下の短い時間で話してしまった。これではあと三回くらいでもう話すことがなくなってしまうではありませんか。
そこで第二回からはメモをやめて、二時間の内容をすべて完全なかたちで原稿に書くことにしました。実行してみると、私自身これはたいへんな勉強になります。たとえば作文上のある原則を講義するにしても、メモだけであればその原則を示すだけで終わるところですが、こうして原稿のかたちに完成しようとすると、その原則がなぜ有効かという背景の分析にまでたちいらざるをえないからです。だから「大変だ」とは思ったものの、べつに後悔はしませんでした。むしろ感謝した。そのかわり準備には「一時間くらい」どころか一回分に二日も三日もかかりました。新聞記者としての現場の仕事がその影響を受けて、いくらか手ぬき工事になったかもしれません。
Posted by ブクログ
特に「、」の使い方は本当に気をつけないとと思った。
ある程度今はAIが文章作成してくれるようになってはくれているが、それでも「?」と思う時はあったりするので、そういう時は自分が頭の中で朗読して相手にちゃんと伝わるかどうかを考え続けないといけない。
めちゃめちゃ参考になりました!
Posted by ブクログ
日頃から、日本語には読みやすい文と読みにくい文があるなと思ってはいたが、その違いについて詳しく考えたことはなかった。この本を読んでから、文の書き方(句読点や主語述語の位置関係)に気をつけるようになったし、読んだ時の感じ方も変わった。とにかく読んだ方がいい。
Posted by ブクログ
まさに神本。
読み通すのにやや骨が折れるがそれだけの価値は間違いなくあります。
特に3章(修飾の順序)、4章(句読点のうちかた)だけでも読んでほしいです。
私も今まで感覚的に思っていたことが原理原則に落とし込まれていて感動しました。
日々の生活に生かしていきたいです。
Posted by ブクログ
2018年ころ何とか読んだ。私には読むのに根気のいる内容で、だいぶ時間を掛けて、頭に入ったのは主語の位置は術後と近付ける方がよいということだった。他にも多くのことが書かれているが、頭に入りきらない。でもこの一つが私には大きなことで、しかもとても実証的なので、しっかり身についた。
それから6年後、改行についてわからなくて、もう一度この本を開いた。これ以上直感的に説いてくれる本はないのではないか。手に取るたびに目からウロコ、勉強になる。勉強不足の私が述べても説得力はないだろうが、本当に深い本だと思う。
再読組です
高校の時眺めた記憶があるが、何一つ身についていなかった。
改めて読むと、これは技術の話。
読みにくい文章を例示して、いかに読みやすくするかが例示されている。
大変分かりやすい。いい買い物した。
お好みで。
日本語の文章の勉強
普段日本語を何気なく書いていますが、人から伝わりにくい、わかりにくいとご指摘受けることがあり、この本を紹介され読みました。文章の構成、「、」の位置、「は」と「が」の違いなど例文にて分析されていました。
とてもわかりやすく考えさせられました。これから文章の書き方を変えて伝わりやすい文章を書きます。ありがとうございました。
Posted by ブクログ
私達が日頃感じている悪文を悪文たらしめる原因を大量の例文を用いて言語化し、読みやすい文章になるための原則という形でまとめている。実践するのはなかなか難しそうだが…
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タイトルにあるように作文能力もれっきとした技術なのである。
高校の時の世界史の先生がお薦めしていた一冊。
何も印象に残っていなかったが、今読み返してみたらハマる箇所もあった。
書く技術を学ぶことで、読むこともより豊かになる。言葉に対するアンテナをもっと鋭くしていきたい。
Posted by ブクログ
作文技術を体系的に習ったことが無いので読んだ。
分かりやすい文章を書くには、修飾する側の語順や読点の位置などの誰でも習得できる技術が重要であることを知った。そのような文法的な技術に加えて、自分の実感を伴わない浅い表現(紋切り型の表現)ではなく自分が感じたことの本質を自分の言葉で伝えることができれば、より魅力的な文章を書けるようになる。巷で使われている言葉を使って楽をしてしまうことを「通念化の衝動」と表現していたが、自分はよくそれをしてしまうなと感じた。それっぽい文にはなるが、そこに書き手独自の捉え方は消えていて、面白みがない。
最後の方の章で文章のリズムについて書かれていた。今まではなんのこっちゃの領域だったが、作文技術の基本や良文悪文の解説を様々な視点から読んだ後だと、文章のリズムも理解できるようになった。
有名な作品で、至高な表現やリズムを楽しんでみたい
Posted by ブクログ
学びは多いが、著者の偏屈さに耐えなければならない。
日本語の構文を分析的に説く中で、翻訳に言及する部分がある。「翻訳とは、シンタックスを変えることなのだ」とあるように、語・句の意味だけ考えて外国語を頭から訳しても日本語として適切な文にならないというのはその通りだろう。多くのビジネス系の訳本の読みにくさに合点がいった。
ひと通り原則論を述べた後で、ルポのテンスや文のリズムの取り方に触れる。ここでは分析とまではいかないが、著者の工夫によって名文に施された配慮がわかるようになっている。
現場経験に培われた著者の日本語運用能力は確かである一方で、表現に対する許容範囲は狭い。結局、なぜ面白い落語の語り口と「全く同じことが文章についてもいえる」のかは、著者の主観的で断定的な記述に拠るしかない。
ほかにも内容には差し障らない程度の偏屈さが散見され、人によっては耐えられないかもしれない。
Posted by ブクログ
やはり点の論理的な打ち方を説明した部分が内容として特徴である。
語順についてはp86の要約を参照。❶❷が最重要
❶節を先に、句をあとに。
❷長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。
