【感想・ネタバレ】<新版>日本語の作文技術のレビュー

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ネタバレ

②長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。
 もちろん、それぞれのケースによって他のさまざまな要因が絡んでくる。しかしこの原則は、物理的な単なる「長さ」だけの問題であるにもかかわらず、文のわかりやすさ・自然さを決めるための最も重要な基礎をなすものといえよう[注1]。新聞社に就職して最初校閲部にいたころ、記事をわかりやすくするためゲラ刷りで順序を入れ替えているうちにこのことに気付いたけれども、すでにこれは原則とされていることを私が最初に教えられたのは、やはり北海道でのかけだし記者のころ読んだ岩淵悦太郎氏編著による『悪文』という本だった。奥田靖雄著『正しい日本文の書き方』からの引用としてかんたんに紹介されているが、私には現場への応用実践としてたいへん有益だった。この第三章はこうした背景を発展させたものといってもよい。
 そこで先の「ライトを消して……」の例をもう一度検討してみる。長い修飾語の順だと、
ライトを消して
止まらずに
速く (走る)
 となって、これが最も自然で、誤解をうけることの少ない語順である。「止まらずに」を先にすると、原則にははずれるから変調子になる。
 かくて、語順には第二の法則があることが理解できた。これらの原則は決して、よくある「主語と述語は近くあるべし」といった文章論と同じものではない。たとえば「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」という表現であれば、前章で明らかにされたように、正しい関係を論じたことになろう。問題の本質は、いわうる「主語・述語」かんけいではないのだ。たとえば、次のような例で考えてみる。
A 明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
B 私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。
 右の二つでは、Aの方がイライラしなくて読める。なるほどこの場合は、いわゆる「主語・述語」がAの方が近いからわかりやすいともいえよう。では、次の例はどうか。
A 明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできたわたしは直感した。
B この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。
 この二例では明らかにBの方がわかりやすい。しかしいわゆる主述関係からすれば、Aの方がわかりやすくなければならぬはずである。これは実は当然であって、「主述関係」などというものは、日本語の作文を考えるとき、百害あって一利もないのである。これらの実例を支配する原則は、さきの「長い修飾語を前に」に相当する。
明日はたぶん大雨になるのではないかと
私は (思った)
 つまり、どちらも「思った」という述語にかかる二つの修飾語のうち、「私は」は物理的に短いから後にする方が良いに過ぎない。同様に、
この地方の自然に長くなじんできた私は
明日は雨だと (直感した)
 の場合も、「……私は」が単に長いから前にする方がよいのである。
 さて、「初夏の雨が……」の文例を検討中に保留しておいた件があった。それは次のような比較である。
 A もえる若葉に歌!?潤いを初夏の雨が与えた。
 B 豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。

 a もえる若葉に豊かな潤いをを雨が与えた。
 b 豊かな潤いをもえる若葉に雨が与えた。
 さきにaとbとでは、aの方が優ることがわかったが、それはAとBとでも同様であった。この原因は何であろうか。別の例で考えてみよう。
 太郎さんが
薬指に
ナイフで (けがをした)。
 これは「けがをした」という述語に、たいして長短のない三つの修飾語がかかっている。明らかに自然な語順は
 太郎さんがナイフで薬指にけがをした。
太郎さんが薬指にナイフでけがをした。
の二つであって、反対の悪い例は次の四つだろう。
 ナイフで薬指に太郎さんがけがをした。
 薬指にナイフで太郎さんがけがをした。
 ナイフで太郎さんが薬指にけがをした。
 薬指に太郎さんがナイフでけがをした。
こんな例はどうだろうか。
 日本列島の上空に
 花子の放った風船が
 小さな点となって (消えていった)
明らかにまずい順序は、「小さな点となって」を先にする場合だ。
 小さな点となって日本列島の上空に花子の放った風船が消えていった。
しかし、これとても「小さな点となって」を長くし、他を短くして「長い修飾語は前に」の原則に当てはめてみると、
 上空に
 花子の風船が
 針の先のような小さな点となって (消えていった)。
となり、「針の先のような小さな点となって 」を冒頭においてもよくなる。したがってあくまで長短に大差ないもの同士としてこれまでの例から考えてみると、まず、
 Aが
 Bを
 Cに (紹介した)
このABC三者は、重要性やら状況やらが平等であり、対等である。ところが、
 初夏の雨が
 もえる若葉に
 豊かな潤いを (与えた)
となると、長短問題や格助詞の点からは三者平等だが、内容の意味するところが平等ではない。たとえば、「初夏の雨」が全体の中で占める意味は最も重く、大きな状況をとらえている。しかし。「豊かな潤い」は、「初夏の雨」という状況のなかでの小さな状況であり、「もえる若葉」のさまざまなありようの中の、ひとつのあらわれ方にすぎない。そこで――
③大状況から小状況へ、重大なものから重大でないものへ
という第三の原則があることに気付く。だからこの場合の最良の語順は、
 初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。
であり、最悪の語順は、
 豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。
 となろう。もう一つの例でも、「けがをした」という大黒柱にかかる三つの言葉の中で、大状況あるいは重要なのは「太郎さん」であって、決してナイフではない。また「小さな点となって」も「日本列島の上空に」より小状況であり、重要ではないことはもちろんであろう。