❸大状況・重要内容ほど先に。(←これはよくわからん)
❹親和度(なじみ)の強弱による配置転換
また漢字と仮名については、決まりはなく前後で多く続かないように切り替えれば足りる。
点についてはp130の要約を参照。
❶長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(重文の境界も同じ原則による)
❷原則的語順が逆順の場合にテンをうつ。
③筆者の考えを示す自由なテン。
8章 無神経な文章は、個人的に同意できるところが多い。「慣用句」を使いすぎないようにしたい
Posted by ブクログ
仕事で文章作成する時に悩むことが多いので大変参考になった
正直全ての主張に対して同意が出来るわけではないが、考えるキッカケになってくれたので有難い
助詞を使って並列関係を表す時は英語と同じように「A,B,CやD」が正しいと思っていたが違ったのか
Posted by ブクログ
・修飾語被修飾語の距離は近く
・修飾の順序は節を先に、句をあとに。句の連続は誤解を招く
・修飾は長いものを先に、短いものを後に
・大状況から小状況へ、重大なものからそうでないものへ
・親和度の高い単語は近くにあると混乱するので配置を遠ざけるなど工夫する
・句読点のテンの意味は、思想の最小単位を示すこと
・語順が逆順の場合にもテンをうつ
・長い修飾語が二つ以上ある時、その境界にてんをうつ
・重文の境目、述語が先に来る倒置文、驚嘆、挿入句の前後
日本語もプログラミング言語も語であり、根源的な性質が同じものであることがよくわかる本。
そして改めて日本語の難解さあるいは用法を誤ることで齟齬が生まれやすい繊細さがわかる。
文章もソースも簡潔で正確なものが望ましい。そうでなければバグが氾濫し、リファクタリングの大変な代物ができあがってしまう。
Posted by ブクログ
書き手にとっての良い文章と読み手にとっての良い文章は異なる。当たり前のことなのだけど、その理由を解きほぐしてくれるこの本はとても参考になる。職業上、文章を書くことが多いのでまた見直したい。
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少し前に書かれているので、サンプルなど読みづらいところはあるが句読点や、助詞など文章を書く上の基本的なお作法が解説されている。 他人に伝えるための文章を書くのであれば、基本をさらういみても、読んだ方が参考になると思う。
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読み進める度に、自分のSNSで投稿した文面を思い出して恥ずかしい気分になる。
文章の後に(笑)と、表記するのを本田さんはどう感じているんだろうか。
そんなことを思いながら読みました。
とても面白かったです。
Posted by ブクログ
句読点の打ち方、助詞の使い方が参考になった。
無神経な文章の章は、著者の批判が過ぎるところも感じたが、自己満ではなく読み手を読む気にさせる気構えは大切だと思った。
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句読点の打ち方が非常に勉強になった。
この章だけでも読む価値がある。
特にテン「、」の打ち方は明確なルールが無いので、個人差があるところだと思うが、テンの打ち方の考え方に大きな影響を受けた。
Posted by ブクログ
読み手を強く意識した一冊で、足りない技術を丁寧に教えてくれる本だと感じた。体言止めが下品だという意見は時と場合によるが、読み手を意識すると、体言止めは確かに読み手との間に壁を作る印象が個人的にはある。加えて、句読点の位置を以前より意識するようになった。昨今は生成AIで修正してもらうこともできるが、基礎知識を身につけておくに越したことはないと思う。
Posted by ブクログ
この春、通信教育で大学院に入学し、改めて文章の書き方について勉強しておきたいと思って購入。
仕事でも文章を書く機会が多いので、仕事にも役立ってます。
Posted by ブクログ
日本語で文章を作る、という作業ももう一度見つめ直す良いきっかけとなった。
主に、私が今後意識するポイントは大きく分けて以下3点だ。
1.修飾語の順序
節を先に句を後に、長い修飾語ほど先に短いほど後に、大状況・重要内容ほど先に、親和度(言葉同士のなじみ度合い)の強弱による配置転換
2.句読点の打ち方
長い修飾語が二つ以上ある時にその間に
原則的語順が異なる時
3.はの使い方
一つの文に3つ以上使わない。
は、は便利だが題目、対象(限定)等用途が様々なので使い過ぎには注意
Posted by ブクログ
・節を先に、句を後に。
・長い修飾語ほど先に、短いほど後に。
・大状況・重要内容ほど先に。
・なじみの強弱による配置転換。
・第一原則:長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(重文の境界も同じ原則による)
・第二原則:原則的語順が逆順の場合にテンをうつ。
・ひとつの文(または句)の中では三つ以上のハをなるべく使わない(二つまでとする)。
Posted by ブクログ
私には文章が硬く感じられ、努力して読み終えました。普段からあまり読書をしていないのを反省しました。
修飾語の順序や句読点の打ち方などの説明が、勉強になりました。今までなんとなく書いていた文章を見直すきっかけになりそうです。
有名な本の書き出しを集めたところも面白かったです。
ただ、他人の文章への批評が、言い過ぎと感じたり好みに合わないところもありました。
Posted by ブクログ
日本語の文章を分かりにくくしている要因を分析しながら、作文の原則を書いていった1冊。
名作ということで読んでみたが、著者の主観が混じっていたり文章の構成が分かりにくかったりと微妙な感じだった。
伝えようとしているエッセンスは間違ってないとは思うが、あとから読み返したり復習させる気が全くない。
読点の打ち方、修飾の順番などは面白いとは思った。