 たとえば翻訳の直訳調がわかりにくい理由を考えてみよう。「甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ」という文は、言語がイギリス語である場合、「甲ガ紹介シタ、乙ニ丙ヲ」という語順になっている。これだけが、イギリス語の唯一の語順だ。そこで未熟な翻訳者は、単に述語をあとに移すだけの操作をして「甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ」と訳す。もちろん文法的にこれが間違っているのではない。だが、第三章「修飾の順序」を思い出してみよう。
 Aが
 私の親友のCに
 私が振るえるほど大嫌いなBを (紹介した)
これをイギリス語のシンタックスのとおりにならべてゆくと次のようになる。
 Aが私の親友のCにふるえるほど嫌いなBを紹介した。
これがすなわち「翻訳調」なのだ。イギリス語のシンタックスを日本語にそっくり移している。いったいどうして、格の順序が別の原則からなっている日本語に、イギリス語の「主語」感覚の語順をそのまま移さねばならぬのか。翻訳とは、二つの言語の間の深層構造の相互関係でなければならない。第二章で「翻訳とは、シンタックスを変えることなのだ」と言ったのは、このような意味である。表層構造はそのまま日本語の表層構造に変えてみたところで、いわゆる文法的には(表層構造上は)正しくても、本当の日本語に訳してみたことにはならない。


「抜けるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……
 雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。かっこいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。
 こうしたヘドの出そうな言葉は、どうも新聞記者に多いようだ。文章にマヒした鈍感記者が安易に書きなぐるからであろう。一般の人の読むものといえば新聞が最も身近なので、一般の文章にもそれが影響してくる。入江徳郎氏の『マスコミ文章入門』は紋切型の例として「――とホクホク顔」「――とエビス顔」「複雑な表情」「ガックリと肩を落とした」等々を論じた後、次のように述べている。
 紋切型とは、だれかが使いだし、それが広まった、公約数的な、便利な用語。ただし、表現が古くさく、手あかで汚れている言葉だ。これを要所要所で使用すれば、表現に悩むことも苦しむこともなく、思考と時間の節約が可能になる。それ故に、安易に使われやすい。
 しかし、紋切型を使った文章は、マンネリズムの見本みたいになる。自分の実感に寄らず、あり合せの、レディーメイドの表現を借りるのだから、できた文章が新鮮な魅力をもつわけがなかろう。
 紋切型を平気で使う神経になってしまうと、そのことによる事実の誤りにも気づかなくなる。たとえば「……とAさんは唇を嚙んだ」と書くとき、Aさんは本当にクチビルを「歯でギュッとやっていただろうか。私の取材経験では、真にくやしさをこらえ、あるいは怒りに燃えている人の表情は、決してそんなものではない。なるほど実際にクチビルを噛む人も稀にはあるだろう。しかしたいていは、黙って、しずかに、自分の感情をあらわしようもなく耐えている。耐え方の具体的あらわれは、それこそ千差万別だろう。となれば、Aさんの場合はどうなのかを、そのまま事実として描くほかはないのだ。「吐き出すように言った」とか「顔をそむけた」「ガックリ肩を落とした」なども、この意味で事実として怪しい決まり文句だろう。
<中略>
 野間宏氏編による『小説の書き方』という本がある。野間氏を含めて小林勝・伊藤整・椎名麟三・瀬沼茂樹など一〇氏がそれぞれの考えを述べたものだ。もちろん小説の創作のために書かれたのだが、読んでみると文章一般に通ずるたいへん参考になることが多い。表題を「記事の書き方」とか「文章の書き方」としてもよいくらいである。この中で伊藤整氏は次のようなことを書いている。
   菫の花を見ると「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちを抱くのである。しかし、その一瞬後には、常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。
 右の中の「たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしま」うとあるのが特に重要な指摘だ。「負けてしま」う結果、その奥にひそむ本質的なことを見逃してしまう。だから紋切型にたよるということは、ことの本質を見逃す重大な弱点にもつながる。

中学生のころ私はラジオで落語ばかりをきいていて、よく「また落語!」と父にどなられていたけれど、いくら叱られてもあれは実に魅力的な世界だった。ずっとのちに都会に出て実演を見たとき驚いたのは、落語家たちの間の実力の差だ。ラジオでももちろんそれは感じたけれど、実演で何人もが次々と共演すると、もうそれはまさに月とスッポン、雲と泥にみえる。私の見た中では、やはり桂文楽がとびぬけてうまかった。全く同じ出し物を演じながら、何がこのように大きな差をつけるのだろうか。もちろん一言でいえば添それは演技力にちがいないが、具体的にはどういうことなのか。
 落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では、落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。眼じりひとつ、口元ひとつの動きにも「笑い」に通じるものがあってはならない。逆に全表情をクソまじめに、それも「まじめ」を感じさせないほど自然なまじめさで、つまり「まじめにまじめを」演じなければならない。この一点を比較するだけでも、落語家の実力の差ははっきりわかる。名人は毛ほどの笑いも見せないのに反し、二流の落語家は表情のどこかに笑いが残っている。チャプリンはおかしな動作をクソまじめにやるからこそおかしい。落語家自身の演技に笑いがはいる度合いと反比例して観客は笑わなくなっていく。
 全く同じことが文章にもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、描く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。野間宏氏は、このあたりのことを次のように説明している。
文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来あがったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければいけないのである。対象の特徴そのものが、その特徴のふくんでいる力によって人に迫ってくるようになれば、そのとき、その文章はすぐれた文章といえるのである。(『文章入門』)

東京・新宿の「朝日カルチャーセンター」という市民講座で、一種の文章講座を担当する機会がありました。一九七四年の秋、一周一回二時間ずつの二か月間。聴講生たちの職業は学校教師やジャーナリスト・商店主・主婦・学生など、また年齢的にも二〇歳前後から六〇歳くらいまで非常に広範囲のかたがたでした。全部で八回だけの講座だし、日本語を描く職業のいわば現場にいるものの一人として、文章には一応の関心も持っているのだからと、かんたんに考えて私は始めたものです。想えば、講義に類することは私にとってこれが生まれて初めてでした。
ところが第一回の講義が半分もすすまぬうちに、これは大変なことを始めてしまったと思いました。初めての講義ですから、不慣れで、不細工で、不手際なことは言うまでもありません。それは覚悟していたことです。大変だと思ったのは、第一に聴講生たちの熱心さに圧倒されたからであり、第二に、その熱意に応ずるだけの密度の高い講義を八回も続けることができるだろうかという不安を感じたからでした。講義の途中からほとんど冷や汗の出る思いでしたが、まさか投げ出すわけにもゆきません。耳の不自由な聴講生も一人いて、奉仕者がそばで手話の通訳をしている姿を見ると一層あせってしまいます。
こうして第一回の講義は、なんとかゴマ化すようにして終わりました。実は広義の準備など、前日に一時間くらいさいてメモをとっておけばいい、日ごろ文章について抱いている雑感を話せばいいくらいに考えていたのです。ところが実際にやってみたら、メモにしておいてことは予定より半分以下の短い時間で話してしまった。これではあと三回くらいでもう話すことがなくなってしまうではありませんか。
そこで第二回からはメモをやめて、二時間の内容をすべて完全なかたちで原稿に書くことにしました。実行してみると、私自身これはたいへんな勉強になります。たとえば作文上のある原則を講義するにしても、メモだけであればその原則を示すだけで終わるところですが、こうして原稿のかたちに完成しようとすると、その原則がなぜ有効かという背景の分析にまでたちいらざるをえないからです。だから「大変だ」とは思ったものの、べつに後悔はしませんでした。むしろ感謝した。そのかわり準備には「一時間くらい」どころか一回分に二日も三日もかかりました。新聞記者としての現場の仕事がその影響を受けて、いくらか手ぬき工事になったかもしれません。

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2024年03月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

■ひとことで言うと?
 書く「技術」が文章のわかりやすさを左右する

■キーポイント
 ・作文は「技術」
  →わかりやすい文章の書き方は修得できる
 ・言語は社会の論理
  →あらゆる言語は利用されている社会において「論理的」である
   →西洋文法の導入で日本語の論理性は崩壊した?
 ・作文技術
  →修飾:修飾順に注意する(修飾関係が明確になるようにする)
  →句読点:不要なテンは打たない(テンは思想の最小単位)
  →助詞:明確な意図を持って要否を決める(一文字の有無で文意が変わりうる)
  →段落:不要な改行をしてはならない(段落は思想表現=思想提示の単位)

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2021年04月27日

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